28話 公爵令嬢、敗北す
セルジオ殿下を称える声が、まだ大広間を満たしていた。
ジスカとの和平。
誰もが喜ぶ報せが、今のわたくしには死刑判決のように聞こえる。
「姉上、顔色が悪いです。退席させていただきましょうか」
サイラスの気遣いに、首をそっと横に振った。
ここで目を逸らしてはいけない。
アデリーンとセルジオ殿下が何を企んでいるのか、見極めなければ。
「それでは私とアデリーンの輝かしい未来のために、改めて祝杯を!」
セルジオ殿下が杯を掲げると、楽団の奏でる調べがひときわ華やかになった。給仕たちが銀盆を手に列をなし、赤葡萄酒を満たしたグラスを配っていく。
差し出された一つを受け取り、わたくしは指を強張らせた。
なに、これ?
赤黒い靄が、表面に漂っている。
葡萄酒の色でも、灯りの影でもない。
杯の縁を這い、液面にまとわりつく、あの忌まわしい靄。
以前、アデリーンの右手を覆っていたものと同じだ。
「サイラス、コレット。ワインを飲んでは駄目!」
咄嗟に二人へ向き直り、低く鋭く制した。
今夜は会場で何一つ口にしない。出かける前に、三人でそう約束していた。
勧められた料理も飲み物も、もっともらしい理由をつけて避けてきたはずだ。
なのにサイラスの手が止まらない。
コレットも、ぼんやりと宙を見つめている。
「聞こえないの? サイラス! コレット!」
目の前にいるのに、二人の視線がわたくしを通り抜けていく。
その瞬間、会場に流れる音楽が一気にクライマックスを迎えた。
まるでその音に操られるかのように、二人はグラスを口に含む。
「駄目っ!」
自分の杯を放り出し、まずコレットのグラスを払い落とした。
でも遅かった。
コレットの喉が、こくりとワインを飲み込んでいる。
続いてサイラスの手から杯を奪い、床へ叩きつけた。
がしゃん!
耳障りな破砕音が、辺り一帯に響く。
赤い飛沫がドレスの裾を汚し、砕けた硝子が足元へ散った。
なのに誰も、振り向かなかった。
目の前でグラスが割れたのに、悲鳴も咎める声もない。
人々は微笑んだまま、次々に杯を傾けていく。唇についた雫を拭いもせず、まだ飲もうとする者さえいた。
……おかしい。
ワインだけではない。
何かが、すでにこの広間を――
大きな違和感を感じた刹那、
ぎぃん……!
甲高い音が、美しいメロディを切り裂いた。
ヴァイオリンの弦が軋むような不協和音。
美しい旋律が崩れ、楽師の一人が慌てて弓を止める。
途端に、サイラスが大きく瞬きをして、我に返った。
「……あ、姉上?」
「お義姉様。私、今……」
「しっかりして。気分は悪くない?」
コレットは空になった自分の手と、床の硝子の破片を交互に見た。
なぜこんなことになっているのか、まるでわからないというような顔だった。
わたくしは反射的にアデリーンを振り返る。
セルジオ殿下と顔を寄せ合い、二人とも耳元に手を当てていた。指先に、小さなものが見え隠れする。
――まさか、耳栓?
