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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
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玄道…

 冬の午後は短い。太陽がほんの少し傾いただけであたりはすぐに灰色に染まっていく。


 僕は学院の裏手、樹々の葉を落とした並木道をひとり歩いていた。

 吐く息が白い。マフラーの隙間から首筋に風が入り込む。でも、寒さよりも胸の奥のざわめきの方がずっと強かった。


 今日は──お姉さまとの最後の「テスト」。


 卒業式が迫る中、きっとお姉さまは忙しいはずだ。それでもこの日を選んでくれた。ずっと引っ張ってくれた背中と今度は向き合わなければならない。


 畏れと、敬意と、ほんの少しの寂しさ。

 それでも足は止まらない。


 稽古場が見えてくる。


 ……初めてこの学院を訪れた日のことを、ふと思い出した。


 まだ春の匂いが残っていたあの日。

 女装して女学院に通うなんて無茶、周囲の視線が怖くてできるだけ目立たないようにとそっと歩いていた、憂鬱で現実逃避な妄想をしてた。

 そのとき──。


 「貴方……男の子ね?」

 

 そう言って不意に伸びてきた脚。どう誤魔化そうかと考えあぐねるうちにそれは僕の急所を見事に打ち抜いた。

 あの時の衝撃と息もできないほどの痛み──は今でも思い出せる。……あと何故か空の色。

 膝から崩れ、視界が歪んだ中で見上げたお姉さまは、妖しく上気してて……でも、とても美しかった。


 「ほら、やっぱり」


 その言葉、今も胸に残っている。痛みと共に刻まれたあの日が僕のすべての始まりだった。


 それからの日々は苦難の連続だった。

 お姉さまの稽古は容赦がなかった。形だけでもと構えれば打たれ、気を抜けば金的に蹴りが飛んできた。

 油断すれば床に沈む。「絶対に痛くないファールカップ」を着けていても男の悲しい習性か股間を押さえてしまう。そんな僕をいつもお姉さまは淡々と──けれどどこか楽しそうに技を教えてくれた。

 それに月に一度、ファールカップ無しで行われる「テスト」……。


 あの頃は武道を教えてほしいと頼んだことを後悔して何度も泣きそうになった。

 でも、今は……。


 「……今は、もう泣かない」


 誰に向けてでもなく、そっと呟いた。

 僕はあの頃よりも、少しだけ強くなった。お姉さまに教わったすべてを今日ここで出し切るんだ。


 木の扉を開ける。懐かしい香り──木と汗と、少しだけ血のにおい。

 数え切れない金的の記憶と、そのたびにくれたお姉さまの助言や手当の温もり。


 いつかこの場所でお姉さまに「一撃」を返すと心に決めた。その日が今日なのかもしれない。

 呼吸を整え、ゆっくりと正面に立つ。


 ──すると、扉の向こうから、足音が近づいてきた。

 静かな気配。重すぎず、軽すぎず、それでいて凛としていて。僕はすぐに分かった。


 「……待たせたわね」


 扉が開き、あの人が現れた。

 お姉さまは道着に袴姿。髪を結い、目元に一切の迷いはない。だけどその姿にはどこか旅立ちの気配が漂っていた。


 「……ありがとうございます。こんな時期なのに時間をとってくださって」


 「卒業式の練習なんて棒立ちで歌うだけの作業よ。それより貴方との最後の稽古、最後の『テスト』の方がずっと大事だわ」


 すっと近づく彼女の瞳は鋭くもやさしい。これまで何度この視線に射抜かれてきたことか。


 「瑞祈──最後の組手、やる覚悟はあるかしら? 無論、ファールカップはナシ」


 「……あります。今日、ちゃんと……答えを出します」


 彼女はほんの少しだけ唇を緩めた。


 「そう。それならば容赦はしないわ」


 構えを取る。足の裏が床を踏みしめる音が遠く響く。

 僕もお姉さまも静かに構えた。


 最初に教わった構え──玉護(たまもり)


