記憶に愛を、実験に恋を(著:くるっぽー)
誰にも理解されない研究なんて、今に始まったことじゃない。
私の名は志貴理音。
白衣は脱ぐ暇がないほど、身体に馴染んでいる。
煙草の匂いが嫌われることも知ってる。
けれど、何度も手を洗い直すより、一本吸って煙の中で思考を浮かべたほうが、論理は整う。
私は今日も、恋を調合していた。
──いや、恋と呼んでしまえば、随分と軟派に聞こえる。
実際には、脳内ホルモンと神経伝達物質を微細に制御する一連の化合物。
対象刺激に対して恋慕を惹起させる、いわゆる感情操作薬。
倫理審査は一発不合格。助成金は打ち切り。学会発表は門前払い。
「気持ち悪い研究ですね」と吐き捨てたのは、かつての指導教官だった。
──でも、どうして?
人間は、日々当たり前のように誰かを好きになっている。
匂い、声、距離、言葉、表情、偶然。
全てが科学的な条件で生まれているのに、それを自然と呼び、神聖と崇めている。
ならば私は、それを人工的に再現したかっただけだ。
恋は熱だ。
私はその温度計と注射器を、ただ研究室の机の上に並べただけ。
「志貴さん、今日の被験体準備できてます。反応、見てみますか?」
その声に、私は手元のレンズから顔を上げた。
助手の小夜──綾瀬小夜。
このラボで唯一、私を受け入れてくれている人間。
正確には、受け入れてしまっている人間、と言うべきか。
白衣のポケットには、彼女専用のカップとティーバッグ。
彼女が来るたび、私がいれてやる紅茶。
そこに、ごく微量ずつ、試薬を混ぜるようになったのは──半年ほど前のこと。
最初の一滴は、実験だった。
第二滴は、確認だった。
第三滴は、期待だった。
それ以降は、正直、自分でも分からない。
「小夜」
「はい」
「……その髪、伸びたな」
「……え、気づきました?ちょっとだけ切ろうか迷ってて」
彼女の頬が、わずかに染まる。
言語刺激に対する顔面筋の収縮反応、赤面までのタイムラグ──計測不能。
彼女はもう、こちらを見た時点で“好きな人”を見る目になっている。
美しい、と思う。
無垢で、従順で、私の言葉ひとつで小さく息を呑む、その横顔。
そして、それを創ったのは──私だ。
「紅茶、いるか?」
「……はい」
湯を沸かすふりをしながら、私は滴下量を調整する。
もう劇的な反応は必要ない。
ただ、微量に、毎回、蓄積させるだけ。
思考が恋慕に傾ききった人間は、自分の判断さえ信じられなくなる。
好きという感情は、自分を委ねる準備だ。
たとえ、相手が少しおかしくても、何もかも受け入れてしまう。
私はそれを知っていて、やっている。
それでも──彼女が紅茶を口に運ぶとき、毎回少しだけ躊躇する自分がいる。
「これは倫理違反だ」と、どこかでまだ叫びたがっている部分。
けれど、小夜がカップを置き、私に向けるその目を見るたびに、私はそれを忘れてしまう。
「志貴さん……わたし、今日もここに来られてよかったです」
その言葉は、あまりに自然で、あまりに甘やかで。
「ずっと、ここにいていいですか?」
問いかけは、まるで祈りのようだった。
私は、あえて笑わない。
「……実験が終わるまでは、いていいよ」
嘘はついていない。
だが、真実も言っていない。
この実験が、彼女を壊すと分かっていながら、私はやめる気はなかった。
なぜなら。
彼女が好きと言ってくれる世界は、たとえ偽物でも、私にとっては唯一の現実だからだ。
小夜の気配が近づくと、私は煙草の火を揉み消した。
彼女の前では吸わないようにしている。
そう決めたのは──いつだったか。
試薬の副作用に、嗅覚の感受性変化があるかもしれないと考えたから。
あるいは、ただ嫌われたくなかったから。
どちらかは、もう私にも判別がつかない。
