#23.
「おはよう、プリシラ」
頬を撫でる手つきが心地よかった。リュエンが穏やかにその名を呼ぶと、プリシラは口角を上げて微笑んだ。彼女はリュエンの両頬を包み込むように触れた。
そして。
「ぐふっ!? ちょっと、何を……」
「『おはよう』ですって? 今、あなたがそんな呑気な挨拶をしていられる状況だと思っているの?」
プリシラはリュエンの頬を力いっぱい引っ張り始めた。
目覚めるなり訳のわからない攻撃を受けたリュエンは、慌てて彼女の両腕を掴んだが、貧弱な体力で怒りに燃えるプリシラに勝てるはずもなかった。
プリシラはリュエンの頬を引き絞ったまま、言葉を叩きつけた。
「この稀代の分からず屋! 世界中の人が見るような派手な魔法をぶっ放しておいて、一週間も気絶してるなんてどういうつもりよ!」
「プ……プリシラ、頬を……離し……」
「離すもんですか、この馬鹿! 私がこの一週間、どれだけ苦労したと思ってるの? あなたは後片付けのことなんてこれっぽっちも考えずに、優雅に眠りこけちゃって!」
「それは……悪かったと思っているが……」
「私があなたの額に、どれだけデコピンをかましたか知ってるの!?」
デコピン……?
そう言われてみれば、額がじんじんと疼く気がする。それよりも早く頬を離してほしい。そろそろ感覚がなくなってきた。
リュエンが降参を示すように両手を上げると、プリシラは鼻息荒くようやく手を離した。
頬の痛みのおかげで、自分が生きていることをはっきりと実感できた。
(それにしても、一週間とは……)
ただ目を閉じていただけのつもりだったが、それほどの時間が流れていたとは信じがたかった。
「すまない、プリシラ。苦労をかけたな」
「言うことはそれだけ? リュエン・シェイルグ」
ベッドから身を起こしたリュエンは頭を下げて謝罪したが、へそを曲げたプリシラの怒りは容易には解けそうになかった。
彼女の言う通り一週間も経ったのであれば、多大な迷惑をかけたことになる。言葉だけの謝罪で許されるはずもないだろう。
それはそうなのだが……どうすれば機嫌を直してくれるだろうか。
リュエンは困り果てた表情でプリシラを見つめ、尋ねた。
「申し訳ない。私の至らなさゆえ、どう宥めればよいか分からぬのだ。どうすれば許してもらえる? 何でもするから教えてくれ」
「本当に、何でもするの?」
「ああ」
「いいわ。許してほしいなら、今から私の言う通りに復唱して」
プリシラは目を細め、コホンと一つ咳払いをしてから続けた。
「私、リュエン・シェイルグは、自分の限界も知らずに調子に乗って、無様に気絶して一週間も寝倒しました」
「私、リュエン・シェイルグは……プリシラ、それは少し違う。限界を知らなかったわけではなく……」
「復唱するっていう約束さえ守れないの?」
「……自分の限界も知らずに調子に乗って、無様に気絶して一週間も寝倒しました」
「プリシラをものすごく心配させました。これからは絶対に倒れず、気絶せず、プリシラの言うことをよく聞きます」
どれほど心配をかけたことだろう。
改めて見れば、彼女の目の下には隈があり、満足に眠れていないようだった。一方でリュエンの体は、倒れる前よりも軽くなっている。腕も以前よりスムーズに動いた。
眠っている間、ずっと彼女が治癒し続けてくれたおかげだろう。
現実のみならず夢の中でさえ、プリシラはリュエンを守るという約束を果たしてくれた。それなのに自分は不甲斐なく、彼女を不安にさせてばかりだ。
申し訳ないと思う反面、プリシラが傍にいてくれるという事実に、リュエンは得も言われぬ充足感を覚えていた。
プリシラさえいればいい。彼女さえいれば、自分はただの愚かな男でいられる。
