巍然斜
次の日、学院に向かうとどこか空気が重たく感じた。朝日が昇り始める時間にもかかわらず周囲の雰囲気はどこか陰鬱だ。通り過ぎる生徒たちの表情は硬く、笑顔を浮かべている者はほとんどいない。まるで何かを隠しているかのように、彼女らは一様に視線を下げ、話すこともなく足早にその場を通り過ぎていく。
教室のドアを開けるといつもなら賑やかな空間が静まり返っていた。友人たちの顔にも緊張が見え、話し声は小さく、まるで何か重大な事態が迫っているかのようだ。彼女たちの視線は不安げで、何かを知っているかのような影が差している。
「瑞祈、聞いた?」と、一人の友人が声をかけてきた。その顔色は青白く、どこか怯えたように見える。
「何があったの?」
僕は不安を胸に質問する。
「お姉さまのこと……」
彼女は声をひそめ、周囲を警戒するように見回した。
「その……『ひの七日間』に入ったみたい。みんな、それを聞いて心配してるみたいで……」
(ひの七日間って結局何?)
僕は疑問を抱く。なんだか巨人型兵器たちが世界を焼き尽くす光景が浮かんだけれど、さすがに違うだろうし。友人の表情からただならぬ事態が進行していることが伝わってくる。
「知らないの? ……そういえば瑞祈は今年から入ったものね。……とその……」
声をすぼめて彼女は続ける。
「お姉さまは生理痛がとても重いの。そして不思議なことに近くにいる他の女性もその影響を受けるみたい……」
友人は目を細め、言葉を選ぶように続ける。
「だからこの期間は学院を休むことが多いの。そのことを『悲の七日間』って呼んでいるの」
とても大事なことだし、女の子にとってはその……とても身近なことなんだろうけど、「生理」と言われるとなんていうか……。多分僕は顔が真っ赤になってるに違いない。
彼女の言葉を聞いているうちに僕の心臓がドキドキし始めた。生理痛が重い? それに、他の女性たちまで影響を受けるなんて。まるで何かの呪いのようだ。
ちなみにこれは後で知ったことだけど、毎月一週間も休んで出席日数とか不安に思ったが、お姉さまの成績が極めて優秀であること、周囲にいる他生徒に影響が及ぶことを鑑みて公欠扱いらしい。
「悲の七日間」って、ただの……いや、「ただの」なんて言うのは失礼なんだけど、生理をこんなに大仰に呼ぶなんて一体どういうことだろう?
「お姉さまが休む間、私たちも何か気をつけないといけないのかな?」
僕は不安に思いながら言った。
「うん、そうだと思う……。近くにいるだけで体調が悪くなるって言われてるから」
と友人は続ける。
「みんなお姉さまのことを心配してる。瑞祈も気をつけたほうがいいかも」
「気をつけるって、どうすればいいの?」
僕は戸惑いながら尋ねた。
「とにかくお姉さまに近づかないことが一番。みんなが不安になるから」
と彼女は真剣な顔で言った。
「もし何かあったらみんなでお姉さまのために何かするつもり。だから瑞祈もできるだけ注意してね」
その言葉を聞いてますます胸が重くなる。どうしてこんなことになってしまったんだろう。お姉さまが苦しむ姿を見たくない。彼女のために何かできることはないだろうか。
しかし、僕の心の中には不安が渦巻いていた。生理痛は僕には理解できない世界だ。……そう、彼女たちが金的の痛みを理解できないように……。お姉さまを支えたい気持ちと、彼女から離れることへの恐れが交錯する。
「分かった。気をつけるよ」
と言うしかなかった。
教室の中の緊張した空気がますます重くなっていく。外の陽射しが高くなっているのに、僕たち……でも僕と彼女たちにはきっと大きな隔たりのある……の心の中には影が差し込んでいるようだった。何か大きなことが起ころうとしている、その予感が肌に触れる。
「瑞祈、大丈夫?」
と友人が心配そうに見つめてくる。僕は小さく頷くが、心の奥に広がる不安を払うことはできなかった。
その瞬間、僕の頭の中にお姉さまの顔が浮かんだ。彼女がどんな思いで過ごしているのか想像するだけで胸が締め付けられた。きっと僕の想像の苦しさじゃ足りないだろうけど。彼女を助けるために何かできることはないのか。そう思っても、何も具体的な行動が浮かんでこない。
