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夏のあの日

 それは突然だった。

「夏休みさ、どこか行かない?」

 そう声をかけてきたのは恵理だった。

 柴山はいつものことながら、唐突な恵理の言葉に戸惑いの表情を向ける。

「は?」

 不愛想に返すのも、いつものこと。

「夏休み時間あるから、色々な所に行きたいんだけど、ネタがないのよ。柴山は夏休みどこか行く所があるなら、一緒に行きたいと思って」

「何で俺の行く所にお前が来るんだ?」

「え、なんで?」

 恵理は逆に聞き返した。聞かれたこと自体が予想外、というように。

 そして、柴山はいつものように露骨に苛立ちの表情を出す。

「なぜ夏休みまで、俺はお前と一緒に過ごさないといけないんだ?」

「いいじゃん。友達でしょ?」

「俺とお前がいつ友達になったんだよ」

「え、違うの? マジでか」

「俺はそんなものになった覚えはない。ということで、この話はなしだ」

 柴山はしっしっと手で追い払うしぐさをする。

「えー」

 恵理は明らかに不服そうに口を曲げて声をあげた。

「えー、じゃねぇよ」

 柴山も負けじと、顔を歪めて返した。

「どうせ柴山も夏休み暇でしょ? 一か月あるうちの数日ぐらい私にくれたっていいじゃない?」

「お前の場合、一日許すと全部入ってこようとするだろ」

「いつ私がそんなことした?」

「いつもだよ! い! つ! も!」

 柴山が声を荒げて、恵理に顔を近づけて言った。

 恵理は顔を歪めて、その柴山から背をのけぞらせて離れる。

「そんな風に言わなくてもいいじゃん……」

 恵理は唇をとがらせて、椅子に膝を抱えて座った。

 ふーん、と言いながら恵理は柴山へ背を向けて、ぶつぶつ何か言っている。

 柴山はしばらく無視をして、机に新聞を広げてそれを眺めていたが、恵理は全く動く気配がなかった。

 ちらちらと恵理を見る回数が増えていく柴山は、耐え切れなくなって口を開いた。

「わーかったよ! 一緒に行けばいいんだろ!」

 恵理はくるっと柴山の方を振り向いた。その顔はぱぁっと明るく華やぐ笑顔だった。

「さすが柴山ー! やっぱり君は優しいねー!」

 恵理は柴山の髪をわしわしと片手で強くなでる。

「やめろっての!」

 柴山は、それを強くはらった。


 そして、夏休み初日のこと。

 恵理と柴山はある大きな駅にいた。

「お前、本当に来るのか?」

 柴山は隣に立つ恵理に聞く。

「行く!」

 恵理は元気良く答える。

「あーそうですか……」

 柴山はもう何も言う気力が起きないのか、それだけであとは大きくため息を吐いて、また目の前の線路を見つめる。

「しかし、柴山が毎年夏休みにおじいちゃんの家に遊びに行くような子だったとはねー」

 恵理は、単純に驚いた風に言う。

 だが、柴山にはそれが余計に気まずい思いを感じさせた。

「……別に、関係ないだろ……」

 言う声も、どこか弱々しい。

 照れているのか何なのか、その表情からは察せられないが、柴山は口数が少なくなっていた。

 恵理の質問には答えるが、それ以外は黙ったままだ。

 恵理もだんだん気まずくなり、二人の間に沈黙が多くなった。

「ごめん、言い方悪かったね。柴山のおじいちゃんってどんな人か気になっただけなの。これから会うんだし、ちょっと教えてほしいなって……」

 恵理は柴山の様子を窺うように、顔を恐る恐る覗き込みながら言う。

 柴山は、それに思わず表情を崩した。

 普段はマイペースな恵理だが、大事な時にはちゃんとその時に応じた言葉を出せる。

