名有りのパグ
目が醒める。
窓から射す光がオレンジ色になったころ、佳奈さんは忙しく動き始めた。
多分、健斗君のお迎えの準備をしているんだろう。彼女は今まで使っていたコップやティーポットなどを洗い、使い捨てのウエットティッシュで机の上を拭いていた。
そして、かかっていたクラッシックの音楽を止めて、俺の方を見てこう言う。
「俊介さんは、お留守番していてくださいね」
(了解!)
その気持ちを込めて、頭を上下に振り、大きめにキャンと吠えた。
さぁ、少年は約束を守ってくれているだろうか。こちらはうまくいった。途中、北島という新聞記者に邪魔されたが、一発かましてやった。
奴は、俺たち家族の悲劇を“売り物にして”稼いでる汚い輩だ。きっとそうに違いない。まだ若いからか、使命感とやらがあるだろうが、味をしめたらどうなることやら……。
佳奈さんは玄関まで移動して、置いてあったパンプスを履き、ついてきた俺に軽く会釈をしてから扉を閉めた。
神経質そうだった表情が、柔らかくなった気がする。人って変わるもんだなぁ……。
(きっと美香子たちの心も何かのきっかけで変わるはず)
佳奈さんが健斗君のお迎えに行っている間、ずっと俺はその“きっかけ”を探していた。
もし美香子が手紙の内容を信じてくれて、先生のもとに何らかのコンタクトを取ってくれたら、俺はこの甲高い声で感激の曲でも歌おうか。
それとも、この今にも飛び出そうな二つの瞳で、愛する妻子を見つめ続けようか。
(そもそも、心が痛んだ家族にチワワである俺が何の役に立つ)
キャンキャン吠えることしかできない小さな俺。美香子と夏樹の深い傷に寄り添うことはできるだろうか。
言葉を伝えるのは健斗君だ。
(俺じゃない。そう、俺じゃないんだ……)
いや、深く考えるのは止めよう!
長々とくだらないことを考えていたら、タッタッタ、という威勢のいい足音とゆっくり近づいてくる足音が聴こえた。
そして、ほのかなレモンティの香り。間違いない。二人がお迎えから帰ってきたんだ。
俺は玄関で佳奈さんと健斗君を迎えた。
「俊介! 大変‼」
(?)
俺は首をかしげる仕草をした。もさっと揺れる耳の毛。
「ボクね、俊介のこと、シュンって紹介しちゃった!」
「私は、マーガレット。名前を統一するのを忘れてたの」
(そういえば!)
そして、健斗君は心の底から困ったように俺を見る。
(ん? なんだ、少年)
「明日祝日でね、女の子のお友達のチカちゃんが家に来るんだ……」
おぉ! お前、友達出来たのか。やったな。大体何が言いたいのかわかるぞ。
(俺の名前を、“シュン”にするか、“マーガレット”にするかだろ?)
「お願いシュン~」
もう決定ってか。でも、こどもはすぐ思ったことを口にするからなぁ。田中家がチワワを買いだした理由とかも、近所から聞かれるかもしれない。
矛盾があれば、飛びつく輩がいる。そうして噂は広まっていって、人災を招くことになりかねない……、
(となると、もう一匹犬が居れば解決するんじゃないのか?)
「もう一匹飼うのー?」
そこで、俺は名もなきパグのことを思いだした。奴は山田に捕まっていないだろうか。再び施設の中に入れられているのなら、恩を返すチャンスかもしれない。
俺は保健所から脱出した経緯を、健斗君を通じて、佳奈さんに話した。ここらあたりで犬専用の施設があるのは一軒らしい。
彼女は、まだ仕事中であろう夫に、メールで、その旨を伝えてくれた。内容が分かったのは、佳奈さんが本文を読み上げてくれたからだ。
返信は二時間ほどたってやってきた。
「了解」
その一文字だった。
佳奈さんは、それを読み上げた後、保健所の電話番号をスマホで探し出し、電話をして名無しのパグがいるかどうか確認していた。
(どうか、生きていてくれ……!)
