#22.
リュエンの答えに、プリシラは両目をしばたかせて聞き返した。
「リュエン? 今、なんて……」
「プリシラ。下がっていろ」
「まともに歩けもしないのに、何を言ってるのよ」
ふらつきながら彼女の腕から抜け出したリュエンは、蒼白な顔で火の手が上がる街を見つめた。
確かに、リュエンの能力を以てすれば、火を消すことなど造作もないだろう。
しかし、彼はつい先ほど魔力暴走を起こしたばかりだ。そもそも負傷も完治していない状態で、強制的に他人の魔力を上書きされまでしたのではないか。
いかに彼が大魔導師だとしても、この体調で大規模な魔法を駆使するのは困難なはずだ。
プリシラが眉を顰めて彼を止めようとした、その時だった。長く息を吐いたリュエンが、ゆっくりと腕を持ち上げた。
そして。
「……」
刹那の間だった。瞬きする暇さえない、その一瞬。
すべてが、消えた。
世界を飲み込まんばかりに燃え盛っていた火焔も、その間を縫って命を刈り取っていた魔物たちも。鎮火したわけでも、殺したわけでもない。文字通り、消え去ってしまったのだ。
「一体、何をしたっていうの……?」
プリシラの呟きに、リュエンは答える代わりに手を緩やかに振った。その動きに合わせ、壊れ、焼き尽くされた建物が元の姿へと復元され始めた。
「……」
茶を一杯淹れるほどの短い時間。
そのわずかな間に、リベリアを襲っていたすべての災厄が消え失せた。目にしてなお信じがたい光景に、プリシラはもちろん、事の成り行きを見守っていたライディスも、魔物を食い止めるべく先頭に立っていたラファエルも、言葉を失った。
短い沈黙が、戦場だった街路に降りた。
街を見渡していたリュエンが、ゆっくりと体を翻してプリシラを見た。微かな微笑を浮かべ、彼が彼女のもとへ歩み寄ろうとした瞬間。
「……リュエン!」
リュエンの体が大きく揺らいだかと思うと、力なく崩れ落ちた。素早く駆け寄ったプリシラは、間一髪で彼の体を支えることができた。リュエンを抱きしめたプリシラが、彼を覗き込んで尋ねた。
「リュエン。大丈夫? 動ける?」
「……」
「リュエン? リュエン!」
広大な王宮のホール。夜会が真っ盛りの会場には、華やかに着飾った貴族たちが集まっていた。
花のように美しい令嬢たちと、品位ある令息たちの間に「彼女」は立っていた。
水色の髪を長く垂らし、純白のドレスを纏った彼女は、この世のものとは思えないほど非現実的な美しさを湛えていた。
聖なる純白。世界が創り出した最高の創造物と謳われる、美しき王女。
王女が持つのは、非現実的な美貌だけではなかった。ガエル魔導王国の全土を包み込むほどの、大規模な結界。
彼女の結界に守られた王国には、疫病も蔓延せず、飢饉も起こらない。歳月さえも通り過ぎていくほどの強力な守護スキル。
いかに他国が悪あがきをしようとも、彼女を擁するガエルが敗北することなどあり得なかった。
気安く声をかけることさえ憚られるような聖なる美しさを持つ少女が、ゆっくりと首を巡らせた。
『リュエン。お帰りなさい』
誰にも微笑まない彼女が、自分を見る時だけは晴れやかに笑った。慈しむような声で彼の名を呼んだ。
その声に含まれているものが、脳を蝕む劇薬であると知りながらも。
彼は自分に向けられる、自分にだけ許された唯一の甘美な愛情を拒むことができなかった。
共にいることでより壊れていくと分かっていても、近づいてくる彼女を振り払うことはできなかった。
『リュエン。私はあなたがいなければ駄目なのです』
「あなたも、私がいなければ駄目でしょう?」
声が重なり合う。気がつくと、周囲は一面の血に染まっていた。崩れ落ちたホールと、弾け飛んだ死骸の山。
顔の半分が真っ黒に焼けただれた彼女が、リュエンに手を伸ばした。
『だから、戻ってきて』
「あなたの居場所はここですよ」
優しい声。しかし、以前とは違い、遠ざかることができた。暁の光が彼の前を照らしていたからこそ、リュエンは拒絶することができた。
「戻らない。私の居場所は、プリシラの隣だけだ」
『戦場の盾が、本当にあなたをすべて受け入れてくれると思っているのですか?』
「彼女があなたの過去を知っても、なおあなたを信じ、守ってくれると思っているのですか?」
「プリシラは、守る者だ。約束がある限り、彼女は私の傍にいてくれる」
『ふふ。純真な人。戦場の盾は善人ですからね。彼女は最後まであなたの傍にいるでしょう』
「果たしていつまで、彼女が清いままでいられるかしら?」
「あなたが傍にいる限り、彼女は汚されていく。私の傍にいたあなたが壊れてしまったように」
言葉が刃となって心臓を抉る。
高潔なプリシラ。いかに血生臭い戦場のど真ん中にいても、夜明けを連れてくる彼女は、決して汚れに染まることはなかった。
しかし……しかし、自分の傍にいることになれば?