 そういうところがあるから、なんだかんだ振り回されながら柴山は恵理と一緒にいてしまうのだった。

 柴山が口を開こうとした時だった。


――まもなく、電車が参ります。黄色い点字ブロックの内側に下がってお待ちください。


 アナウンスが流れた。

 線路へ視線を向けると、電車がちょうどホームへ入ってくるところだった。

 電車のモーター音と風を切る音が、二人の前を通り過ぎていく。

 ゆっくりとドアが二人の立っている位置にぴたりと合わさった。

 少しガタつく音を立てて扉が開く。

 何も言わずに、二人はその電車に乗った。

 車内は空いていて、席はどこでも座れた。

 空いている席の方が多かった。

 ドアからすぐ入った席に、二人は横並びで座った。

 電車のドアは、また開いた時と同じようにガタついて、空気が抜ける音とともにゆっくりと閉じた。

 うなるモーター音とともに、電車は揺れながら動き出した。

 少し走ると、柴山は口を開いた。

「……俺のじいちゃんは、いつも笑ってて優しい人だ」

 恵理は柴山の方を見た。

 柴山は、言葉を切って少しうつむく。

 少しして、また顔をあげた。

 恵理の方へは視線を向けない。前を見ていた。

「……柴山は、おじいちゃんのことが好きなんだね」

 恵理は、柴山に視線を向けて言った。

 その顔はほのかに笑んでいる。

 柴山は、口を引き結んだ。怒っているようにも見える。

「……じいちゃんは、俺に色々教えてくれるから、嫌いではない……」

「そうか」

 柴山がこのようなことを言うのは珍しい。

 恵理は何だか嬉しくなり、笑顔が濃くなる。

「……だから、お前と話をしたら面白いかと思ってな。じいちゃんの話につきあってほしいんだ」

「なるほど! そういうことならお安い御用よ!」

 恵理はドンと、自分の胸を大きく叩いた。

「お前はそういうの好きそうだよな」

 柴山は、そこで表情を崩した。

 その表情を見て、恵理はほっとした。

 また二人の間に沈黙が流れる。

 電車が揺れ、風をきる音だけがする。

 ごととん、ごととん。しゅー。

 誰とも知らぬ人とともにする空間なら息苦しく感じるのだが、不思議と恵理と並ぶこの時間は居心地が良かった。

 いつも祖父の家に向かうこの電車に乗ってる時は、息苦しい空間から逃げ出せることへの高揚感ばかりであった。

 それとは違う気持ちを抱えて、柴山はどこか落ち着かない気持ちも抱えていた。

 この気持ちを何と表せばいいのか、柴山にはわからなかった。


 目的の駅に着いた。

 恵理達のいる町から出てる同じ電車で来たのに、そこにある景色は全く違う。

 ホームは小さく、降りるとすぐ目の前が改札だ。

 改札の向こう側には、よく晴れているせいもあって、真っ青な海とところどころ緑のある街並みが広がって見えた。

「うおぉお!! 海だぁああああ!!」

 駅へ降りて、恵理がまず張り上げた第一声だった。

 雄叫びのように、およそ十代の少女らしからぬ太い声で両手を上げた。

 柴山は、それを少し離れて冷ややかに見ていた。

 恵理はそれに気づき、柴山にすり足で静かに近づいた。

「何よ柴山、その顔は」

「何よもへちまもないだろう。高校生にもなって海で何はしゃいでるんだよ」

 柴山の言葉に、恵理は不服そうに口を曲げた。

「柴山こそ、何俺は興味ありませんみたいな顔してるの? あんたは毎年来てるから見慣れてるだけでしょ? どうせ毛も生えてないようなかわいい少年の時は、裸で飛び跳ねながら海に行ったんでしょう?」

