後日譚
おかげさまで9月2日に書籍版が発売となります。
有難うございます!
心ばかりのお礼に番外編っぽいものを書いてみました。
冬の厳しい寒さも緩み始めた、ある夜のこと。
(今日は早く終わったな)
その日、いつもより早い時間に仕事を片付けられたバロンは、執務室から夫婦の寝室へと屋敷の廊下を歩いていた。
「…………」
彼は歩を進める自分の足をチラリと見下ろして、わずかに口端を上げる。
兎の姿になってしまうのは、夜遅くになってから。
しかし今はまだ人間の姿のままで歩いている。
いつもテオに兎として運ばれてるばかりなので、こんなふうに普通に自分で寝室まで向かえるのは、嬉しいことだった。
そういうわけで少し上機嫌で、バロンはたどり着いた寝室のドアを開いたのだ。
もう寝室に入り、自分を待ってくれているだろう愛しい妻の顔を見られることに、ワクワクもしていた。
なのに。
「マリエ……っ!?」
開いた扉の向こう側で、一番に目に入った光景にバロンは驚愕した。青い瞳が動揺に泳ぐ。
「なっ、ななななな……!!」
「あら、バロン様。お仕事は終わったのですか?」
ふんわりした生成りのワンピースタイプの夜間着を着たマリエールが立っていたのだが、そのマリエールが、なんと黒い兎を抱いていたのだ。
しかもその兎を見つめる橙色の瞳は、愛おしそうにとろけている。
(わ、私はここにいるのに!)
彼女の腕の中にいる兎は一体誰なのだ。
「ままままままりえーる、そのっ、そのその兎は!」
とっても挙動不審になってしまったバロンの様子に、マリエールは首をかしげている。
「これですか? 昨日ジイが非番だったでしょう? 奥様とお出掛けしてたらしくって、お土産にってこれを」
「土産? 兎を、土産に持って帰って来たのか?」
「まぁ……ふふっ、違いますよ。とても精工に出来ていますけれど、ぬいぐるみです。黒い兎のぬいぐるみ」
「ぬいぐるみ……」
「バロン様の同じ毛色と瞳のものが店に並んでいたらしくて、つい買ってしまったそうです」
「そうだったのか。何だ、ぬいぐるみか……」
バロンはほっと息を吐いた。
確かに良くみると、マリエールの腕の中にある兎はぬいぐるみだ。
近づいて見たジイからの土産物であるらしいそのぬいぐるみは、兎になったバロンよりは二回りくらい大きい。
あの屈強でたくましい容姿のジイが、今日はこの可愛い兎を抱えて出勤してきたのか。想像すると面白い。
「ふわふわ」
抱きごたえが有るのだろうそのぬいぐるみを、マリエールはぎゅうっと抱きしめ、顔をうずめる。
幸せそうに頬を摺り寄せる様子に、バロンは息をのんだ。
「っ……」
自分はそんなふうな抱き方、して貰ったことがない。
兎になったバロンは両手に乗ってしまうくらいの小型のタイプだし、そもそも生き物だから、ああやって両腕で思い切り抱きしめてもらうのは難しい。つぶれてしまう。
だから無理なのだと分かってはいるが。
ぬいぐるみは、思う存分ぎゅうぎゅうに抱きしめられている。
バロンの好きな、温かくて柔らかな腕の中に納まっている。
マリエールに抱きしめて貰って、頬ずりしてもらっている、ぬいぐるみの兎。
ーーーバロンは何だかその兎がものすごく、うらやましくなった。
しかしバロンはとても口下手だ。
素直には言えなかった。
(そもそもぬいぐるみが羨ましいなんて馬鹿げている。いい大人が何を考えてるんだ)
