序 船は進む
ゆらゆら、ゆらゆら。
揺れる。
静かに揺れる。
波が揺れて、船が揺れる。
時に荒々しい姿を見せる海が、今日はやけに静かだ。
――― 海は良い。地に広がる青、空に広がる青、心が洗い流されるようだ。
男は船尾に立って思う。
長い、長い船旅だった。
数年、数十年の、本当に、長い、長い、船の旅。
男が港を発ったのは、何十年前の事だっただろうか? それは誰にも分からない。男自身ですら、もう忘れてしまった。
――― 月日の流れは無慈悲だな。もはや、地を歩いて居た頃の記憶などおぼろげで、まともに思い出す事も出来ん。
男は静かに船室に入り、音も無く移動しながら部屋の中を覗き込む。
整った部屋だった。
ここは船乗り達の部屋だ。もっと雑然としているのが普通なのだが、時々男の片腕とも呼ぶべき痩せ細った男が部屋の掃除を、頼みもしないのにやっているらしい。
「アベル……」
掃除をした張本人の名前を呼ぶが、返事は無い。
どこか別の場所に移動したらしい。
その後も、大きな船の中をフラフラと男は移動し、様々な部屋を覗き込む。
船長室も、食堂代わりの大部屋も、武器庫も、食料庫も、くまなく船を見回った男は、再び船上に出る。
「そうか、皆、今日は疲れてるのか……」
船は静かだ。
大酒飲みのベルガや、“うわばみ”が静かなのも、昨日の戦闘で疲れたからだろう。
昨日の戦いは、確かにちょっと大変だった。
どこぞの魔王の支配する国から渡って来た大型船で、大量の魔族が乗っていた。
あと一歩で沈める事が出来そうだったのに、時化のせいで、結局取り逃してしまった。
せめて、魔族共が護っていた、ふさふさの毛に覆われた狐のような魔族だけは捕らえたかったな?
何やら大切そうに持っていた手紙のような物も気になる。
「なんとか、奴だけでも倒せていればな……」
あの狐魔族だけでも倒せていれば、今頃は祝杯でもあげていたのだろうが、逃がしてしまっては、酒もただのやけ酒になってしまう。
そう言う酒は苦くて嫌いだ。
後悔するのは別に良い。
海を漂う数十年の間に、数え切れないくらいして来た。
「ふぅ……そろそろ太陽が沈むな」
日が傾いて、闇と夜が駆け足で世界を塗り潰そうとしている。
夜になれば、他の連中も起き出して来るだろう。
「静かな時間は終わりだな」
1人で呟くと、男は音も無くスゥッと消えて行った―――……。
曰く―――東の大陸の船乗り達の間では、昔から伝わる噂がある。
魔族を船に乗せて沖に出ると、霧が視界を閉ざし、現れるのだ、と。
大昔に魔族との戦いで命を落とした、伝説の海賊―――キャプテン“ザルア”の乗る幽霊船が。