「裸で飛び跳ねてなんかねぇし!」

 恵理の言葉に、柴山は即座に怒鳴った。

「まぁ、それはちょっと大げさに言っただけで、毎日海に遊びに行ってたでしょ?」

「……そう……だったな……」

 柴山は、視線を斜め上にそらした。

「柴山のおじいちゃんの所に行くけど、それはそれとして海にも行きたいなー。いいでしょ?」

「俺は別にかまわねぇけど……」

「よっし!」

 柴山の返事に、恵理は両の拳をぐっと握り締めた。

「とりあえず、まずは荷物も置きたいし、挨拶もしたいから、じいちゃんの家に行くぞ」

「はーい!」

 恵理は元気よく返事をして、歩き出す柴山の後ろについていった。



 そうして柴山の祖父の家に着いた時、恵理の表情は全く違ったものになっていた。

「おう、着いたぞ佐藤……って、お前なんだその顔……」

 柴山が横にいる恵理に声をかけようと顔を向けると、すさまじい形相の恵理を見て、驚きに目を見開いた。

 次に、恵理の様子を探るように目を細めた。

「あんた……こんな山の上だなんて話してなかったじゃない……。私の体がびっくりしちゃったじゃない……」

「なんだよこれぐらい。情けねぇなー」

 柴山が口の端を持ち上げて、恵理を見下ろして笑う。

「なによそれー!」

 恵理は肩をいからせて、柴山に向かって怒鳴った。

「おやおや、ずいぶん賑やかだね」

 すると、その険悪な雰囲気には不似合いな穏やかな声が二人にかけられた。

 声の方へ二人が顔を向けると、優しく微笑む白髪の男性が立っていた。

「あ、す、すみません……騒いでしまって……」

 恵理は慌てて姿勢を正し、男性の方へ向き直った。

 柴山は唇を引き結んで、こちらも居住まいを正す。

「じいちゃん、来たよ」

 柴山の口調は、いつも恵理に向けるものとは違って、どこかとげとげしさが抜けていた。

「あぁ、よく来たね、誠。お連れさん、佐藤さんだったかな? あなたの話も聞いているよ。どうぞあがって」

「まこと……」

 恵理が、柴山の祖父の呼んだ名前を口の中で小さく転がすように言う。

「佐藤、早くあがれ」

 その恵理に、柴山は低い声で促した。

 恵理は、渋々柴山に従って、並んで家に上がった。

 家の中は、年季の入った色をした柱や家具たちがあり、この家の過ごしてきた時間を思わせた。

 少しほこりっぽいような湿っぽいような、独特の匂いもする。

 恵理はこの匂いに、どこか安心感を覚えた。

「私のおばあちゃんの家と、匂いが似てる」

 嬉しそうに、そうこぼしていた。

 柴山の祖父は、その恵理の言葉ににこやかに微笑む。

「ゆっくりしていきなさい。ここの良いところは、誠が教えてくれるだろう。何か足りないものがあったら遠慮なく言うんだよ」

「あの!」

 そう言って男性が別の部屋へ行こうとするのに、恵理は声をかけた。

 柴山の祖父は、意外そうに目を少し開いて後ろを向こうとした体をまたひねって恵理を見た。

「おじいさんのお話を聞かせてもらえませんか?」

「私のかい?」

 お互いに見つめあう二人の間に、柴山が入り込んだ。

「佐藤は、じいちゃんの話を聞かせてもらいたいんだって。昔の話に興味があるんだとよ」

「へぇ……。夏休みの宿題か何かなのかい?」

「いえ! 私の単純な興味です! 別に何かにのせようとかそういうことではないので、安心してください!」

 恵理は、身を乗り出して言う。

 柴山の祖父は、その顔をほころばせた。

「面白いお嬢さんだね。面白い話かどうかわからないが、聞きたいことに答えるよ。何の話が聞きたいんだい?」

 柴山の祖父はそう言って、踵を返そうとしていた姿勢を戻して、部屋の畳に腰をおろした。

 恵理は明らかにわかるほどに、表情を明るくした。

「ありがとうございます! 私、戦時中の人々の生活に興味があるんです。差し支えない範囲で、お話を聞きたいんです」

「戦争のことか……私は子どもだったから、あまり参考になるようなことは言えないと思うが……」

「あの……話しづらいことがあれば、無理におっしゃらなくても良いので……」

 柴山の祖父が言葉を濁していると、恵理もだんだん弱腰になってくる。

「じいちゃん、俺に昔してくれた、あの山での話をしてくれよ」

 その二人を見かねて、柴山が言った。

 柴山は、いつのまにか麦茶を取り出して、人数分を部屋の中央にあるテーブルに並べていた。

 そうして、そのテーブルの側に膝を立ててゆったりと座った。

 恵理も、それにならって隣に、こちらは慎ましやかに身を小さくし、正座をして座った。

「あぁ、あの話か……。そうだな。私の記憶に残っているものといえば、あれぐらいだな……」