二十三歳の男が、ぬいぐるみに嫉妬なんて有り得ない。
馬鹿馬鹿しすぎる。
こんなのきっと、笑われる。
ぬいぐるみに焼きもちなんて、恥ずかしい。
男のプライドとか、大人としての矜持とかが、素直になるのをためらわせる。
「…………」
結局、何も言えなくて。
口をつぐんだバロンは、そのままベッドに入ってごろりと寝転がってしまった。
「バロン様。もうお休みになるのですか?」
背中に掛けられた声に、堅い声で返す。
「あぁ。今日は疲れたんだ」
「そうですか。気づかずにすみません。お疲れ様です。ゆっくりお休みなさいませ」
その後すぐに、マリエールはベッドのサイドテーブルに置かれていた方のランプを消してくれた。
ぬいぐるみはどこかに置いたのか、シーツの中に彼女の身体が滑り込んでくる。
背中越しに伝わる温もりに、背を向けて寝てしまった自分に後悔しつつ、一晩を過ごしたのだった。
* * * *
翌日。
バロンはいつも通りに起き、いつも通りに執務室で仕事を始めていた。
一晩眠って、頭が動きだすと、ぬいぐるみへの嫉妬なんて本当に馬鹿馬鹿しいと思えてくる。
(きっと突然、マリエールが他の兎を抱く姿を見てしまって動揺したのだ)
今夜からは普通に、ぬいぐるみとして温かく見守れる。
「うん。そうに違いない」
「何がですか」
傍に立つテオが、うっかり漏らしたバロンの声に反応した。
この男に事情を話せば、確実にからかわれる。
絶対に知らせるわけにはいかない。
「別に、ただの独り言だ」
「大きな独り言でしたね。何かお悩みですか?」
「何でもない。 悩んでなんかない」
「そうですか?」
「しつこい」
煩わしくて睨んでやると、テオはひょいと肩をすくませた。
その時……控えめなノックが、執務室に響いた。
入室を許可してすぐに顔を見せたのは、マリエールだ。
「どうした?」
「お仕事中に申し訳ありません。実は、バロン様に伺いたいことがあって」
「伺いたいこと?」
マリエールが部屋の中に歩いてくるのと同時に、テオが一礼して出て行った。
二人きりになった部屋で向かい合ったところで、マリエールが話を切り出す。
「急な話なのですが、今晩出かけても宜しいでしょうか」
「今晩か?」
「はい」
マリエールは手に持っていた封筒を、胸の前あたりまで上げて示してみせた。
「お友達の……マロニット子爵のお嬢さんのビアンカ様からたった今、お手紙が届いたんです」
「確か、観劇に行った時に会った令嬢か」
「はい。その方に夕食に招待されたのです。行っても良いでしょうか」
マロニット子爵といえば、マリエールが結婚して初めてのダンスを踊った相手だ。
彼の令嬢がマリエールと同い年で、本などの好みがとても合うのだと聞いたことがある。
以前に劇場で会った時も、楽しそうに二人で盛り上がっていた。
「しかし当日に誘うとは、本当に急だな」
「どうも子爵と奥様が急なお仕事でお出掛けになることになったそうで。婚約者様も都合がつかず、今夜は寂しいからぜひ来て欲しいと言われてしまって。でも本当に急ですし、バロン様がお嫌なら、断りの返事を出しますが」
「いいや、別に構わない。楽しんでくるといい」
特に禁止する理由もない。
許可を出すと、マリエールははにかんで頷いたあと、おそるおそるといった感じで訊ねてきた。