 それは単なる防御ではない。

 最大の急所である金的を守り抜くという意志、閉じていながら自然体、最小の力で最大の生むための「受けの型」。

 でも、それを真正面から打ち破ってこそ僕の成長は証明される。


 呼吸が合う。空気が張り詰める。まだ技は交えていない。けれどすでに心は交錯している。


 「この学院でのあなたのすべてを。私に見せてちょうだい、瑞祈」


 その言葉が胸に届く。もう逃げない。僕の道は僕が選ぶ。


 金的が静かに脈打った──


 最後の稽古が、最後の「テスト」が始まる──


 稽古場の空気が張り詰める。


「始め」


 その声と同時に空気が跳ねた。

 お姉さまの初撃は、掌底。鋭く伸びた腕が喉元を狙ってくる。


(──避けられる)


 玉覚が走る。わずかに体をそらし、その腕を外に流す。


(でも──)


 「っ!」


 肘を返しての打ち下ろし。玉覚の予測にはなかった軌道。


 (早い……!)


 僕は後退しつつ、金的を守るように脚を交差させる。

 だが、お姉さまの足が──金的ではなく、僕の腰へ鋭く入り込む。


 (痛……っ!)


 体が一瞬崩れた。バランスを取るために脚を開いた瞬間、


 ──膝!


 金的を狙ったお姉さまの膝が迫る。玉覚がぎりぎりで反応し、手で受け止める。だが、その衝撃は手の骨にまで響く。


 (重い……この一撃一撃が、芯から削ってくる……!)


 ──

 組手は続いた。玉覚は僕に予測の力をくれる。突き、蹴り、払い──そのすべてが寸分の隙もなく繋がる。けれどお姉さまの攻撃は、あまりにも多彩で、読んだ先にさらに先がある。僕に玉覚があることを見越して、わざと読ませてさえいるかもしれない。

 拳、掌、足、膝──金的を狙うように見せて喉。喉を狙うようで膝下。

 数手に一度は本当に金的が混じっている。それが恐ろしい。だから玉覚を解除できない。だから玉覚が暴れ出す。


(くる……金的だ!)


 玉覚が発動する。空間の動きが、ゆっくりになる。

 彼女の重心。左膝の角度。蹴りの軌道と速度。すべてが情報として僕の中に流れ込む。

 反射で構えを閉じ、金的への直撃を防ぐ。けれど、そのままではカウンターが間に合わない。


 (今だ……回せ!)


 その瞬間、僕は軸をずらし、お姉さまの腕を巻き込むようにして押し返した。

 足音が走、互いの距離が再び開く。


 「なるほど……」


 お姉さまの口元がわずかに綻ぶ。


 「完成には程遠いけど玉覚は確かにあなたに根付いているようね」


 僕は頷いた。息が上がっているのが分かる。玉覚を維持するのは思った以上に負荷が大きい。


 「でも……気をつけなさい」


 お姉さまの表情がふっと翳る。


 「玉覚は、玉の痛みと恐怖に由来する力よ。深く使えば使うほど、自分の肉体と意志の境界が曖昧になる。暴走すれば、『貴方』という存在を、急所の意識が支配する」


 (……そうだ。制御の修行のときにも感じた、もうひとりの自分の声。あれは──)


 「それでも、この力にすがるというのなら……」


 彼女の脚が、再び宙を裂いた。


 ──本気の金的。


 鋭く、速く、狙いは急所ど真ん中。僕は避けない。玉覚が加速する。風の音が聞こえ、彼女の膝の震えまでもが見える。

 その一撃を──交差させた両腕で受けた。

 激痛が腕を走る。だが、守れた。守ると決めていた。

 僕はそのまま腕を跳ね上げ、お姉さまの足を浮かせ──空いた下段に足を差し込──できなかった。


 (まずい……玉覚が……)


 体温が上がる。視界の輪郭が歪んでくる。呼吸が浅くなる。


 (これ……玉覚の、オーバーヒート……)


 でも、やめない。止まれない。ここで負けたら何も変えられない。



 (……もう一度!)


