弩制…
人影まばらな路地を抜け、僕はひとり歩いていた。鉛色の空からは雪は止んでいるけれど、雲が低く垂れこめ、世界を灰色に沈めている。
目的地は学院の裏手にある、誰も近づかない古い竹林の奥の広場。秋には落ち葉の山だった場所も、今ではうっすらと雪が積もり、笹の葉が風に鳴る音さえ凍てつくようだ。都心から通っている子が、「この辺はちょっと気温が違う」と言っていたのを思い出す。
……サキにはまだ、顔を合わせられない。逃げたくはない。でも、今は自分の気持ちに整理をつけたい。
お姉さまにも、セレストさんにも、笛木さんにも……「まだ選べない」ということしか伝えられなかった。だから僕はひとりで来た。寒さが頬を刺す痛みが、今の僕には心地よい。
僕は黙って構え、呼吸を整えた。まずは基本の型を繰り返し、繰り返し── 冷えきった空気が肺を満たすたび意識が研ぎ澄まされていく。
玉覚に頼らずに動けるように。でも、玉覚とも向き合えるように。両手の指先までじわじわと熱が戻ってくる。
ふと、空気の流れが見えた気がした。呼吸が風と重なり、竹の揺れと僕の鼓動がひとつのリズムに溶けていく。
──そのとき、世界が反転した。
玉覚が、静かに発動した。視界の輪郭が光の粒となって膨張する。その中心に誰かがいた。いや、誰かじゃない──僕自身だった。
『選ばない理由をまだ探しているのか』
声が響く。それはどこか冷たい、でも否定的ではない、内なる相棒の声だった。
「……選ぶのが怖いんだ。誰かを傷つけることになるから」
『逃げていれば、誰も傷つかないとでも?』
「わかってる。でも……」
『おまえの抱える【痛み】は、もうおまえだけのものじゃない。おまえが選ばなかったことで傷つく者がいる。……おまえを守ろうとする者たちが』
その言葉に、思い浮かぶ顔があった。
凛としたお姉さま。太陽のようなセレストさん。背中を押してくれたサキ。静かに見守る笛木さん。
みんな、僕を信じて待ってくれている。
「……選べるようになりたい。強くなりたい」
『それなら示せ。ここで立ち止まるなよ』
風が止まり、光の粒が消えていく。気づけば肩に雪。また降り始めたようだ。
呼吸が深くなる。指先がしびれている。でも──動ける。今回の玉覚の発動は、もう暴走ではなかった。
誰かを守るために。誰かを選ぶために。その「痛み」から逃げない強さが、少しだけ宿った気がする。
ふと、ポケットの中──セレストさんとお姉さまから届いたクリスマスカードが、ぬくもりを持ってそこにあった。
──夜。静けさのなか、僕は確かに前に進み始めていた。
──
短かい冬休みが終わり、学院に活気が戻ってきた。みんなはお正月の話題に花を咲かせているけれど──僕の心は少しだけ重たい。サキとはまだ気まずいまま。セレストさんは変わらず優しく接してくれるけれど、それがむしろ胸に刺さる。笛木さんは……なんだか最近、どこか距離を置いて観察しているようにも思える。
そんな中で、放課後の稽古にだけは、なんとか気を張って足を運び続けていた。その日、稽古場に現れたお姉さまはどこか柔らかな雰囲気だった。……でも、笑顔の奥にほんの少しだけ、切なさが滲んでいる気がした。
「瑞祈、今年もよろしくね」
「はい……よろしくお願いします」
礼をして、構える。でも──打ち合いの途中、ふとお姉さまが動きを止めた。
「……春が、近づいてきているわね」
それは季節の話じゃない。僕はただ黙ってうなずいた。
「ねえ、瑞祈。わたくしの進路、気になっていないかしら?」
「え……あ、はい……。すごく気になってます」
てっきり有名大学に進学すると思っていた。何度も言うけど彼女は(金的趣味さえ除けば)完璧星人。きっとどこでも通るだけの実力はある。でも──
「……わたくし、通信制の大学に進むことにしたの」
「えっ……?」
あまりに意外な答えに、思わず聞き返してしまった。
「……たしかに成績だけなら難関大にも行けるわ。でもね──私には『悲の七日間』があるでしょう?」
その言葉に、胸が締め付けられる。過去の傷。菖蒲さんとの戦いで負った消えない後遺症。
「出席が不安定だと、通常の大学では単位も取りにくい。……そういう現実があるの。だから、自分の体調に合わせて学べる場所を選んだのよ」
「……」
「それに、通信なら……もし瑞祈がそばにいてくれたらだけど──私もあまり遠くに行かなくても済むでしょう?」
最後の言葉だけが、ほんの少し照れていた。それは彼女なりの強がりであり、精一杯の誘い文句だった。
「でも、それは瑞祈が『選んだ場合』の話」
お姉さまは背筋を伸ばして僕を見据えた。その瞳は春のように暖かくて、でも……怖いくらい真っ直ぐだった。
「貴方が答えをくれなければ──その時は、貴方のことを心の奥にしまってしまうつもり」
強く、優しい人。僕をここまで導いてくれた人。でも、お姉さまだっていつまでも立ち止まって待ってくれるわけじゃない。彼女にも彼女の人生があり、リミットがある。
ふたたび構え直したお姉さまの姿は、どこか少し遠く感じた。
「……瑞祈、貴方に教えてきたこの技も、この想いも。全部いずれは私の手を離れる。でもそれは──貴方が本当に自分の足で立てるようになったとき。『守られる男の子』から『誰かのために覚悟できる人』になれたときよ」
拳を構えるお姉さまの手に、ほんのかすかな震えを見た気がした。その一瞬が、どうしようもなく愛おしく、そして痛ましく感じられた。
卒業まで──あとわずか。
その日が来るまでに、僕は答えを出さなきゃいけない。「誰かを選ぶ」ってことは「誰かを選ばない」ってこと。
(怖い。でも、それでも──)
あの人を、笑顔で見送るために。あるいは、あの人と未来でまた並ぶために。
僕は……きっとこの冬を越える。