 そう言うと、柴山の祖父も腰を落ち着けて語りだした。



 それは、よく晴れた夏の暑い日のことだった。

 まだ小学生ぐらいであった柴山の祖父――みのるは、近所の山に逃げていた。

 街が空襲にあい、中心部から火の手が上がっていた。

 全体を焼き尽くすのも時間の問題とみられたため、山の近くに住んでいた実と家族たちは、防空壕のある山の中へ避難していた。

 外の光さえ見えない奥深くへ潜るため、振動以外は外の様子が全くわからない。

 そのために、逆に恐怖感が煽られた。

 遠くで爆発する音、風の吹きすさぶ音だけが聞こえる。

 周りにいる者も、息さえ押し殺してじっと小さくかたまっていた。

 しかし、ここの山には神社があった。

 いつも実たちはそこで遊んでいた。

 両親からも、その神社にいる神様が、自分たちのことをいつも見守っていてくれると言われていた。

 だから、実たちは不安な気持ちではあったものの、神様がいるから大丈夫、とどこか安心感もあった。

 しばらくして音が止み、空襲は終わったかと、まずは父が外へ向かっていった。

 大丈夫だ、と手を振って知らされた。

 そうして他の家族も外の出入り口へ進む。

 小さい実たちは、手を引かれて外に一緒に出た。

 外に出ると、一瞬風が私たちの髪を吹き上げた。

 目を閉じてそれをかわし、次に目を開いた時に実の目に映った光景は、先ほどまで自分が見ていたものとは全く変わっていた。

 様々な赤に染まった空と街が、そこにはあった。

 夕方の太陽が陰り赤く染まった空に、街が燃え上がる炎がさらにその空を赤く染めていた。

 全てが赤く染まり、炎によって風がうなる様を、ただ呆然と見ていた。

 すぐには動けなかった。この状況でどうしたら良いか判断できるような人間は、そういないだろう。

 そもそも、この焼けた街へ戻って何ができよう。それは自殺行為である。

 外に出たものの、皆それをさとり、また防空壕の中へ戻っていった。

 防空壕には、もしものためにしばらく過ごせるように生活用品は揃えられていた。

 とりあえず一晩を過ごし、明くる朝、家族皆で火のおさまった街へ降りて行った。

 街は、まだ小さく火がくすぶっている場所があった。

 焦げて、すえた匂いが辺りに漂う。

 かぎ慣れない匂いに、実は鼻を手で覆いながら、必死で家族の後についていった。

 家族も、あまり周りを見ないようにか、いつもよりも足取りが速く感じられた。

 家に戻ってみたが、何もなかった。

 跡形もなく、すべて消えていた。

 家であっただろう、木の燃えカスだけがそこにはあった。

 とりあえず、食べ物を探しに行かなければいけない。

 着のみ着のままで出てきてしまったから、本当に実たちには何も残されていなかった。

 歩いていると、知り合いに出会った。

 その人から、防空壕のある山の神社で食べ物を配っているらしいと聞いた。

 実たち一家は、急いで来た道を引き返した。

 着いてみると、本当に食べ物があった。

 温かい汁と、おにぎりを一つ分けてもらえた。

 どこから手に入れたかは、この際気にしていられない。

 実は、あの絶望から食料を得た瞬間、とても満ち足りた気持ちになったのであった。



「人間というのは、単純なものだな、と思ったよ。腹がいっぱいなら、生きていけるんだから」

 実は最後に、そう言ってははっと笑った。

 その口調もからっとしていた。

 恵理は、少し面食らったように呆けた表情で実を見ていた。

 柴山は慣れた様子で、横で話を適当に聞きながら茶をすすっていた。

「じいちゃん、ところで俺はそろそろ腹が減った。腹が減ったら生きていけないだろう? 飯を作るぞ」

 そう言って、柴山は飲み干した自分の湯飲みを持って立ち上がった。

「おう、そうだな。誠もくるし、今日は色々買っておいたぞ」

「何があるんだよ?」

 そうして、実と柴山は二人して台所へ歩いていった。

 恵理も手伝いに立とうかと思ったが、二人して行ったのでは自分の出る幕はないな、とその場に座った。

 座ったまま、漫然と視線を部屋に巡らす。

 二人が消えた、恐らく台所と思われる方向から、食材を焼く音、切る音、何か話している声がかすかに聞こえてくる。

 それ以外は、本当に静かな場所だった。

 外からしてくる音は、風の音ぐらいだろうか。

 山の下は有人の駅があり、その周りはそれなりに建物や人があった。

 しかしここにはその街の音が聞こえてこない。

 恵理は、歩ける距離にいくつも駅があるような都会で生まれ育ったため、こういう場所はほとんど経験したことがなかった。

 だからこそ、ここにいるのはとても不思議な心地がした。

 落ち着かないような、どこか安心できるような。