 玉覚が限界に達しようとしたその瞬間、僕は一歩踏み込んだ。

 お姉さまの金的フェイントをあえて受け、軸をわずかにズラす。その動きが彼女の目に「反応できなかった」と映ったのか──油断が生まれた。

 すかさず僕は腕を返し、彼女の脇を取る。


 「──ッ!?」


 その驚きの息遣いと同時、僕の膝が彼女の背後に回り込む。


 (玉覚──もう少しだけ!)


 全身が火照っている。股間に熱が集中しているのがわかる。だけど、この一瞬にすべてを賭ける。


 「せいっ!」


 僕の膝が、お姉さまの後方から寸止めで突き上がった。


 ──その距離、数ミリ。


 でも彼女は動けなかった。完璧に決まった。背後からの金的。


 「……一本」


 その小さな声が響いた。


 お姉さまは崩れ落ちそうになりながら、ぎりぎりで片膝をついて姿勢を保った。


 「……信じられない」


 お姉さまが少しだけ笑った。

 でもそれは、どこか嬉しそうな笑みだった。


 「本当に貴方が私に金的で勝つ日が来るなんて……」


 「……寸止めです。でも……本気で打ちました」


 「分かってるわ。その意志が伝わったもの」


 僕もまた──同じように、倒れ込みそうになっていた。

 視界がぼやけて、吐き気のような熱がこみ上げる。


 (だめだ……終わった瞬間に玉覚が……)


 そのときだった。


 「──くっ……!」


 堪えていた何かが外れた。ふくらはぎがつり、腰に電流のような痛みが走る。でも一番強烈だったのは、熱を持って腫れ上がったような、股間の違和感だった。


 「……瑞祈!」


 お姉さまが僕を抱きかかえる。


 「だめよ、無理をしすぎたわ。股間、熱が……!」


 彼女は慣れた手つきで懐から冷却パックを取り出す。


 (なんで持ってるんだろう……いや、今はそれどころじゃ……)


 「はい、脚開いて」


 言われるがままに開脚させられ股間に冷却パックを当てられる。


 「……んッ……」


 情けない声が出てしまう。でも、冷たさが……気持ちいい。


 「よしよし。……男の子にはこういう優しさも必要でしょ?」


 優しい声。だけどその奥にどこか嬉しそうな響きがあったのは──僕の気のせいだろうか。


 「……勝ったのね、私に」


 お姉さまが、そっと微笑む。


 「勝ってくれたわ。ようやく、安心して卒業できる」


 「……僕、ずっと怖かったです。金的の痛みも、玉覚の制御も、そして……お姉さまを失うことも」


 「でも乗り越えた。ちゃんとね。あなたは、前に進める」


 冷却パックから手を離し、彼女がそっと僕の頭を撫でる。


 「股間の痛みを抱えながら、それでも立ち続けたあなたを、私は誇りに思うわ」


 武道場に夕日が差し込む。

 その静かな空間にただふたりの呼吸だけが溶けていた──



 ──


「お姉さま……僕、僕は──」


 股間の熱が冷めた頃、こらえていた感情が溢れそうになる。


「怖かったんです、ずっと。誰かに守られてるままじゃいけないって思って。……でもそれが怖くて──!」


 涙がこぼれそうだった。そんな僕の胸元に静かに腕が回された。


「……もう、貴方は守るべき子じゃない」


 耳元で、お姉さまが囁く。

 その声に、ほんの少し甘えたくなった瞬間──


 ──ゴッ


「…………っっっっっ」


 まさかの金的。まるで無慈愛の象徴のような音が僕の脚のあいだで響いた。

 だけど……だけど不思議と──


(静かで……やさしい……)


 股間の奥がきゅうっと締まって身体が崩れる。


 でも、泣いているのか笑っているのか分からない顔で、僕はお姉さまを見上げた。


「ありがとうございました……っ」


 お姉さまはしゃがみ込み僕の額を優しく撫でた。


「儀式よ、これは。卒業の……お別れ金的。忘れないで」


 それは、確かに痛かった。

 けれど、痛みを通し、僕はこの場所で確かに「自分」を見つけた気がした。


 ──金的があるから強くなれた。

 誰かに守られるのではなく、それでも前に出る覚悟が芽生えた。


 この身体で、この道を選んで、僕は本当によかった。今はそう思える。



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