第1話
午後の陽光が降り注ぐカフェのテラス席は、私にとってこの世で最も尊い聖域だった。
アールグレイの香りを楽しみ、スコーンを口へ運ぶ。完璧なティータイムだ。
ただ一つ、世間一般と異なる点があるとすれば――私の周囲半径五メートル以内に、生きた人間が一人も寄り付かないことくらいだろう。
「ひっ……あの席、近づいちゃ駄目よ……!」
「見ろよ、あの黒いもや……。目が合っただけで魂を引っこ抜かれそうだ」
遠巻きに私を見つめる客たちが、青ざめて囁き合っている。
彼らの視線の先、私の全身からは、ゆらゆらと不吉な紫黒の瘴気が立ち昇っていた。
通称『嗤う魔女の呪い』。
一年前、古代遺跡の調査に巻き込まれた際、私――ヘレナ・アシュフィールドに定着してしまった強烈な精神威圧の呪術だ。周囲の生物に本能的な恐怖を植え付け、私を避けさせる厄介な代物である。
世間はこれを悲劇と呼んだが、私に言わせれば神が授けてくれた最高の防犯バリアだった。
呪われる前の生活といえば地獄そのものだった。伯爵家の娘というだけで財産目当ての暑苦しい求婚者が日夜押し寄せ、社交界に行けば腹の探り合いと中傷の嵐。愛想笑いひとつで胃を痛め、趣味の刺繍や読書すら満足に楽しめなかったのだ。
それが今や、この呪いのおかげで鬱陶しい男たちは逃げ散り、社交界からは爪弾きにされ、実家からも「領地の別邸で静養していなさい」と厄介払いされた。
おかげで私は今、誰にも邪魔されない隠居生活を手に入れたのだ。カフェに来ても席は広々、注文は筆談で済み、街を歩いてもナンパ一つされない。
「はぁ……なんて平穏なのかしら。最高だわ」
膝の上の本をめくる。この平穏を守るためなら、死ぬまでこの呪いを手放す気など毛頭なかった。
――その、はずだったのに。
「――邪悪なる闇よ、我が刃の前に霧散せよッ!」
突如として、天を割るような大音声が響き渡った。
視界の端から白銀の閃光が突っ込んでくる。風が荒れ、テーブルの上の紙ナプキンが派手に舞い散った。スコーンの皿のすぐ隣に、抜き身の巨大な剣が突き立てられる。
「な、何事……!?」
驚いて顔を上げると、そこにいたのは一人の青年だった。
眩い金髪に、吸い込まれそうな碧眼。彫刻のように整った顔立ちに、白銀の礼装鎧をまとっている。胸に佩びているのは、神殿騎士団の最高位たる太陽の紋章――筆頭聖騎士だ。
青年は燃える使命感を宿した瞳で私を見つめ、力強く手を差し伸べてきた。
「無事か、可哀想な令嬢! もう恐れることはない、筆頭聖騎士ガブリエル・フォン・ルクス、君を助けに参上した!」
……は?
「今すぐそのおぞましい呪縛から君を解放してあげよう! 耐えるのだ、光の加護があらんことを!」
「ちょっ、待ちなさ――」
ガブリエルは私の制止も聞かず、聖句を唱え始めた。剣身からあふれる神聖な波動が、私の愛おしい瘴気をじりじりと焼き払いにかかる。周囲の空気が急速に浄化され、肌がちりちりと痛み始めた。
この男、本気だ。
全身から「弱きを救い、悪を討つ」という純度百パーセントの善意と正義感がだだ漏れている。裏も表もない、眩しすぎて目を潰されそうな英雄の顔だ。
だが、私にとってはこれ以上ない大災難だった。
呪いが解けたらどうなる? 平穏な隠居生活はおしまいだ。また社交界に連れ戻され、欲の皮の突っ張った貴族どもに囲まれる日々に逆戻りではないか!