 そんな中、聞こえる音や感覚は全て新鮮で、どれも逃したくないと、そちらへ感覚を集中させていた。

 葉擦れの音も、虫の声も、こんな風にじっくりと聞いたことはなかったかもしれない。

 その音ばかりを聞いていると、意識がそちらへ飛んで行って、自分もその世界の住人になったかのような感覚に陥っていく。

「佐藤!」

 そこへ、声がかけられた。

 恵理が驚いて勢いよく声のした方を振り返ると、怪訝そうな顔をした柴山が立っていた。

 その手には、湯気の上がった皿を持っていた。

 どうやら料理ができたようだ。

「おぉ、ご飯ができましたか! 待ってました!」

 恵理は拍手をして、柴山が料理を運んでくるのを迎える。

「大げさすぎるだろ」

 柴山は呆れたように息をつきながら言い、皿を置いた。

 目の前に出された皿にあったのは、カレーだった。

 茶色い液体と白いご飯が、それぞれ半分ずつ見えている。

「やったー! カレーだー!」

「佐藤さんは、カレーが好きなのかい?」

 もう一つのカレー皿と、器から緑のものがはみ出ているどんぶりを持ってきた実が言う。

「カレーが嫌いな人なんていませんよ!」

 恵理は飛び跳ねそうな勢いで、体を揺らしながら言う。

「嫌いなやつだって、いるかもしれないだろ」

 柴山は表情を変えずに、冷たい声で言い返す。

 そして、立ち上がってまた台所の方へ行った。

 すぐに人数分のスプーンを持って戻り、無造作にそれぞれの前にスプーンを置くと、自分のカレーを勢いよく口に運んでいく。

 恵理は、それに戸惑いながら実へ視線をやる。

 実は微笑みながら、カレーに口をつけた。

 恵理もそれに安心して、カレーを食べ始めた。

 ただ黙々と、三人はカレーを口に運んだ。

 お腹がすいていたのは、もちろんあった。

 だがそれ以外にも、一心にカレーを食べさせるものがそこには存在していた。

 人の家で出されたものは食べる、という意識というより、先ほどの話を聞いたら、そのような経験をした人が出してくれたものはとてもありがたいように感じられた。

 だから、きちんと大事に食べなければいけないと思われたのだ。

 だが、こんな風に黙々とただ口に運ぶのも、もしかしたらただの作業にしてしまっていないだろうか。

 恵理は急にそんな風に思ってしまい、カレーを運ぶ手を止めてしまった。

 いや、とりあえず食べないとだめでしょ、食べ物なんだから。

 止まったのはほんの一瞬で、また恵理は食べるのを開始した。

 カレーはとてもおいしく、これを食べないのはカレーの材料になった食材たちに失礼である。

 それに、特に手を止めたからと言って、何か気の利いた話ができるわけでも、聞きたいことがあるわけでもなかった。

 何もできないなら、この食事に向き合うしかない。

 そうして、恵理はカレーを食べ終わった。

 黙々と食べていたはずなのに、柴山と実はもうすでに食事を終え、食器を片付けていた。

 恵理が食べ終わった食器を持って立ち上がると、実が隣に来て、笑顔でそれを受け取った。

「ありがとう。座っていなさい」

 恵理は、言われたとおりにおとなしく座った。

 台所では、実と柴山が忙しなく動いていた。

 人の家に来ているのだから、できることなどないのだが、自分だけがただ座っているというのは居心地の悪いものがあった。

 こういう時に、せめて柴山が相手をしてくれればいいのに、と恵理は少し恨めしく思っていた。

 だが、柴山は自分の祖父に会いにきたのだ。

 その時間を邪魔しにきたのは自分である。

 そう考え直して、恵理は気を落ち着けた。

 自分が望んでここに来たのだから、自分で得たいと思うものを見つけなければいけない。

 恵理は、じっと時を待った。



 結局着いた初日は、実の話を聞いただけで一日が終わった。

 暗くなるまでには少し時間があったので、辺りを探索しようかと思って恵理は一旦外に出た。

 しかし、あまりにも周りは山深く、土地勘のない恵理は案内なしには何もすることができず、そのまま周りの植物を鑑賞だけして戻ってきてしまった。

 戻ってきたら、柴山は何をするでもなく、寝転がってスマートフォンをいじっていた。

「嘆かわしいなぁ! 健全な男子が外にも出ないでゲームをしているのかい?!」

 その柴山に、恵理は両手を腰にあてて大声で言った。

 柴山は寝た姿勢のまま、恵理の方に少し顔を起こして目を向ける。

 目を細め、その表情はとても冷えていた。

「今時スマホ一つで何でもできるんだぞ? ゲームしかやってないのはお前だろう?」

 ぐっ、と恵理は柴山の言葉にうなる。

「じゃ、じゃあ、何してたのさ?」