チワワに為って、俺は、生きていて欲しい、輝いていて欲しいと心から思えるモノが増えた。決してきれいごとではないぞ。
切れそうで、決して切れない糸でつながれている人たち……。こんなことを思うと、また少年にクサいと笑われるかもしれないが、縁ってあるんだなぁって思うんだ。
「よくわかんないけど、あるんじゃない?」
床の上で俺と目線を合わしながら、頬杖をつく健斗君。ご機嫌が良いようで。友達ができたことが嬉しかったんだな。しかも女の子。
(緊張はしないのか?)
「うーん、来てみないと分かんないー」
(大丈夫、なのか……)
たわいもない会話をしていると、通話を終えた佳奈さんが、俺に知らせる。
「施設をひっちゃかめっちゃかにしたパグならいるみたいよ」
(そいつに違いない!)
俺は健斗君に伝えた。生活のことや基本的なマナーは俺が教えるから、そのパグを保護してくれないかと。それを佳奈さんに伝える少年。
どうやら俺は、犬と健斗君としか会話ができないらしい。残念だ。
「それじゃあ、お母さんは保健所に行ってくるから。いい子にしてるのよ」
「はーい」
玄関の扉が閉められると同時に、ゲーム機で遊び始める健斗君。ちらっと覗いてみる。意外と頭を使うゲームだなぁ。
一昔前は、“ゲーム脳”なんて言われていたものが、ここまで進化するとは。企業努力はすさまじいな。
――二時間後――
すっかり暗くなってきたころに佳奈さんはパグを連れて帰ってきた。何やら難しい書類や選考があったらしく、それにてこずったとか。
「よぉ、久しぶりだなチ助」
「そっちこそ、よく無事でしたね。あの時はありがとうございます」
「いいってことよ」
感動の再開……、なのだが。俺としてはやはり先生が帰ってきて、美香子側から、何らかの反応があるかを知りたい。
先生が帰ってくるのは、夜の十時前後。佳奈さんと健斗君の二人と、俺たち二匹は、先に夕食を済ませた。
冷蔵庫の中には、先生用の夜ご飯が入っている。
健斗君が寝室に行ってしまう前に、名もなきパグと、チワワの俺の名前が正式に決まった。
俺は“シュン”。名が無かったパグは“マーガレット”
(何だか納得いかないような気もするが、まぁいいだろう)
「この家でけぇなぁ! 俺様ずっとここで暮らせるのか?」
パグが腹を天井に向けて夢見心地で言う。といっても、佳奈さんには、甘えているように見えたようで、むき出しになった腹をこちょこちょとなでていた。
「このパグ態度大きいね」
(だろ。でも悪いやつじゃないんだ)
一応フォローしておいた。
とりあえず、佳奈さんは、先生が帰ってくるまで起きているという。健斗君は……、明日はじめての友達と会うもんなぁ。
ゆっくり寝かせてあげたいが、通訳する人が居なかったら、俺はただのチワワだ。
「明日役に立ってくれれば、起きてあげよっか?」
(ん?)
少年にも明日の戦略があるのか。
(よし、のってやろう!)
しかし大変だった。来たばかりのマーガレットが、部屋のゴミ箱にタックルしたり、ソファのカバーを食いちぎったり、迷惑ばかりかけている。
保護してくれと頼んだ手前、キチンといけないことだと教えようと努力はしているのだが、なにぶん我が強い。
ドタバタ騒ぎの最中に、先生は帰ってきた。
さて、美香子は手紙に返事をくれただろうか。焦りなのか何なのか、ひやりとした、水が這うような感覚がした。
(俺はここに居るぞ! 美香子、夏樹‼)
玄関先で迎えた先生の表情は、笑顔でもなく哀れみでもなく、何とも言えないものだった。