次いでわたくしは、楽団へと視線を走らせた。
演奏を止めた楽師のヴァイオリンに、赤黒い靄が絡みついている。
ああ、そうか、音だ。
杯を口へ運ばせたのは、あの音だったのだ。
どうしてわたくしには効かなかったのか、考える余裕はなかった。
そして突然口火を切るかのように、広間の奥で椅子の倒れる音がした。
「う……胸が……!」
一人の男が喉元を掻きむしり、膝から崩れ落ちる。
隣の夫人が悲鳴を上げた。助けようと屈みかけた彼女自身も、口を押さえてよろめく。
それを皮切りに、あちこちで苦悶の声が上がった。
「誰か、水を……っ」
「立てない。どうして、足が……」
「医者を呼べ! 早く!」
次々に人々は倒れ、いくつものグラスや皿が砕けた。
化粧室へ駆け出した女性が人にぶつかり、壁を頼りに進む男の足元に倒れ込む。
給仕が抱え起こそうとしても、すぐ隣で別の客が膝から崩れ落ちた。
胸を押さえる者。
吐き気で身を屈める者。
床へ頬をつけたまま動けない者。
笑い声に満ちていた広間が、たちまち呻きと悲鳴に塗り潰されていく。
「あ、姉上……申し訳、ありません……っ」
「サイラス!」
もちろんワインを飲んでしまった我が弟の額にも、脂汗が浮かんでいた。
膝をつき、片手で体を支えながら、それでもコレットへ腕を伸ばそうとしている。
「私より……コレットを、お願いします……」
「コレット?」
可愛い義妹の身体が、ぐらりと斜めに傾いだ。
慌てて抱き留めたものの、返ってくる力がない。
「コレット、しっかりなさい!」
開きかけたコレット唇から、か細い息が漏れる。
意識を失った身体は驚くほど重い。
踵が硝子を踏み、わたくしまで均衡を崩しかけた。
でも、その時。
「ブライア!」
力強い腕が、コレットの背と膝裏を咄嗟に支えた。
「ディミトリ……!」
わたくしの婚約者である彼は、絶妙なタイミングで駆けつけてくれた。
完全に脱力してしまったコレットを慎重に抱え込み、破片のない場所へと横たえる。わたくしもすぐ隣に膝をつき、冷え始めたコレットの手を握った。
「ディミトリ、あなたは大丈夫なの?」
「ああ。陛下方が退出なさった後、少し席を外していた。お前もワインは飲んでいないな?」
「ええ。でも、この二人は……。飲まないと決めていたのに、楽器の音で操られていたみたいなの」
「楽器だと?」
「あのヴァイオリンとワインに、何か細工されていたみたい」
「!」
わたくしの推理に、ディミトリの顔が険しくなる。
すぐさま近くの騎士を呼び寄せ、王宮医を急がせるよう命じた。残った酒と楽器にも、勝手に触れさせるなと指示を飛ばす。
わたくしは出入り口を見た。
医者はまだ来ない。
助けを呼ぶ人と、騒ぎに駆けつけた人とがぶつかり合い、扉の前に人垣ができている。
「まぁ、なんてことでしょう。急な食中毒かしら」
そんな中、混乱にそぐわない澄んだ声が響いた。
アデリーンが、広間の中央へ歩み出る。
床へ倒れた人々を前にしても、その足取りに迷いはなかった。
「おお、なんということだ。アデリーン、どうか君の聖女の力で、皆を救ってやってほしい」
「もちろんでございます、セルジオ殿下」
セルジオ殿下の芝居がかった嘆きに応え、アデリーンが胸元で手を重ねる。
あまりにも整ったやり取りだった。
誰が何をするのか。
どんな場面でどんなセリフを言うのか。
初めから決まっていたかのように。
「皆様、ご安心ください。悪しき病の元を、あたしが全て浄化いたします」
白い聖衣の裾を広げ、アデリーンは苦しむ貴族の前へ膝をついた。額の上へ手をかざし、祈りの言葉を紡ぐ。
やめて。
そんな茶番に、今は付き合っていられない。
そう叫びかけたわたくしの頬を、不意に柔らかな風が撫でた。
アデリーンの足元で、聖衣の裾がふわりと揺れる。
――と同時に、彼女に手をかざされた男の呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
引き攣っていた指が開き、青ざめた頬に血の気が戻る。
「……息が、できる」
男が自分の胸を何度も撫でた。
わたくしは、驚愕で目を見開く。
「ありがとうございます、聖女様……! ああ、本当に、ありがとうございます! これが奇跡の力なのですね!?」
嘘よ。
あり得ない。
偽聖女であるアデリーンに、癒しの力など使えるはずがないのに。
けれど男は確かに立ち上がった。
次に祈りを受けた夫人も、吐き気を訴えるのをやめ、涙を流して彼女の手を取っている。
「私もお救いください!」
「こちらにも、どうか……!」
「息子だけでも、お願いいたします!」
一人が救われれば、後は堰を切ったようだった。
人々は這うようにしてアデリーンのもとへ集まった。彼女が身じろぎするだけで道が開き、手をかざすたびに感謝の声が上がる。
ほんの少し前まで、民を見捨てたと非難されていた女。
なのに今は誰もが、その女に助けを乞うていた。
「姉上……コレットが……っ」
次の瞬間、サイラスの掠れた声で我に返った。
まずい。
何もできない時間が過ぎる間に、コレットの唇が紫色に変わり始めている。
「コレット? ねえ、わたくしの声が聞こえる? しっかりなさい!」
少し強めに頬を打っても、返事がない。
どうしよう。まだ呼吸は続いているけれど、あまりにも反応がなさすぎる。
握り締めた細い指は、何度さすっても温まらなかった。
飲んだワインの量は少なかったはずなのに。
どうしてこの子だけ、こんなにも早く――
考えかけ、怖くて続きを打ち消した。
まるで坂道を転がるかのように、コレットの容体だけが悪くなっていく。
ディミトリがもう一度、「急げ!」と騎士の名を呼んだ。
医師は向かっているという返事が、遠くから返ってくる。
向かっている。
でもそれはあと一体どれだけかかるの?