「実は、バロン様もぜひ一緒にという事なのですが……」
「いや、夜はちょっと……」
兎になってしまうから出かけるのは――――という、口には出さずに濁した言葉を、マリエールは正しく理解してくれたらしい。
彼女はにっこりと笑って頷いた。
「では、私一人で行ってまいりますね」
「あぁ。楽しんでくるといい。気をつけて」
「はい。有り難うございます」
そうして、夕方になってマリエールが出かけた数時間後。
今日も一日の仕事を終えたバロンは、眠るために寝室に来ていた。
待っている人もいないので、早く仕事を仕上げる必要もない。
ゆっくりと進めた仕事が終わった時にはもうずいぶん遅く、兎の姿になっていた。
しかし以前のように執務室の隣にある仮眠用の部屋に一人で眠るのは心もとなく、テオに二人の寝室まで送って貰ったのだ。
―――現在、バロンは何とか這い上ったベッドの上。
シーツの上に置かれたぬいぐるみの兎を見上げ、睨みつけていた。
自分より二回りも大きいぬいぐるみは、兎の姿になるとまるで黒い壁のようだ。
(冷静になれると……思ったんだが……)
たかがぬいぐるみの兎だ。
どれだけマリエールが気に入ろうと、まったく心は動かない。動かさない。
寝室に入る手前までは――――そう、思っていたのに。
ぬいぐるみの兎と、兎になった自分の二匹だけになった場所で向かい合っていると、なんだかどんどん苛々が募って来てしまった。
昨夜の、マリエールに抱きしめられていたこいつの姿を思い出してしまう。
表情が無いはずなのに、「ふふん」と得意げに嗤われているような気さえしてきた。
無駄に艷やかな毛並みも憎らしくなってくる。
次第にそれを見上げるバロンの吊り上がった青い瞳に、めらめらと闘志がみなぎりだしていく。
(……今はマリエールはいない。つまり、不満をこいつにぶつけても構わないということだ)
この不満をこのぬいぐるみにぶつけられるのは、マリエールのいない今だけなのだとも、気付いてしまった。
だったらもう、やるしかない。
バロンは大きく息を吸って気合いを入れた直後、思い切り前足を振りかぶった。
(このっ! お前ばっかり可愛がられて! 綿のくせに生意気だ!)
バロンは渾身の力を込め、前足でぬいぐるみを殴ってやった。
もふもふの毛に覆われた手で殴ったとたん、ポフンッという抜けた音が鳴った。
(やってやった!)
一発目を当てた手ごたえに、バロンは勢いに乗ってしまう。
更に連続で、左右両方の前足を使って何度も何度も殴ってやる。
部屋にはポフポフという音と、少しの埃が舞う。
ポフポフ。
ポフポフ。
ポフポフ……。
(どうだ! まいったか!)
バロンはしばらくして「ふう」と息を吐き、満足げに見上げ直した。
しかし得意げに見上げたぬいぐるみは、殴る前とまったく変わらず。
五センチほど後ろに下がっただけでそこにあった。
こんなに殴ったのに。
びくともしてない、ぬいぐるみ。
その姿に、バロンは不機嫌になる。
(ふんっ! 頑丈なやつめ! 倒れもしないのか! ――それなら、こうだっ……!)
バロンは勢いをつけて後ろ足を使いジャンプした。
高く跳んで、自分より二回り大きな兎の縫いぐるみの上に乗る。
そして更にジャンプを繰り返し、兎のモフモフの毛に覆われた足で何度も何度も何度も踏みつけてやる!
(とうっ! はぁっ!)