 恵理は柴山の側に座って、スマートフォンを覗こうとした。

 柴山はうるさそうに手で恵理の顔を押さえながら、体を起こした。

「本を読んでたんだよ。本を持ち歩いてるとかさばるし、何かあって俺は本が汚れるのが嫌なんだ」

「なぁーに読んでたのぉー?」

 なおもスマートフォンの画面を覗こうと顔を動かす恵理だったが、柴山はスマートフォン自体をポケットにしまった。

 恵理は、口をへの字に曲げて柴山を見た。

 柴山は、そんな恵理を負けじと睨む。

 しかし、先に折れたのは柴山だった。

「わーかったよ。俺もどうせここに来ても何もしないから、明日はお前につきあってやるよ。じいちゃんが話してた場所にでも案内してやる。それでいいか?」

 恵理が退屈していることはわかりきっていた柴山は、そう提案した。

 恵理は満足げな笑顔でうなずいた。

「それでいいのだよ、柴山君」

「何が、それでいいのだよ、だ」

 柴山は、恵理の額を指ではじいた。

「いったー……」

 恵理ははじかれた額を押さえながら、柴山を細めた目で睨む。

「佐藤さん、布団とお風呂の用意ができたから使っておくれ」

 実に声をかけられて、恵理ははーいと笑顔で返事する。

 柴山は、その様子を苦々しい表情で見ている。

 実が立ち去ると、口を開いた。

「俺への態度とだいぶ違うんじゃないか?」

「そりゃ、柴山が私への対応が違うからだよ」

「まぁー、そうか」

 柴山の表情を歪めていたしわが、すっと消えた。

 あっさりと柴山は引き下がる。

 恵理の言うことに、反応して見せるが、彼女に他意がないのはわかっているから、あまり引きずらないことにしているのだ。

「じゃあ、おやすみー」

 恵理は柴山の反応は特に気にせず、来た時に置きっぱなしにしていた荷物を持って、用意された部屋へ引き下がっていった。

「風呂入り終わったら言えよ。俺が次入るんだからなー」

「はーい」

 柴山が去り行く恵理に声をかけると、遠くから応える声がした。

 その声を確認して、柴山は少しの間、姿の見えぬ恵理の方へ視線を向けたままでいた。

 その後、不意にまた寝転がってスマートフォンを眺めだした。



「柴山、おはよー!」

 突然部屋に響く大声で、柴山は強制的に意識を眠りの底から引き上げられてしまった。

 ゆっくりと目を開け、同じ速度で布団の側に正座をする恵理を睨みつけた。

 その目は、寝起きのために一段と据わっていた。

「うるせぇ」

 一言だけそう言って、柴山は体を起こす。

 まだ覚醒しきっていないのか、顔を両手で覆い、背中を曲げて布団に突っ伏す。

 しばらくそのままでいるのを、恵理も同じ姿勢で何も言わずに見守る。

 すると柴山は首だけ恵理の方へ向けた。

「いつまでそこにいるんだよ。着替えるから出てけ。今行くから待ってろ」

 苦々しげな表情ではあるが、だんだんとその目はいつものものになっていった。

 徐々に頭がさえてきたようだ。

 恵理はにこっと満面の笑みを浮かべ、はーいと明るく返事をして部屋を出て行った。

 柴山は頭を片手で乱暴にかき、布団を勢いよくはねのけて立ち上がった。


 そして、居間で恵理が待っていると、着替えて頭も整えた柴山が来た。

 仏頂面で恵理を見ているが、それはいつものことなので、恵理は特に気にしていなかった。

 恵理は笑顔で立ち上がり、何も言わずに玄関へ向かっていく柴山に、ただついていく。

「実さん! ありがとうございました!」

 恵理は家の中を振り返り、大声で叫んだ。

 またおいでー、とやわらかい声が遠くでした。

 柴山が来るまでも、実にはたくさんお話をしてきたから、恵理は満足だった。

 玄関から出ると、日差しが目に差し込んできた。

 太陽は強く光を地に向けて放っているが、木々の葉がそれを遮り、やわらげてくれている。

 ほんのりと涼しい風が頬をなで、とても良い日よりだった。

「いやー、おでかけ日よりだねー、柴山!」

 恵理はつい嬉しくなって、前を行く柴山に駆け寄り肩を叩いた。

 柴山は表情を変えず、恵理を見た。

「ところで、お前どこ行きてぇんだよ。俺は知らねぇぞ」

「え! 柴山のおすすめスポットを教えてくれるんじゃなかったの?!」

「そんなこと一言も言ってないだろう?!」

 恵理が目を丸くして言うことに、柴山も大声で返す。

「えー、いつもここに来てたなら、いつも行ってる場所とかおすすめの場所とかあるでしょ? 連れていってよー」

 柴山の腕をつかんで、恵理は大きく振った。

「あぁー、もう、うるせぇなー! じゃあ黙ってついて来い!」

 柴山はそれを振り払い、また前を歩き出した。

 先ほどよりも速足になり、恵理は小走りでついていった。