「……志貴さん」
いつもと同じように、柔らかく名前を呼ばれる。
その響きに、罪悪感と陶酔が等分で溶け合う。
彼女の眼差しは、明らかにおかしい。
同僚に向けるような視線じゃない。
けれど恋人に向けるには、あまりにも無防備で、あまりにも必死だ。
あの薬は、既に飽和点を越えている。
数値上の恋慕が、脳内を常時占有している状態。
──もう、止まらない。
「今日……まだ、ですよね?」
紅茶も差し出していないのに、小夜はそう言って微笑んだ。
「今朝からずっと、頭がふわふわしてて……志貴さんの声、頭の奥で響いてて……」
彼女は、しゃがみ込むようにして私の足元に座る。
白衣の裾にすがるような姿勢は、まるで信仰だった。
「もっとください。私、志貴さんでいっぱいになりたいんです」
それは、もう好きの言葉じゃない。
支配されたいという願望だ。
私は椅子の背にもたれ、遠い昔に抱いた仮説を思い出す。
──人は、恋をすると判断力を失う。
──人は、愛を錯覚するために神経を狂わせる。
──ならば、それを利用して支配することは、構造上可能である。
理論の証明に、これ以上の例はなかった。
「小夜」
私は、紅茶に手を伸ばすふりすらせず、彼女の頬に触れた。
驚くほど、熱かった。
薬理的な反応と、情動による上昇が混ざり合った熱。
「本当に、分かってるのか?」
私の言葉に、彼女はこくんと頷いた。
「うん……だって、志貴さんがやってること、全部、分かってるつもりです。わたし、紅茶の味……毎回少しだけ違ってたの、気づいてました」
その言葉に、喉の奥が冷たく凍った。
「ええ……最初の頃から。でも、知らないふりしてた。わたし、どうしても志貴さんに近づきたかったから……薬でも、何でも、志貴さんがくれるなら、それでいいって思ったから」
彼女の瞳は、狂気の縁を歩いている。
けれどその狂気を与えたのは、紛れもなく──私自身だった。
「もう、志貴さんなしじゃだめです。志貴さんの声、温度、匂い、全部、わたしの中に満ちてるんです。これ以上、何を飲まされても構わない。記憶が壊れてもいい。倫理も、法律も、感情も、関係ない……だから、志貴さんの全てを、わたしにください」
その告白は、甘い毒だった。
私は静かに椅子を引き、彼女の前にしゃがむ。
肩に手を置き、真正面から彼女の目を見た。
「じゃあ、ひとつだけ聞く」
「……うん」
「私が君を壊しても、君は、私を愛してるって言い続けられる?」
小夜は躊躇いなく答えた。
「壊されたら、もっと好きになると思う」
言葉に震えはない。
それは恋を超えた何か──もはや信仰と呼ぶべき領域だった。
そして私は、恐ろしいことに、その言葉に救われる自分を自覚した。
孤独だった。
誰にも理解されない研究を続け、罵倒され、否定され、腐っていた私の人生に、こんなにも執着してくれる人間が現れたことが。
たとえ非倫理の産物であっても──
たとえ正気の沙汰ではなくても──
私にとっては幸福だった。
「小夜」
「……はい」
「愛してるよ」
その言葉に、彼女は泣き出した。
涙を零しながら、笑っていた。
そして、そのまま私の首に腕を回し、崩れるように身を預けてきた。
私たちの研究は、もう誰にも発表されることはない。
倫理委員会は通らない。
表舞台には立てない。
けれどこの地下のラボで、私と小夜だけの真実が、生まれ、育ち、繁殖し、やがてこの世界のどこかに影を落とす。
──それは恋の形をした、完全なる支配。
それでも私たちは、互いに幸福だった。
薬と欲望と孤独で構成されたこの愛を、世界がどれだけ否定しても、彼女が「志貴さんがいい」と言い続けてくれる限り、私は研究を続けられる。
この愛が、科学の果てで見つけた、唯一の人間関係だった。