時間が経つにつれて教室の中はますます静寂に包まれた。僕はその静けさの中で自分自身の気持ちを整理しようと努力するがなかなか難しい。これから何が起こるのか不安でいっぱいだった。
──放課後。どうにかしてお姉さまの助けになりたいと考え、僕は彼女の部屋へと向かった。具体的に何をするべきかは分からないけれど、せめて妹として側にいたいという思いが胸を満たしていた。
廊下を歩きながら……心臓が高鳴る。ドアの前に立ち、手を伸ばしてノックをしようとした瞬間、ドアの向こうから微かな呻き声が聞こえてきた。ただの痛みの声ではなく、苦しみに満ちた声だ。思わず躊躇ってしまうが、意を決してドアを開けた。
彼女の部屋は薄暗く、カーテンが閉められていて、どこか陰気な雰囲気を漂わせていた。お姉さまはベッドに横たわり、顔は青白く、目を閉じている。苦しげな表情からは、彼女がどれほどの痛みと戦っているのかが伝わってくる。
僕は何も言えずその場に立ち尽くした。生理の痛みは僕には想像できないけれど、辛いものであることは理解できる。思わずあの時のことを思い出した。金的を蹴られた後、お姉さまがずっと寄り添い抱きしめてくれたこと。痛みを理解していないだろうけど、その優しさがどれほど心強かったか。今度は僕が彼女の側にいる番だ。
しかし、どうしても自分の中にある不安が消えなかった。友人から聞いた「伝播する痛み」という言葉が頭をよぎる。
……けれど、僕の体には何も起こらない。お姉さまがこんなにも苦しんでいるのにどうして僕は大丈夫なのだろう。
(ひょっとして……)
おそらく僕が男だからなのだと理解した。正直安堵したと同時に彼女と同じ痛みを感じられないことが、また一つの悲しみを生んだ気もした。
(僕は……本当に彼女の「妹」なんだろうか)
こんなとき、彼女の痛みを少しも分けてもらえないなんて。僕の性別がここまで決定的な「壁」になるなんて思わなかった。
「お姉さま……」
小さな声で呼びかける。反応はない。ただ、彼女の苦しそうな表情が心に刺さる。どうすればいいのか分からないまま僕は彼女のそばに座り、手を握りしめた。少しでも彼女に寄り添いたい、ただその思いだけで。
──お姉さまはしばらくしてから、ふと心配そうな表情で僕を見つめた。
「瑞祈、大丈夫? 私の痛みが伝わってきてない?」
「はい、平気です」
僕は明るく答えたが、内心は少しドキドキしていた。痛みが伝わらない理由は分かっている。おそらく僕が男性だからだろう。しかし、そのことを意識しすぎるとお姉さまが心配するかもしれないと思い、さらっと流すことにした。
その瞬間、お姉さまの表情が和らいだ。彼女は僕が痛みを感じない理由に気づいたのだろう。
「そうね……瑞祈は男性だから……関係ないのね」
と少し安心したように言った。その表情にはほっとした思いが見えたが、同時に少し拗ねたような顔も浮かんでいる。
「なんかちょっとズルい」
彼女はふざけた口調でそう言いながら軽く僕の金的を指でつついた。ほんの少しの力だったが、敏感な部分に触れられると、一瞬思わず身体が硬直する。
「いっ……!」
思わず声が漏れ、その瞬間、痛みが波のように押し寄せてきた。ちらりとお姉さまに笑顔が戻る。
「ごめん、瑞祈。そんなつもりじゃなかったけど……」
彼女は申し訳なさそうに笑っていたが、その表情には確かに満足感が見えた。でも金的の痛みがまだ残っているのに、微笑んでしまう自分がいた。お姉さまがその小さな……お姉さまの痛みよりはきっと小さい……痛みを受けて、少しでも笑顔を見せてくれたことが、僕にとっては嬉しい瞬間だった。
「いえ、大丈夫です。……でも痛いんですからね!」
と冗談めかして言った。お姉さまはその言葉に思わず笑ってくれた。
それでも心のどこかで彼女の痛みを理解できないもどかしさが残っていることも確かだった。お姉さまの痛みを直接的に感じることができないのは、確かに残念で、同時に少しだけ救いでもあった。
僕は、ただ彼女のそばにいることで、彼女の心が少しでも軽くなるようにと願いながら、お姉さまの手を優しく握りしめた──。