こうしている間にも、コレットの鼓動は弱々しくなっていき――
……最悪、死んでしまうのではなくて?
まるでその予感が正しいと裏付けるかのように、コレットの喉が、ひゅ、と小さく鳴った。
(待って。まだ連れていかないで――!)
今度こそわたくしは周りの目も気にせず、大声でコレットの名を呼んだ。
「コレット、しっかりして、コレット!!」
眦に涙が滲み、サイラスも苦しみながらわたくしの手の上に掌を重ねた。
ああ、神様。
わたくしに二回目の人生を贈ってくださったあなた。
どうかこんなにも早く、この子を連れて行かないで。
やっと守れたと思っていたのに。
今度こそ必ず幸せにすると、誓ったのに――
「あら。コレットお姉様まで、苦しそう」
「!」
傍目にもわかるほどわたくしが狼狽えていると、不意に視界に白い聖衣の裾が割り込んできた。
見上げれば、アデリーンがわたくしたちを上から覗き込んでいる。周囲には彼女に救われた貴族たちが付き従っていた。
「大切なお姉様だもの。助けたいのは山々だけれど……」
アデリーンは困ったように頬へ手を添えた。
けれど視線はコレットではなく、わたくしの顔へ注がれている。
「あいにく、あたしを待っている方が大勢いらっしゃるんですの。でもブライア様が頭を下げて、泣いてお頼みになるのなら……先にお救いしてもよろしくてよ?」
「アデリーン殿」
その物言いに、強く反応したのはわたくしではなく、隣にいたディミトリだ。
彼が一歩踏み出すと、アデリーンはわざとらしくセルジオ殿下の位置まで後ずさる。
「あたしは皆様を助けたいだけですのに。そんな怖いお顔をなさらないでくださいませ」
何事だ、と周囲の貴族がざわめいた。
せっかくの聖女様の救いの手を止めるな……と、誰もが恨みがましくディミトリを見る。
ああ、駄目だ。
ここで彼が怒れば、それさえ利用される。
わたくしはディミトリの袖を掴んで、かぶりを振った。
「……いいの」
「だがブライア」
「本当にいいのよ」
だってアデリーンは待っている。
わたくしが拒み、怒り、そしてコレットの呼吸がまた一つ浅くなるのを。
アデリーンの癒しの力が本物なのか、仕組まれた偽物なのか。
今は、確かめる時間も術もなかった。
ただ彼女の手で苦しんでいる人々が救われている。
それだけが、目の前にある事実だ。
わたくしはコレットをサイラスへ預け、アデリーンへ向き直った。
「聖女アデリーン様」
床に両膝を揃える。
葡萄酒で濡れたドレスが、冷たく脚へ張りついた。
扇を脇へ置き、両手を床につく。
「どうか我が弟サイラスと、その妻コレットをお救いください」
そして彼女が望むように、深く、深く――頭を垂れた。
ざわめきが、一気に広がっていく。
あの誇り高きライゼンブルグ家の公女が、聖女へひれ伏している。
それだけでも貴族にとっては、衝撃的な光景だろう。
「本当にそう思っていらっしゃる? なんだか心がこもっていないみたい」
けれどアデリーンにとっては、わたくしの土下座だけではまだ物足りなかったらしい。
あまりにも強欲な願いに、背後のディミトリが苦しげに舌打ちした。
そしてやはり、コレットが目覚める気配は……ない。
「そんなことはございません。アデリーン様は誰よりも尊く、その身に奇跡を宿される聖女でございます」
「ええ、あたしこそが本物の聖女。コレットお姉様なんて、足元にも及ばないくらいの……ね?」
視線を上げると、アデリーンが真っ赤な唇を歪めて笑っていた。
ああ、そうか。
わたくしにただ頭を下げさせたいのではない。
彼女が欲しい言葉が、ようやくわかった。
自分の奇跡を見せつけ、コレットを偽物にする。
