偽りのパパ
会話を妨げる様に、カチャカチャと食器を洗う音が聴こえる。水道のひねる音がして、ようやく二人の声が正確に聴こえるようになった。
健斗君はすやすや眠っている。これならどんな話でも、俺の心を読まれることはないだろう。経験上、夜に話すことと言えばあまり前向きな話題ではないからな。
どれどれ……。
「あなた、どうして健斗に怒らないの」
佳奈さんの声だ。彼女は夕食時に、夫である先生が怖いと言っていたなぁ。そんな佳奈さんの問いかけに、先生は「はっはっは」と、おそらく新聞紙をめくりながら答えた。
「佳奈も健斗も大事な存在だからだよ」
「よその子に迷惑をかけたときだって……」
「仕方ないじゃないか。こどもなんだから」
「ねぇ、本心を聞かせて。お願い」
椅子のこすれる音がする。多分、佳奈さんが座ったのだろう。ということは、今二人は机上で向かい合って話しているんだな。
でも……、なんだか会話がかみ合っていない気がする。そういえば俺、よく美香子に怒られたなぁ。漫画を読みながら相手の話を聞くのは失礼だって。
先生は医者だから、新聞か。どんな記事を見て何を思っているのだろう。俺にはわかりかねるが、長い沈黙の後に先生が何かをすする音が聴こえた。ほのかな匂いからしてコーヒーか。
「僕はね。あらゆる者を愛しているんだよ」
「愛?」
「そう。たとえ名前のない小さな虫一匹でも、必ず何かの役に立っている。素晴らしいことだと思わないかい?」
「……、その愛は、健斗と同じなの?」
「素晴らしいことに変わりはないなぁ」
「あなたって人は……」
正直、この会話が聴こえてきたとき、先生に恐怖を抱いた。虫一匹と健斗君への愛情が同じだなんて。
(少し、いや大分変だ!)
言ってみれば、健斗君は虫一匹と同じ価値ってことだぞ。それはあまりにも酷すぎる。
(わかったぞ!)
先生は、命を重く見ているように見えて、実はその反対だ。彼は医者だから、いろんな症状の患者を診てきたはずだ。
俺も介護でいろんな高齢者を看てきたが、やっぱり腹の立つ入居者もたくさんいる。そんなときに自分の感情を抑えるため、俺自身に嘘をつく。
“ここに居る人間はみんな不幸な人だ”と。先生の場合は、“命は平等だ”とか、そういった類だろう。こう考えると合点がいく。
(先生は、愛することに疲れている)
だから、毎日笑顔でいられるし、なんでも許せるんだ。
「うーん……、どうしたの、パパチワ」
起きたのか、少年。ちょっと話がある。
「なに?」
愛について知りたくないか?
「なんだよ急にー」
おじさん、少年のパパの化けの皮をはがしたくてうずうずしてるんだ。
それから、それが終わったら俺の家族のことも考えて欲しい。
「パパは皮被ってるの? どうして?」
俺は、健斗君に都合のいい情報だけを引き出させた。
先生は仕事で疲れている。それはなぜか。常に命と向かい合い、時には患者の家族の愛を繋ぎ止められなかったりするからだろう。
責められたりもする。心も疲弊する。そこで作り出した“偽りの自分”。先生は、笑顔の裏で愛することに疲れ切っている。
(なら、俺がお前たち家族を繋ぎ止めてやる)
「難しい話するなよ、パパチワー」
大丈夫。少年は、今から俺が言うことを明日実行すればいいだけだ。興味あるだろ、動物以外の心の声に。感じてみると面白いんだぞ。
「えらそーに」
黙れクソガキ。俺の方が人生経験が豊富なんだ。いうことを聞きなさい!
そんな会話を交えつつ、二人……、いや一人と一匹で作戦を練った。知恵はある方だ。伊達に曲者の高齢者の相手をしていたわけではないぞ。
いろんなパターンの人間を見てきた。その知恵が今試されている。
小一時間程だろう。こどもの集中力はそんなに持たない。あとは指示通り健斗君が動くかどうかだ。
(すやすや眠っている姿は愛らしいんだけどなぁ)
おっと、誰かが二階に上がってくる音がする。きっと健斗君が眠ったか確認しに来たんだ。それじゃぁ俺も眠ることにしよう。