「お願いですからやめてちょうだい!」
私はテーブルの小皿をひっつかむと、スコーン用の粗塩をガブリエルの顔面目掛けて思い切りぶちまけた。
「ぐわっ!? め、目が……!?」
不意を突かれた聖騎士が目を押さえてよろめく。聖剣の光が消え、心地よい瘴気が立ち戻った。ふう、間一髪だ。
「な、何をするんだ君は!? 私は君を救おうとして――」
「頼んでいません!」
私は立ち上がり、眉を吊り上げて言い放った。
「見てわかりませんか? 私は今、お茶の時間を楽しんでいたのです! 突然踏み込んできてスコーンに砂埃を浴びせ、勝手に呪いを解こうとするなんて、営業妨害にもほどがあります!」
「え……ええっ……?」
ガブリエルは塩のついた睫毛を瞬かせた。完全に想定外らしく、端整な顔が間抜けに歪んでいる。
「だ、だが君、その恐ろしい瘴気が見えないのか!? 君を蝕み、周囲を遠ざけ、孤立させる最悪の呪いだぞ! 現に客たちも恐怖に震えているじゃないか!」
「いいえ、これは最高の防犯結界です。おかげで誰も私に話しかけてこないし、席はいつだって貸し切り。この平穏が、あなたに分かってたまるもんですか!」
「防犯……結界……?」
ガブリエルは未知の言語を聞かされたように固まった。
「何を言っているんだ! 呪いは人を不幸にする悪しき力だ! それを喜ぶ人間などいるはずがない! ……そうか、わかったぞ。その呪いは君の精神に作用し、正常な判断力を奪っているんだな!? ああ、なんて不憫な……!」
なぜそうなる。
男の瞳に熱い同情と慈愛の炎が宿る。己の正しさを一ミリも疑っていない人間は本当に厄介だ。
「違います! 私の精神は至って健康です! 迷惑ですからお引き取りください! あっちへ行って!」
「待ってくれ! 見捨てるわけにはいかない!」
聖剣を収めたガブリエルがなおも食い下がってくる。
驚いたことに、彼は私の放つ強烈な精神威圧の瘴気を浴びながらも、足一つ震わせていなかった。常人なら失神するレベルの呪気だというのに、彼の強靭な精神力と魔力は、その恐怖を真っ向から相殺してしまっているらしい。なんて邪魔な男だろう。
「解呪を拒むなんて異常だ! 君がどれほど拒絶しようと、私は聖騎士として苦しむ民を見過ごすことはできない!」
「ですから苦しんでいないと言っているでしょう! 私の言葉を聞きなさい!」
「君が正気を取り戻すまで、私は決して諦めないぞ!」
押し問答に、店員たちがますます青ざめて奥へ引っ込んでいく。冷めてしまった紅茶と、塩を失ったスコーンを見て、私の堪忍袋の緒が切れた。
「……もう結構です。お会計はここに置いておきます!」
銀貨をテーブルに叩きつけると、愛用の本を抱えて足早にカフェを飛び出した。
「あっ、待ちなさい令嬢! 走ると危ない!」
背後から響く甲冑の金属音を無視し、全速力で路地を駆け抜けた。幸い、瘴気のおかげで人々が左右へ逃げてくれたため走るルートには事欠かない。裏道を入り組み、息を切らしながら郊外にある私の屋敷へと滑り込む。
鉄柵の門をくぐり、玄関扉を閉めて閂を落とした。
「はぁ……はぁ……っ! な、何なのよ、あいつは……!」
背中を扉に預け、床にへたり込む。
これだけ撒けばさすがに諦めただろう。ここは街外れの別邸、誰にも邪魔されない私の城なのだから。
そう息を整えて立ち上がった、その時だった。
――トントン。
軽やかな、しかし規則正しいノックの音が扉から響いた。
「ひっ!?」
「ヘレナ嬢、開けてくれたまえ。追いついたぞ」
扉の向こうから、信じられないほど爽やかな声が聞こえてきた。早すぎる。どうやって追ってきたというのだ。
「あ、開けません! 不法侵入で訴えますよ!」
「敷地内には入ったが、屋敷には侵入していないからセーフだ! それより話を聞いてくれ!」
セーフなわけがあるか、この不審者め!
「君の頑なな態度を見て、私は深く反省した」
扉越しに、ガブリエルの声が少しトーンを落として響いてきた。
「君はきっと、過去に深く傷ついた経験があるのだろう。呪いに縋らなければ自分を守れないほど、過酷な何かを背負わされてきたに違いない。それを慮りもせず、頭ごなしに『救う』などと傲慢だった私の落ち度だ。すまなかった」
「……え?」
予想外の言葉に、私は思わず息を呑んだ。
突撃馬鹿とは思えない、酷く真摯な声だった。その声の奥底には、彼自身が何かに追われ、すり減らしてきた者特有の純粋さが見え隠れしていた。
だが――それとこれとは話が別だ!
「わ、分かったなら、お引き取りください!」
「いや、帰るわけにはいかない」
ガブリエルは、こともなげに続けた。
「君が呪いを手放せない理由があるのなら、私がその理由ごと君を受け止め、解決しなければならない。君が自らの意志で『解呪してほしい』と心から願うその日まで、私は君の傍を離れないと決めた」
「は……? 何を言って――」
「というわけで、今日からこの屋敷に泊まり込むことにする! 庭の片隅に天幕を張るから心配はいらない!」
「心配しかありませんわーーーーッ!!」
私の絶叫が、夕暮れの空に虚しく木霊した。
扉の向こうからは、ザクッ、ザクッと頼もしく天幕の杭を打ち込む音が規則正しく響いてくる。
私の愛する、静かで穏やかだった生活は。
たった一人の解呪馬鹿の出現によって、音を立てて崩れ去ろうとしていた。