 最初にたどりついたのは、上へ続く石段の前だった。

「ここ?」

 止まった柴山の隣に立って、恵理が聞く。

「昨日じいちゃんが話してた神社だ」

 柴山の言葉に、恵理は一瞬口を閉じた。

 少しの間、じっと石段の先を見つめる。

「……じゃあ、ゆっくり行ってみないとね……」

 そう言って、恵理は静かな足取りで石段を上り始めた。

 柴山は、その後ろを同じ速さでついてくる。

 この時は、恵理に合わせてくれた。

 恵理はまっすぐ上を見つめながら、一歩一歩石段を踏みしめる。

 見た目よりも石段は長く、半ばまでで恵理は一旦足を止めた。

 そうして、後ろを振り返る。

「わぁ……」

 目の前には、山のふもとにある町と海が見えた。

 景色へ目を向けると、急に風を感じた。

 肌に触れる風から、ほのかに緑の、どこか水を含んだ匂いがした。

「見晴らしがいいだろう? 街がよく見えるんだよ」

 柴山は、特に含みもなくそう言ったのだろうが、恵理はその言葉で、昨日の実の話を思い出した。

 彼は、きっとこうして燃える街を見たのだろう。

 確かにここは、よく見えすぎる。

 だが向こうからは、木々がうまく隠してくれてこちらは見えにくくなっているのだろう。

「良い避難場所だったよね……」

 つい言ってしまっていた。

 柴山は恵理の言葉の意味をすぐに察し、一瞬目を見開いたが、何も言わずに元の表情に戻った。

「いい加減上るぞ」

 そう言って、歩き出した。

「あ、待ってよ!」

 恵理も慌ててついていった。



 二人はそれから石段を上りきって、神社にお参りをする。

 何の変哲もない、と言ったら失礼だが、よく見かける神社だ。

 人でにぎわっているわけでもない。

 近所によくある、ひっそりとたたずみながらたまに手入れをされ、初詣とかお祭りの時だけ賑わい、周りの人からは親しまれているそんな場所に見えた。

 防空壕の残骸もあるらしいが、それは見にいくのをやめた。

 そういう場所は、恵理は本能的にあまり良くないことを察していた。

 次に恵理は、柴山のおすすめの食べものの店を教えてほしいと頼んだ。

 二人は山を下りた。

 初日に上った道のりと全く同じどころか、神社からの道のりがさらに追加されているので、一層過酷であった。

 特にこの夏場の強い日差しのもとでは。

 しかし柴山が連れていった食べ物は、それをはねのけてくれた。

 まずは、のどを潤す飲み物。

 果物の味の、カラフルな色のサイダーだった。

 意外とおしゃれなものが好きなのだなと恵理は感じた。

 次に、クレープ。甘いものもあるが、柴山はその店の焼きそばクレープが好きらしい。

 焼きそばがはみ出るほどの大きいクレープが二つ出てきたのには、恵理は驚いた。

 食べるのもなかなか大変である。

 しかし、隣にいる柴山は、いつのまにかそのクレープをたいらげていた。

 恵理が食べ切れないでいると、よこせよと言って、残りもさっと口に入れてしまった。

 すごいね、と恵理が感嘆の声を上げていると、育ち盛りだからな、と柴山はなぜか得意げな顔をした。

 何だか恵理はその表情に、妙にいらついてしまった。

 他にもおいしそうな食べ物を売っているお店がたくさんあった。

 柴山は、小さい頃から実にここに連れられてきて、食べ物をもらっていたそうだ。

 彼に声をかける、顔なじみの人もおり、柴山はここのことを確かにとても気に入っていることはうかがえた。

 それから、海を見た。

 ここは、山と海が同時に楽しめる。

 考えれば、海沿いにはだいたい山があるのだから、当たり前の話だ。

 それでも、恵理はとてもお得だ、と思っていた。

 恵理には、山も海も日常にはないものだ。

 こちらから行かねば、味わえない空気だ。

 恵理は、今この瞬間がとても楽しかった。

 そして同時に、とても大事なものなのだと感じられた。

 それは、実の話を聞いたから。

 この場所には、きちんと生きてきた人々の歴史があるのだとわかったからだ。



 ひとしきり遊んで、日が傾いて空が赤く染まりだしていた。

「帰るぞ」

 突然隣を歩いていた柴山は言った。

「そうだね」

 何となく歩いていた恵理は、特に何も言い返さずうなずいた。

 荷物は、駅に預けていた。

 ロッカーから取り出すと、それぞれ荷物をかついで駅の改札を通る。

 数分待つと、電車が来た。

 恵理と柴山は、目の前に止まった扉開き、その中へそろって入る。

 電車の中は、程よい混雑具合であった。

 座れはする。恵理と柴山は、近くのちょうど二つ分空いていた、シートの真ん中ほどの席に座る。