リュエンは手を伸ばし、プリシラの目元を愛おしそうに撫でながら言葉を繋いだ。
「……本当にすまない。これからは決して、そなたを心配させないと誓おう。倒れず、気絶せず……そなたの言葉だけに耳を傾けると約束する」
「さっきと少し言い回しが違うじゃない」
「許してくれ」
「まあ、いいわ。無事に目が覚めたんだから許してあげる。でも、次は無いからね」
「これほどの醜態を何度も晒すわけにはいかないからな。二度と心配はかけぬと誓うよ」
リュエンの答えを聞き、プリシラはようやく鋭い視線を和らげ、彼の心を捉えて離さない眩い微笑みを浮かべた。
「無事でよかったわ、リュエン」
「そなたがいてくれたおかげだ、プリシラ」
「ふふ、よし。お腹空いたわね。あなたも一週間寝てばかりだったんだから、空腹でしょう? ご飯作って」
「何か食べたいものはあるか?」
「そうね。オムレツがいいわ」
着替えてから降りてきなさいと言い残し、プリシラは部屋を後にした。手早く身支度を整えて一階へ下りると、プリシラが下準備をしている姿が目に入った。
「材料なら出さなくてよいのだが」
「そうはいかないわよ、買っておいたものは使い切らなきゃ。料理を作ってくれるはずのあなたが寝込んでくれたおかげで、わざわざ買い出しに行ったんだから」
……どうやら今日は、精一杯心を込めて腕を振るったほうがよさそうだ。
「そ、そうか。あとは私がやるから、そなたは休んでいろ」
リュエンがたどたどしく言うと、プリシラは肩をすくめて彼の横を通り過ぎ、椅子に腰を下ろした。リュエンが彼女の跡を引き継いで調理を進めていると、ふと思い出したように尋ねた。
「プリシラ。一つ聞いてもよいか?」
「ええ」
「さっきのあの歌は……一体何だったのだ?」
聞いていた当時は笑うのに必死で聞けず、その後は怒られるのに必死で聞けなかったが、聞かずにはいられないほど気になっていた。
「ああ、あれ? 子守唄よ」
「子守唄だと……?」
……子守唄? あれが?
困惑が顔に出ていたのか、プリシラはいたずらっぽく笑いながら続けた。
「そうよ。うなされているみたいだったから聞かせてあげたの。私の子守唄、どうだった?」
「え? ああ……その……」
あの歌を思い出すだけで、笑いを堪えるのが難しい。お世辞にも上手とは言えない、それどころかプリシラはとんでもない音痴だった。
リュエンが言葉に詰まって適切な表現を探していると、プリシラはケラケラと笑って答えた。
「私、歌すごく下手でしょう? 自分でも分かってるわよ。でも、あまりに下手だから、かえって良い夢を見ながら眠りにつけるんですって」
確かに、一定のラインを越えた歌声が響き続けたおかげで、夢の中にまでプリシラが現れた。馬鹿げた歌詞に乗せて、悪夢を追い払うように……。
「ああ、そうだな……本当に良い子守唄だった」
かつて戦場にいた頃、悪夢にうなされる戦友たちを案じて子守唄を歌ってあげたことがあった。歌が始まると皆が穏やかな表情になったため、プリシラは自分が音痴であることすら気づいていなかったのだ。
あまりに下手だからよく眠れると言ってくれた、大切な戦友。死にゆく瞬間まで、プリシラの子守唄をねだった愛おしい仲間。
プリシラの顔に深い哀愁がよぎるのを見て、リュエンの心はざわついた。
彼女にそんな切ない表情をさせるのが自分ではないという事実に、得体の知れない苛立ちが込み上げる。彼女の心をこちらへ向けたかった。
「プリシラ。よければ、襲撃の後のことを教えてくれないか?」
「え? ああ、そうね。あなたも知っておくべきだわ」
プリシラの視線が自分へと戻ってきた。そのことに安堵しながら、リュエンは紡ぎ出される彼女の話に耳を傾けた。




