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私の呪いを解かないでください、平穏なので!  作者: 九葉(くずは)


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最終話

あの騒がしい出会いの日から数えて、十一日目の朝がやってきた。

澄み渡る青空の下、私は玄関の扉を大きく開け放ち、朝の光が満ちる庭へと足を踏み出した。


芝生の片隅では、白銀の礼装鎧を脱ぎ、清潔な白シャツと濃紺のベストという平服に着替えたガブリエルが、ちょうど軍用天幕の最後の杭を引き抜いているところだった。

神殿の紋章も、重々しい肩書も、今の彼の胸にはもうない。ただのガブリエル・フォン・ルクスに戻った彼は、折り畳んだ天幕の布を革袋へ収めると、こちらの気配に気づいて顔を上げた。


「おはよう、ヘレナ! 長らく庭の隅を占領してすまなかったな。天幕の撤去は今終わったぞ!」


朝露のきらめく芝生の上で、彼は少し照れくさそうに笑った。

その足元には、十日前に私が園芸用の石灰で引いた白い線が、雨風に晒されながらもまだうっすらと残っている。


私は愛おしい紫黒の瘴気をゆらめかせながら、ゆっくりと石段を降りた。

そして、彼との間を隔てていたその白い線の上に立ち止まると、自分の靴底で何度か芝生を擦り、残っていた白い粉を綺麗に踏み消した。


「ヘレナ……?」


目を瞬かせるガブリエルのすぐ目の前まで歩み寄り、私は彼を見上げて告げた。


「天幕はもういりませんし、この境界線も今日限りで廃止ですわ。……ガブリエル。今日からあなたの居場所は庭の隅ではなく、この家の中です。私の伴侶として、屋敷へお入りなさい」


ガブリエルは息を呑み、それから碧眼を熱い光で潤ませて、大きく頷いた。


「……ああ! 喜んで、私の妻よ!」


彼が手にした荷物を抱え直し、私の隣に並んで、初めて玄関の敷居を跨ぐ。

十日前には閂を落として閉め出したその扉を、今度は私自身の手で閉じ、私たちは同じ屋根の下へと入った。


屋敷の廊下では、五メートル離れた定位置の配膳台の前に、老家政婦のマルタが微笑みながら控えていた。

配膳台の上には、先ほど私とガブリエルが署名し、証人欄にマルタが綺麗な文字で名前を書き添えたばかりの『婚姻届出書』と、もう一通の封書が載せられている。


「お嬢様、いえ、奥様。証人の署名は確かに済ませましたよ。王都の役場への提出と、本邸の旦那様への完了通知は、使いの者にすぐ運ばせますからね」

「ありがとう、マルタ。これで父も、私の婚姻に口を出す親権を完全に失いましたわ」


実家へ送る通知には、『ガブリエル・フォン・ルクスと婚姻し、母方の遺産であるこの別邸にて独立して暮らすゆえ、今後の干渉は一切無用』とだけ簡潔に記してある。役場に届出が受理されれば法的な手続きはすべて完了し、子爵家との見合い話も自然に消滅する手筈だ。


「やれやれ、お庭のやかましい毒茸が、まさかこのお屋敷の旦那様におなりとはねえ。ガブリエル様、どうかお嬢様の静かな暮らしをよろしくお願いいたしますよ」

「うむ、任せてくれマルタ殿! 我が命に代えても、ヘレナの平穏とこの屋敷を守り抜くと誓おう!」


天井の梁がビリビリと震えるような朗々たる大声が、屋敷の廊下に反響した。

私はすかさず眉を吊り上げ、隣の大男の脇腹を肘で軽く突いた。


「ちょっと、ガブリエル! ここは庭ではありませんのよ! 屋内では声量を半分に落としてちょうだい、私の平穏に響きますわ!」

「はっ!? す、すまない、嬉しさのあまりついお腹から声が出てしまった……!」


すぐさま両手で自分の口を押さえ、小声で小さくなる元・筆頭聖騎士に、マルタが「ほほほ」と楽しそうに肩を揺らした。


それから私は、ガブリエルを連れて二階へと上がり、客間ではなく、私の主寝室のすぐ隣にある部屋へと案内した。もちろん、私の瘴気が壁越しに届いても、彼だけは痛くも痒くもないのだから、ここが一番都合がいい。