 隣に人がいる中、なんとか大きな荷物を自分たちのスペースへ押し込めた。

 駅が進むごとに、人が入れ替わっていくが、だんだんと電車の中の人は増えていく。

 席に座れてよかった。歩き回ってへとへとな状態で、この混雑に耐えるのは正直に言ってつらい。

 柴山は、特に周りに構うことなく、自分のスマートフォンを眺めていた。

 恵理は特に何もする気が起こらず、ぼうっと周りの席を眺めていた。

 時折、人の隙間から窓の向こう側が見えて、自分のそばにある窓の景色も気になって首をひねったりする。

 恵理のそばの窓からは、ちょうど海が見えた。

 海沿いを走る電車だから、本当にすぐそばに海があった。

 このまま落ちたり、ちょっと高い波がきたら海に沈んでしまいそうだと感じ、想像すると恵理は少し怖くなった。

 遠い海の向こうだけを見ることにした。

 太陽の位置は変わらないが、だんだんと水平線に隠れていく動きだけが見えていた。

 それによって、空の色も赤色が海に飲み込まれ、藍色が広がっていく。



 ふと、スマートフォンを見ていた柴山の肩に重みがかかった。

 何だろうと隣を見ると、恵理の頭が見えた。

 様子をうかがうと、目をつぶり、静かな寝息をたてていた。

 慣れない場所で歩き回ったから、疲れたのかもしれない。

 柴山は、とりあえずそっとしておくことにした。

 別に、頭がのっていることに負担は感じないから、特に問題はなかった。

 しかし、こんな気の抜いた顔をした恵理を見るのは初めてかもしれない。

 柴山はついそう思って、恵理の顔を眺めてしまっていた。

 いつしか、電車の中の方が明るくなり、蛍光灯の明かりが恵理の顔に光と影を作り出す。

 ふと、柴山は思う。

――俺は、こいつといつまで一緒にいるんだろうな。

 もし今ここで、この電車の走る線路に土砂崩れが起きたら、すぐそばにある海から津波がきたら。

 柴山と恵理は、ここで一緒に死ぬことになるかもしれない。

 もしかしたら、目的の駅に着いて、そこで別れた次の日に、恵理がもう柴山に会わないと言ってくるかもしれない。

 今この瞬間以外、一秒後のことすら自分たちにはわからない。

 恵理と出会い、こうして巻き込まれながら一緒に過ごすようになったのも、何げない偶然からだった。

 その時には、まさか祖父にまで会わせることになるとは思わなかった。

 別れも、いつどういうことで起こるかわからない。

 そう考えると、急に複雑な気持ちが柴山の胸に沸き上がった。

 寂しいような、不安なような。

 出会った時には、このような気持ちを抱くなんてことも思っていなかった。

 この気持ちは、何と呼んだらいいのだろう。

 親密さを感じていることは、わかっていた。

 たぶん、友達ではある、と思っている。

 だが、これは友達への感情なのだろうか。

 ここでまた、隣の恵理を見る。

 気持ちよさそうに、すっかり寝入ってしまっている。

 何だか考えるのが馬鹿らしくなってきた。

 恵理とこうしていることは、心地良かった。それでいいじゃないか。

 菊池が夏休みに入る前に、妙なことを言ってきたせいだ。

 柴山は、菊池のせいにした。

 またそうして、スマートフォンを取り出して、読みかけの本を読みだした。

 そうしていると、目的の駅に着いた。

 降りる駅は、柴山も恵理も同じだった。

「おい、佐藤、起きろ。着いたぞ」

 柴山が少し肩をはずして、恵理に声をかけた。

 恵理は寄りかかっていた肩がずれたため、大きく体勢を崩して飛び起きた。

「え!? あ! もう?!」

 驚いてとっさに大きな声を出し、辺りをきょろきょろと見回す。

 周りの人々が、そんな恵理に驚いて不思議そうに見つめ、通り過ぎたり見ないふりをしたりしている。

 恵理はそれを察して、顔を真っ赤にする。

 こういうことには慣れた柴山が、無言で恵理の背中を押す。

 そうして電車を降りた二人の後ろで、電車のドアは閉まった。

 そのまま改札へ歩き出すと、電車は静かに動き出す。

「暗くなってきたから、送ってく」

「え! そうなの?! まぁ、お優しい!」

 駅の出入口に来ると、柴山は言った。

 恵理がそれに驚いた顔をしながら、ちゃかすように笑いながら返す。

「うるせぇ。さっさと行くぞ」

 柴山は恵理の頭を軽くたたき、さっさと歩きだした。

「ちょっと何よー」

 恵理は柴山が触れた部分をおさえながら、口をとがらせて後ろをついていく。

 そうして二人は、並んで暗く沈んだ空に反するように明かりが灯る街並みの中へと行くのだった。

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