『リュエン。忘れましたか? あなたは染める者。あなたの傍にいれば、誰もが血と狂気に染まってしまうのです』
「誰もあなたの傍で幸せになどなれない。分かっているのでしょう?」
お前は兵器だ。
殺し、壊し、無に帰すもの。お前の傍にあるすべてのものは、儚く消え去っていく。それがお前の存在意義なのだから。
足元が真っ黒に染まった。彼の傍にいて散っていった者たちが、リュエンを縛り付けるようにしがみついていた。
逃れようとしても逃れられない。呪いとなって絡みつく怨念は、彼の幸せなど望んでいない。
プリシラが大切なら、彼女の元を去れ。
去りたくない。彼女だけが、彼の光なのだから。プリシラはリュエンのすべてだ。彼女の傍を離れるくらいなら。
世界のためを思うなら、首を括れ。
誰かの声が耳元で響いた。誰かではない。自分自身の声だ。
プリシラを汚す前に、その息を絶て。
リュエンの手が自分の首にかかった。力など入るはずのない両手に、力がこもる。徐々に締め付けられていく呼吸の中で――。
『何をしているの?』
突如、黒い髪をした子供がリュエンの前に現れた。暁を瞳に宿したように、仄かに輝く青紫色の瞳。
「私は……生きていてはならないのだ。私がいれば……」
『何を馬鹿なことを言っているのよ? それどころじゃないでしょう!』
子供はリュエンが答える前に、その襟首を掴んで引っ張った。片手には木の枝を握りしめている。
木の枝??
『海の怪獣を倒して秘薬を見つけなきゃ。幼い少女が私たちの薬を待っているんだから!』
このガキは何を言っているんだ。理解できない。
しかし、子供の奇妙な言葉が続くたびに、悪夢が薄れていった。闇が晴れ、空は青みがかった光に染まっていく。眩い光と共に、リュエンは目を開けた。
「あぁ〜♪ 片手には木の枝、もう片手には空の薬瓶。少年は進んでいく。高い海の怪獣をなぎ倒し、小舟に乗って〜♪」
音程も拍子も外れた滑稽な歌が、耳元に染み込んできた。呆然と目をしばたかせると、一拍遅れてそれがプリシラの声だと気づいた。
何がそんなに楽しいのか、ふんふんと鼻歌を歌いながら、プリシラは本をめくっていた。相変わらずおかしな歌が続く。
「人里離れた村の少女と約束したの。お母さんを治す秘薬を必ず届けるって! 少年は進む。片手には木の枝、もう片手には空の薬瓶を持って〜♪」
あまりに歌が下手すぎて、歌として成立しているのかさえ怪しい。
だが、あまりの下手さに、思わず笑いがこぼれた。
「ふふっ……」
笑い声が聞こえると同時に、歌が止まった。プリシラの目が丸くなり、やがて三日月のように細められた。
リュエンに歩み寄ったプリシラは、彼の頬を愛おしそうに撫でながら言った。
「やっと起きたわね、リュエン」