踏んで、叩いて、髭を引っ張って、考えうる限りの暴力を加えてやった。
(はぁ……疲れた)
普段、仕事のほとんどが机仕事なバロンは、たぶん普通の同年代の男より体力はない。
腕を振り回し、ジャンプを繰り返し、すごく暴れて、ぜえはあと荒い息を吐く。
(―――はぁ……何てむなしい……)
ぬいぐるみ相手に、何をしているのか――。
疲れ切ったと同時に、徐々に熱の冷めて来たバロンは、我に変えってうなだれる。
何て大人気のない行為だ。
もの凄く馬鹿馬鹿しくて、自分が恥ずかしい。
もう二十三歳……今年で二十四歳になる男なのに。
(はぁ……)
ベッドにだらしなく伏せて、ため息を履く。
視界の端にある、艶々の黒い毛並みの兎のぬいぐるみ。
バロンはきっとずっと、このぬいぐるみを好きになんてなれないだろう。
(ふん……ジイが買って来たものだし。 マリエールが気に入ったものだから、仕方なく置いてやるんだからな……)
もう一度前足で、軽くパンチをお見舞いした。
……好きじゃないけど。
でも、仕方ないから置いてやる。
これまたとても子供っぽいことを思いながら、バロンは縫いぐるみをじとりと睨みつけるのだった。
* * * * *
――――一時間後。
「ただいま帰りました。……バロン様? ――あぁ、もう寝ているのね」
夕食会から帰ってきたマリエールは、寝室に入るなりベッドで、伏せって眠っている黒兎の姿に口元をほころばせた。
そのままベッドまで足を向け、つけっぱなしのベッドサイドのランプの明かりを、小さくなるように調整する。
鞄と、ストールを適当においてから、そこに眠る兎をもう一度見て、ふっと小さく笑いをもらしてしまった。
「もしかして、仲良くなったのかしら? 昨日はあまり気に入ってなかったみたいなのに」
夫である黒い兎は、なんと黒い兎のぬいぐるみと寄り添い合う様にして眠っていたのだ。
小動物同士が寄り集まると、ずるいくらいに愛らしい。
可愛いものと可愛いもの。
最強の組み合わせだと思う。
しばらく幸せ気分で眺めていたマリエールだが、あることに気づいて眉を下げる。
「うーん。この場所で寝られると、ちょっと……眠るのは怖いわね」
困ったことに、バロンとぬいぐるみはベッドの中央を完全に占拠してくれていた。
大きめのサイズのベッドなので、マリエールが眠る空間はある。
けれどこの中央という位置は、寝返りで潰してしまいそうで怖い。
朝起きたらバロンがつぶれていたなんて、想像だけで恐ろしすぎる。
「起きないでくださいねー」
マリエールはそっと囁きつつ、眠る兎を手の平で掬い上げ、いつもの枕元の定位置に置いた。
ぬいぐるみは、部屋の端にあるカウチソファに置いておくことにする。
それから少しの時間をかけて眠る支度を整えてから、ベッドに横になる。
「あら?」
シーツを肩までかけて、隣の枕元のバロンを間近でみて、首を傾げる。
(何だかバロン様、疲れた顔してる? お仕事たいへんだったのかしら)
ぬいぐるみ相手に暴れ疲れたのだと知らないマリエールは、自分だけ友人のところで楽しんで来て、申し訳なくなった。
そして明日はしっかり家のことをしようと決意する。
しばらく可愛らしい寝顔を堪能したあと、薄暗い静かなく空間で兎の額に口づけを落とした。
「お疲れ様です」
そうしてから、ぬいぐるみには見せない、愛しい男の人にだけ向ける、誰が見ても恋してると分かる瞳を、眠りにつくまで注ぎ続けるのだった。
ーー本当は、マリエールはもうぬいぐるみをとっくに卒業している。
お土産にくれたジイは、きっとマリエールを幼い孫のようにみているのだろう。
なのに兎のぬいぐるみを特別に気に入って、寝室に常に置くようにまでなっているのは、このぬいぐるみがバロンに似ているからだ。
黒くて艶々な毛並みに、目つきは悪くないけれど青い瞳。
二回りほど大きいが、ピンとたった耳と身体つきはそっくり。
まず一番に、バロンという存在があってこそ、うさぎを気に入った。
前提にバロンがいて、だからこそ大切にしたいと思う。
「だから……妬く必要なんて、まったくないんですよ」
眠るバロンの頬をつんと指で突きながら、マリエールは囁いた。
マリエールは、バロンが縫いぐるみ相手に嫉妬しているのに気が付いていた。
分かっていて、意地悪してると思いつつも、バロンの反応が嬉しくて可愛くて、少し大げさにぬいぐるみを可愛がっている姿を見せつけてしまった。
(でも少し意地悪すぎたかしら? 思ってた以上に気にしてるみたい? いつまでもモヤモヤさせるつもりもないし。さすがに可哀想になってきたし)
明日には、貴方の方がぬいぐるみよりずっと大切で、一番愛おしい存在なのだと、伝えることにしようか――――。