「ここがあなたの部屋ですわ。寝具も机も揃っておりますから、好きに使ってちょうだい」

「おお……! 屋根があり、壁があり、しかもふかふかの寝台があるではないか! 天幕とは比べものにならんな!」

「今までどんな野営生活を送ってきたのですか、まったく……」


呆れつつも、子供のように目を輝かせて荷物を置く彼の背中を見ていると、私の胸の奥には今まで知らなかった穏やかな温もりが満ちていった。


やがて午後になり、陽だまりが心地よい時間になると、私はいつものように一階のテラスへと出た。

籐の椅子に腰を下ろし、愛用の革装の本を膝の上に広げる。


私の全身からは、今日も変わらず不吉で美しい紫黒の瘴気がゆらゆらと立ち昇っていた。

半径五メートル以内の生物に本能的な恐怖を植え付ける『嗤う魔女の呪い』は、少しも弱まっていないし、性質もあの日のままだ。おかげで門の外を通りかかる野次馬も、鬱陶しい貴族の使いも、誰一人としてこのテラスへ近づくことはできない。


けれど、その絶対的な防犯結界のすぐ内側に、トコトコと軽やかな足音が近づいてきた。


「待たせたな、ヘレナ! 午後のティータイムの支度ができたぞ!」


声量をきっちり半分に抑えた爽やかな声とともに現れたのは、濃紺のベストの上から白いサロンエプロンを着けたガブリエルだった。

彼はお盆に乗せた銀のティーポットと、焼き上がったばかりのスコーンの皿を、手慣れた様子で丸テーブルの上に並べていく。


二つのカップに琥珀色のアールグレイを注ぎ終えると、彼はエプロンの裾を払って、私の向かい側の席に腰を下ろした。


「昨日、君と一緒に街で買った茶葉で淹れてみたのだが……今日のお茶の淹れ具合はどうだろうか?」


少し緊張した面持ちで尋ねる夫の前で、私はカップを手に取り、立ち昇る香りを楽しみながら一口含んだ。

茶葉の蒸らし時間も、お湯の温度も、驚くほど丁寧だ。


「……ええ、とても美味しいですわ。香りも申し分ありません。合格です、ガブリエル」

「本当か! よかった、マルタ殿に遠くからコツを教わった甲斐があったぞ!」


ぱあっと花が咲くように笑うガブリエルは、自分のカップにも口をつけ、それからスコーンの皿を私の前へと勧めてくれた。

ちなみに、テーブルの端には小皿に入った粗塩も添えられているが、もうそれを彼の顔面にぶちまける必要はどこにもない。


ガブリエルはカップをソーサーに戻すと、午後の柔らかな陽光を浴びながら、愛おしそうに目を細めて私を見つめた。


「なあ、ヘレナ。こうして私がすぐ隣にいる暮らしは……君にとって、平穏だろうか」


かつて一方的に聖剣を突き立て、私の声を聞こうともしなかった男はもういない。

今の彼は、いつだって私の言葉を待ち、私が望む静けさを一番に考えてくれる。


私は本の上に置いていた自分の手を伸ばし、テーブルの上にある彼の大きな手の上に、そっと重ねた。

濃い瘴気の真ん中で、彼の掌は驚くほど温かく、頼もしく私の指先を包み込んでくれる。


「ええ。少し賑やかではありますけれど……誰にも邪魔されない、最高に贅沢な平穏ですわ」


私はティーカップの湯気の向こうで微笑む彼に、悪戯っぽく、けれど心の底からの幸福を込めて告げた。


「ですから――私の呪いを解かないでくださいね、ガブリエル。今もこれからも、私はとても平穏なので」

「ああ、もちろんだとも。君のその素敵な呪いも、この静かなお茶の時間も、私が一生隣で守り続けよう」


頷き合う私たちの周りで、紫黒の瘴気がまるで祝福のヴェールのように優しくゆらめいた。

心地よい風がテラスを吹き抜け、香り高い紅茶と二人の穏やかな笑い声が、いつまでも静かな午後の庭に溶けていった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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