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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
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怪異化

 体育の授業が終わった後、更衣室にただ一人残る。周囲の騒がしさが遠のくと静寂が訪れる。まるでこの空間に自分だけが取り残されたような気持ちになる。


 鏡の前に立ち、ジャージの裾を握りしめた。微かなため息が口から漏れる。


(この身体……やっぱりみんなとは違うんだ)


 ズボンを少しだけ下ろしスパッツ越しに自分の股間をじっと見つめた。スパッツの柔らかい布地の下に存在する自分の「金的」──その存在を感じないようにしても、ふとした瞬間に意識してしまう。


(みんなにはない、僕だけの……──)


 そっと股間に手を当てる。優しく押さえると柔らかな感触が指先に伝わってくる。


 金的はどこか「かわいらしい」ものに見える。それは男性の身体にある他のものとは明らかに異なり、どこか無垢で、男の源でありながら女性的で、守りたくなるような存在だった。だが、僕の中にはその「かわいさ」への安堵だけでなく不安も渦巻いていた。


(これさえなければ……)


 その思いが頭に浮かんだ瞬間僕は慌てて首を振った。自分の身体を否定することはしたくない──でも、それでもこの違いがいつも自分を一歩引かせてしまうのだ。


 体育の授業中、ブルマやスパッツ姿の女の子たちが無邪気にじゃれ合っていたとき、自分は彼女たちの輪の中でどうしても「自然体」でいられなかった。


(もし、僕がみんなと同じだったら……)


 その考えが胸を締め付ける。どれだけ周囲に溶け込もうとしても自分の身体はそれを許さないのだ。

 思わず拳をぎゅっと握り、股間を守るように軽く押さえた。


(僕には急所がある。でもそれがどうしたっていうんだ?)


 言い聞かせるように心の中で呟くが胸の奥の違和感は消えない。金的を守るという行為──それは単なる生理的反応ではなく、僕の心を縛りつける鎖のようにも思えた。


 ふと、つい先ほどの授業中の光景が頭をよぎる。じゃれ合いの中で、女の子たちがふざけて蹴り真似をしてきたあの瞬間、反射的に腰を引き、片手で股間を押さえて守ってしまった。


 彼女たちは笑っていた。何の気なしに──ただの冗談だったのだろう。でも、僕にとっては死活問題だった。


(……僕は、「急所」を持っている。それが僕の弱さだ)


 他の誰にも理解されない。僕の「急所」はただ僕一人が背負うべきものだったのだ。


 股間を押さえながら静かな更衣室の中で自分自身の心の声に耳を傾けた。無意識のうちにお姉さまの言葉を思い出す。


「貴方にはあるでしょ? とっても素敵な宝玉が。恐怖や痛みを超えた先にこそ、真の覚醒があるんじゃないかしら──金的の痛みのその先に、ね」


 あの言葉はいつもの冗談だったのかもしれない。


(……本当にこれが僕の武器になるのかな?)


 心に疑念が芽生える。お姉さまが言った「玉覚」とは一体何なのか。いや、そもそも存在するのか。僕の内に潜む「急所」を隠しながら強くなることができるのだろうか。


 ふと、お姉さまの表情を思い浮かべる。彼女は時折、胸の内に秘めた痛みを隠しながらも、自分を鼓舞してくれる存在だった。お姉さまの痛みや孤独を理解したいと思いながらも、自分自身が持つ「急所」に向き合えずにいる。


(僕も……強くなれるのかな?)


 再び鏡を見た。映し出されるふさぎ込む自分の姿。その顔には、迷いや不安が色濃く浮かんでいた。でも、今はその不安を乗り越えるための努力をしなければならないと決意する。


(武道で強くなることがもしかしたら僕の道になるかもしれない)


 お姉さまを思い出す度に僕は新たな決意を固めていった。自分の「急所」を受け入れ、強くなることができるのかもしれないと信じるようになったのだ。

 心の中で小さく、しかし力強く呟いた。


(僕は僕でいる。それが僕の答えなんだ)


 そう思いながらそっと急所から手を離し、スカートに穿き替える。

 孤独な戦いはまだ続くだろう──でも!


 決意を胸に抱きながら、僕は更衣室を後にした。


 ──

 教室を出てすぐ、廊下の角で不意に誰かとぶつかった。


「きゃっ!」


 僕は反射的に手を伸ばし転びそうな彼女を支えた。しかしその拍子に彼女の脚が僕の急所をかすめるように当たった。


「……っ!」


 全身が凍りついた。痛みがじわりと広がり胃のあたりが締めつけられる感覚が襲ってくる。それでも顔を引きつらせながら、なんとかに平静を装った。


「大丈夫?」


 女の子……クラスメイトの笛木さんが心配そうに顔を覗き込む。……転びそうな彼女を僕が支えたのだから、無事をたずねる関係があべこべになってしまってる……。


「だ、大丈夫だよ……」


 かすれた声で答え、気丈に微笑んでみせた。でも、そこにわずかな違和感を感じてしまったのか、笛木さんは僕ををじっと見つめてきた。


「もしかして……今のちょっと痛かったですか?」


「い、いや、別に……」


 とっさに否定するけども体の緊張はごまかしきれない。


「ふぅん……」


 笛木さんは興味深そうに僕の様子を観察していたが、ふと何かを思いついたように問いかける。


「瑞祈さん、今のってもし男の人だったらすごく危なかったりするのでしょうか?」


 ギクリとする僕。その問いはあまりにも核心をついていた。


「な、なんでそんなこと聞くの?」


 動揺を隠せないまま、僕は精一杯自然を装って返した。


「ただの好奇心です! ですが、男の人って急所があるんですよね? それってどれくらい痛いのかなって、ちょっと気になって!」


 笛木さんの口調はあくまで無邪気で、悪気など微塵も感じられない。けれど、その言葉が僕の胸に小さな、でも鋭いプレッシャーをもたらす。


「……まあ、男にとってはかなり痛い……かもね」


 なんとかそう答えたけれど、笛木さんの無邪気な関心がどこか不気味に感じられる。……彼女の顔に一瞬だけ意味深な笑みが浮かんだよう見えたけど、すぐに無邪気な表情に戻った。


「そうなんですか。じゃあ、これからもっと気をつけたほうがいいですね!」


 彼女の言葉はまるで軽い冗談のように聞こえたが、背筋にはひやりとしたものが走った。


 ──

 急所のある自分を受け入れて、僕は僕であるよう決意した矢先にこの展開……。


「とほほ……」


 ままならねってやつです……。僕はがっくりと肩を落とした。

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