雨を払う人
『レディ。美しい女性が一人では危険ですよ』
あの時も、彼は私にそう言ったから。だから、私は――
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賑やかな音楽が遠くから聞こえてくる。太陽は今まさに沈んだばかりで、空を真っ赤に燃やす黄昏時。まだ夜会が始まるに時間があるけれど、気の早い客のために奏でているのだろう、随分と賑やかだ。それもそのはず、今夜の夜会はフェグリット建国100年を記念したもので周辺諸国から多くの賓客を招待している。
――これで姉たちが思惑通りに嫁いでくれればよいのだけど。
流石に父の側室や王妃である母をどうにかすることはできないけれど、お金を湯水のようにドレスや宝石につぎ込む5人の姉たちには少しでも早く嫁いでほしい。皆美しい容姿をしているし、年齢的にもそろそろ適齢期になる。
そのために、私は姉たちひとりにひとりずつ、めぼしい招待客についていかに素晴らしい人かをこっそりと刷り込んでいた。もちろん、宰相にはそれとなく姉たちを紹介してもらうように頼んである。
そんなことを考えながら私は自分の庭を歩いていた。時間もまだあったし、久しぶりに着た裾の長いドレス裾さばきを思い出すためだ。
「はぁ…」
そろそろ部屋に戻らなければ。気付けば自分の庭の端っこまで来てしまった。別に夜会自体はどうでもいいけど、先日の戦の事を根ほり葉ほり聞かれると思うと気が重い。ため息をつく…と、茂みの中で何かが動いた。私はそれに気付かなかった振りをして踵を返したのだが。
「お待ちください、ため息までもお美しいですね。フェグリットの女性は何ともエキゾチックで魅力的です」
「フェグリットへようこそおいで下さいました。どうぞ今夜はお楽しみくださいませ。ですが、どうしてこちらへ?失礼ですがここは王族の私庭でございます。迷われたのあればご案内いたします」
茂みから現れたのは見たことのない男の人。話す言葉は流暢なフェグリット語だが、内容は珍妙だ。薄闇の中目を凝らすと、服装は西方の国。
「それは申し訳ありません。美しい庭園に誘われてついつい…きっと花の乙女に会うための運命だったのでしょう」
「………ええと…手を離して頂けますか」
本当に申し訳ないと思っているのか。それとも間違ったフェグリット語を覚えてしまったのか。男の人は私の手をとるときざったらしく挨拶をする。確かこの作法は西は西でも随分遠い国のものだ。手袋をしていて良かったと思う。
だけど、男の人は手を話すどころかぎゅっと握ってきた。これがフェグリット人だったら手をひねり上げるのだけど(それ以前に将軍職にある王族にこんなことをするお馬鹿さんはいないが)どんな身分かもわからない人にそれは外交問題になりかねない。
「どうか、そんなつれないことをおっしゃらず、私に女神の祝福を与えてください…」
「え……?きゃぁっ!!」
やっぱり遠い国ではフェグリットについて間違った情報が伝わっているに違いない。何がどうなれば『女神』が『祝福』なんだろう。しかし、どうやら国は違えど『祝福』と言われて頭に浮かんだものは同じだったらしい。
そう、口付けだ。
握られていた手をひかれれば、流石にハイヒールの足元がぐらついて男の人の腕の中。
――どうしよう…!!だ、誰か…
大事になってしまうけれど、このままこの男の人に唇を許すわけにはいかない。これでも一応王族で、誰かに嫁ぐのだから。でも、もうちょっと頑張ればこの腕から逃れられるかも知れない。
大声で誰かを呼ぼうか、痛い目に合わそうかと一瞬悩んだ時だった。
「おや、あなたの女神は我がリズダイクにいらっしゃると思っていました」
「うわっ!!あ、あなたはロセット様…!!」
男の人で遮られていた視界が、今度は別の誰かのマントによって遮られた。どうやら誰かが私と男の人との間に「ロセット」と言う人が割って入って助けてくれたらしい。マントから香る煙草の香り、そしてちょっと堅苦しいフェグリット語。
「『先日、あなたと我が国のアンセル男爵嬢の婚約発表会に行った気がするのですが?』」
「『ど…どうか彼女には言わないでください!!』」
「『ええ。私も彼女を傷つけるようなことは言いたくありませんね。さあ、広間であなたの上司がお待ちですよ』」
ロセットという男性は私に口をはさむ隙を与えずに、私をその大きな背に隠したまま男の人を追い払ってくれた。フェグリット語は苦手なのか男の人との会話にはリズダイク語を使っていた。最初がフェグリット語だったのは、私を驚かせないための配慮だろう。
「えーと…ご無事ですか?」
「はい。助けていただいてありがとうございました」
「いいえ、ですが…レディ、美しい女性が一人では危険ですよ」
彼は私が誰かわからないのだろう。私に合わせてフェグリット語を使った。そして名前も知らないのだから私の事を『レディ』と呼ぶのも『女神』や『乙女』に比べたら別に不自然ではない。それなのにどうしてだろう。どきり、とした。
「だ、大丈夫です!!別に私、子供だしっ…あ、あの、ありがとうございました。じゃあっ!!」
なんだか急にすごく恥ずかしくなってお礼もそこそこ、作法も気にすることができず、私は部屋へ逃げ帰った。よくよく考えれば、いつも自分でどうにかしてしまうから、こんなふうに誰かに助けてもらうのは大人になってからはエスター以外では初めてかもしれない。
それに、王女ではない一人の女性として扱われたのも。
リズダイク王国――北の大国からは宰相と補佐の数人が来ているはず、暗くて顔が見えないため年齢はよくわからないが、彼はそのうちの一人だろう。
――どうしよう。ロセット様は庭で出会ったのが私だと気づいてしまうかしら?
それだと、少し困る。今回の夜会で私は西方の治安についてリズダイクに援助を頼もうと思っている。もしも、あれが私だとばれたら私の将軍としての力を疑われるかもしれない。
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夜会に行くと、ロセットは父王に紹介されたリズダイクの宰相の後ろに控える補佐官だった。もちろん私は宰相との会話がメインで、シェイドには挨拶をしただけだった。もしも、さっきの子供が私だとばれていたら、お礼も言わないなんて失礼な王女だと思っただろう。
結局、最後までシェイドは何も言わなかった。ばれていたとしても、そうでなくても、その態度が当時の私にとってはすごく大人で憧れた。いつか、エスターもこんな素敵な男性になってほしい、なんて思ったっけ。
だから。
だから、私は――あの雪の日。記憶の中の台詞と全く同じ口調で私を『レディ』とよんだシェイドを信じたの。




