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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
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恒瀞…

 夕刻の稽古場。窓から差し込む陽光はもう透き通るような冬の色。吐く息がうっすらと白く染まる。しんと静まり返った空間に彼女の声が凛と響いた。


「──ねえ、ボクと一度、手合わせしてくれないかな?」


 静かで、でも真剣な碧眼。セレストさんはまっすぐ僕を見ていた。


「お姉さまとの組手も近いだろうし、模擬戦として。……それに、ボク自身のけじめのためにもね」


「……金的も、アリ……ですか?」


「もちろん」


 彼女の微笑みはどこか切なげで、それでいて眩しかった。


 ──


「全力でいくよ。もう『好きな人』としてじゃなく、『瑞祈くんの覚悟を確かめる試練』として」


 構え合う。空気が張り詰める。セレストさんは一拍遅れて独特のリズムで踏み込んできた。柔らかい動きから鋭く膝を突き出すフェイント──!


(来る!)


 僕は反応した。交差した腕で下段を守りつつ、バックステップで距離を取る。しかし──


「逃がさない!」


 セレストさんが舞うように旋回しながら、遠心力を乗せたもう一方の足で正面から蹴りを放つ。速い。玉覚がなければ反応すらできなかっただろう。


 僕は滑るように下がり床を蹴って反撃──掌底を放つ。だが、空を切る。


「まだまだっ!」


 彼女の肘打ちが迫る。紙一重で頭を下げて回避する僕。返すように今度は足払い──


「──いいね、今のは!」


 転ばず跳ねて避けるセレストさん。その脚が、一瞬、閃光のように動いた。


(また、金的──!?)


 玉覚がけたたましく警鐘を鳴らす。反射で膝を閉じ斜めに身をよじる。……スレスレで爪先が股間を掠めて外れた。でも、その直後、彼女の拳が脇腹に入った。


「くっ……!」


 よろめきながら体勢を立て直す。痛みが走るが、思考はクリアだ。


(強い……でも……今の僕は、一方的にやられてるわけにはいかない!)


 僕の玉覚は、今、限界のさらに先を感じようとしている。視界の中で彼女の動きが……読める。いや、違う──無数にある未来の中から、最適なルートを「選べる」気がする。


(今だ──!)


 セレストさんの左手が上がった瞬間、足の重心がコンマ一秒ズレたのを察知。その隙を見逃さず、僕は一気に間合いを詰めた。掌底を、彼女の中心コアに──


「……!」


 バシュッ!


 空気を切る音と、確かな手応え。セレストさんの体が一歩分後ろに大きくのけぞった。追撃はしない。その必要がなかった。


 彼女はその場で片膝をつき、目を閉じて……ふっと笑った。


「──参った。……完敗だよ、瑞祈くん」


 息を切らせたまま、彼女は立ち上がる。その顔には、悔しさよりも、どこか晴れやかな色が浮かんでいた。


「これなら……納得しないわけにはいかないね。ボクを倒した人がお姉さまに挑む。最高にドラマチックで、誇らしいよ」


「セレストさん……」


 ……僕は言葉が出なかった。彼女が身を引こうとしているのが分かったから。


 そのとき──彼女は一歩前に出た。


「……ねえ、最後にお願いがあるの」


 彼女の手が、僕の肩に置かれる。至近距離。彼女の甘い香りと、熱い視線が僕を捕らえる。


「……『好きだったボク』を、君に刻ませてほしい」


 そして──


 ゴッ。


 迷いなく、けれど深く。彼女の右膝が無防備な僕の急所を突き上げた。


「──ッ、ぐ……ッ……!」


 全身が凍るような痛み。呼吸が止まる。脳髄が白く弾け飛び胃が裏返るような衝撃。それでも、僕は──


(……倒れちゃ、だめだ……)


 歯を食いしばり、崩れまいと足を踏ん張る。


(……倒れたら、セレストさんを悲しませる気がする。彼女の想いを、立って受け止めなきゃ……!)


 でも──金的という器官の限界には勝てなかった。震える膝。脂汗が噴き出す。世界が歪み、どうしようもなく力が抜けていく。


 崩れ落ちる僕をセレストさんはすぐに抱きとめてくれた。優しく、壊れ物を扱うように。


「……ホント、最後まで君ってひとは……。痛いって言っていいのに。倒れていいのに」


 彼女の声は震えていた。僕の耳元で、鼻をすする音がした。


「……ごめんなさい……でも、踏ん張りたかったんです……」


「うん。知ってる。……それが君だから。好きになったの、間違ってなかったよ」


 ──

 長い沈黙のあとセレストさんはそっと離れていった。僕の股間には、焼けるような熱と痛みが残っている。


「じゃあ、ボクはもう行くよ。……お姉さまに勝ってね」


 彼女は背を向け手をひらりと振った。


「君の選んだ未来を、ボクは一番近くで応援してるから。……行ってらっしゃい、瑞祈くん」


 その痛みは──金的という形で、確かに僕の身体の深くに刻まれた。セレストさんの想い。優しさ。そして覚悟。

 ……僕の背中を押し、守ろうとしてくれた、最初で最後の「王子様」。


 僕は痛む股間を押さえながら深く頭を下げた。この痛みが引く頃には、本当の最後の戦いが待っている。

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