誰よりもコレットを守ってきた、このわたくしの口から。
「さあ、ブライア様。皆様にも聞こえるように」
そう促され、わたくしの喉の奥がひきつった。
あの日、血まみれになりながら人々のために祈ったコレットの姿が浮かぶ。
何一つ見返りを求めず、ただ救いたいと願った、あの子の祈りを。
今ここでわたくしが――踏みにじるのか。
「仰る通りで……ございます」
必死に心を落ち着かせ、息を継いだ。
泣いてはいけない。
言い終えるまで、声を細らせてもならない。
どれだけ恥辱にまみれようとも。
今最も優先すべきは、コレットの命なのだから。
「アデリーン様に比べたら、コレットなど、所詮ペテン師。ほんの少し怪我人の手当てをしただけの……凡人でございます」
そしてとうとう、決定的な言葉がわたくしの口から零れた。
二度と、取り戻せない場所へ。
「まあ……やはり」
「もう一人の聖女という話は、偽りだったのか」
囁きに囁きが重なる。
ここに集まった貴族たちは、己を救った聖女を疑わない。
まだ救われていない者は、彼女に逆らえない。
その反応に満足したのか、アデリーンは両手を広げて皆にアピールした。
「皆様、お聞きになりまして? ほかならぬブライア様が認めてくださったのですわ。あたし以外に聖女などいないと」
セルジオ殿下が「当然だとも!」と胸を張り、わたくしとディミトリを見下ろした。
この瞬間を境に、ライゼンブルグ公爵家へ向けられる周囲の眼差しが変わっていく。
聖女を騙ったコレット。
偽りを広め、本物の聖女へ慈悲を乞う公爵令嬢。
気づいた時には、逃げ道などなかった。
アデリーンとセルジオ殿下が何か企んでいると踏んで、予め備えていたこともすべて裏をかかれた。
わたくしがアデリーンの願いを拒めばコレットの命が危うくなり、従えば彼女の尊厳が奪われる。
どちらを選んでも、詰んでいた。
わたくしは今回、アデリーンに完全に敗北したのだ。
――それでも、生きていて。
わたくしはコレットの笑顔を思い浮かべながらも、周りからの白い目に耐えた。
名誉なら、後で何度でも取り戻す。
けれど命だけは、失ってからでは遅いのだ。
「……どうかお願いいたします、聖女アデリーン様。我が弟夫婦をお救いください」
もう一度、何度だって、頭を下げる。
ぽとり。
目の前の床に、小さな赤い雫が落ちた。
その時、唇を噛み切っていたことに初めて気づく。
アデリーンの高らかな笑い声が、いつまでも頭上で響いていた。
わたくしは血の味を飲み込み、ただひたすらコレットの目覚めだけを祈り続けるしかなかった。
◇◆◇
同じ頃、王宮の奥にある一室では、甘く重い香が焚きしめられていた。
窓を塞ぐ厚い垂れ幕。
燭台の細い炎に照らされた祭壇には、見慣れぬ紋様が刻まれている。
香炉から立ち上る煙が幾重にも絡み合い、祭壇の前に立つフロレンツの顔を薄く覆っていた。
そんなフロレンツの足元には、大勢の聖職者が倒れている。
祈りの形に手を組んだまま横たわる者。
祭壇へ額を伏せるようにして崩れ落ちた者。
扉へ手を伸ばした姿勢で、動かなくなっている者もいる。
静寂の中で、衣擦れの音さえしなかった。
ただ誰かの指先が石床を掻き、かすかな音を立てるのみ。
フロレンツは虚空を見つめながら、柔らかく微笑んだ。
いつも信徒へ向けるのと、少しも変わらぬ穏やかな顔で。
「とうとう始まりましたね。破滅への序曲が」
囁きに応えるように、祭壇の炎がゆらり、と揺れる。
フロレンツは足元に転がる死体の山を避け、祭壇へ向き直った。
彼は一体誰に祈りを捧げているのか。
残念ながら、その真意を確かめられる者は――もうこの部屋にはいなかった。




