ステージの裏での執着(著:くるっぽー)
ステージの光を浴びると、私は時々、自分が誰だったのか分からなくなる。
フロアを満たす歓声、無数のペンライト、流れる汗と鼓動、そして姫乃がすぐ隣にいる高揚感。それらが渦巻いて、虚構と現実の境目がぼやけていく。
けれど、それでもはっきり分かることがひとつだけある。
──私の全ては、彼女のためにある。
「ありがと〜! Lily†Lunaでしたっ!」
最後の決めポーズ。姫乃が私の腕にしがみつく。
それが営業だと分かっていても、私は心の奥で、ひどくかき乱される。
舞台の上の彼女は、私以外のファンにも微笑むから。
誰のものでもない顔で、みんなのアイドルを演じてしまうから。
けれど。
「今日も、お疲れさま……完璧だったよ」
バックステージで肩にタオルをかけてやると、姫乃は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、営業では見せない目で私を見る。
「ふふ、ありがと。遥が隣にいたからだよ」
ふわりと笑うその顔は、客席からでは見えなかった柔らかさを含んでいた。
化粧の下、濡れた睫毛の先に宿る本音。誰にも見せたくない。
いや、きっと見せてないのだろう。
この顔を知っているのは、私だけ。
「楽屋、戻ろっか」
控え室へ向かう廊下を歩きながら、姫乃は私の手首を軽くつまんだ。
まるで、私のペースを乱すかのように。
ほんの少しだけ、爪を立てるように。
ドアを閉める音。ロックするカチッという控えめな機械音。
それが、スイッチだった。
「遥、さっき──誰見てた?」
姫乃の声が、うなじにかすめる。息がかかる。
それだけで、膝が緩むような錯覚を覚える。
「え?」
「さっきの曲の最後……目、泳いでたよね。わたし以外、見た?」
彼女は私の背後から腕を回し、そのまま押し倒すようにソファへ落とした。
首筋に指が這う。ぬるく熱い、その愛撫のような問いかけ。
彼女の中には、時折、濃密な執着がある。
それはファンが夢見る清楚な姫乃像とは全く違うもの。
ステージでは可憐で無垢で、誰かの隣にいそうでいない「理想のヒロイン」を演じている彼女。
でも、それはきっと、嘘。
誰よりも所有欲が強く、誰にも渡したくないと願っている。
私を──私だけを、深く刻みたいと願う、女の顔をしていた。
「……見てないよ。姫乃しか見てない」
私はそう言って、正面から彼女を見返す。
まっすぐに目を合わせた。虚飾も、言い訳も、いらない。
それだけで、姫乃は満足げに小さく息を吐いた。
そのまま膝の上に乗り、身体を密着させてくる。
触れる距離、沈黙の時間、微かな吐息──それらすべてが、甘やかに溶け合っていく。
唇が触れた瞬間、演技ではない愛情が、確かにそこにあった。
「営業のときより……キス濃いよね?」
耳元で囁かれ、私は返す言葉に困る。
濃いのは、きっと感情だ。ステージではごまかせる衝動も、ここでは隠せない。
「……営業は、お客さん用。本番は、今だよ」
その言葉に、姫乃が笑う。
ゆっくりと、シャツのボタンに指をかける。
ひとつ、またひとつ、肌が露になるたび、心音が速くなる。
「遥の全部、わたしのものでしょ?」
問いかけのように見えて、あれは命令だ。
私は、何も言わずにうなずいた。
拒めない。いや、拒みたくない。
姫乃が私の首筋に唇を這わせる。
唾液の温度と柔らかい髪の感触、震えるような吐息。
心が剥がれ落ちるような、甘い絶望。
彼女に触れられるたび、私は遥ではいられなくなる。
ステージで着た仮面が、熱に溶かされていく。
観客のために作られた偶像は、ただの“女”になる。
そうやって私は、姫乃のものになる。
「わたしが、遥を全部隠してあげる」
その言葉に、私は静かに目を閉じた。
彼女に溺れていく。
誰にも見せない、舞台裏の本当の私。
ファンにも、スタッフにも、世界中の誰にも知られたくない。
ただひとり、姫乃だけが知っている、愛される側の私──
その私を、彼女は誰よりも深く、甘く、欲しがってくれた。
目が覚めた時、私はまだ彼女のものだった。
白い天井が滲んで見えた。
眠る前に見上げた時と、何も変わっていないはずなのに、どこか、世界が違って見えた。
ぴったりと重なったままの腕。
抱き枕みたいに私にしがみついた姫乃の温度が、まだ体の奥に残っていた。
肩口には赤くなった歯型の痕。どこか夢のような痺れと、明確な熱の名残り。
昨夜、彼女が私に残したのはキスだけじゃなかった。
何度も確かめ合った。
触れて、求めて、声にならないものをぶつけあった。
キスよりも深く、肌よりも奥に。
まるで、舞台の上で演じた恋人役なんて、茶番だとでも言いたげな、獣じみた愛し方だった。
「……ずるいよ、姫乃」
あんなに可愛いふりをして、誰よりも甘くて優しい声で私を煽るくせに、
気づけば主導権は全部彼女が握っている。
夜が深まるたび、私はアイドル・遥ではなくなっていった。
でもそれを、嫌だとは思わなかった。
いや、むしろ誇らしくすらあった。
──この姿を知っているのは、彼女だけ。
その事実だけで、私は彼女のものになりきれる。
世間の視線の中では交わせない、本当の愛し方を、彼女だけに許してもらえている。
「……ん、起きてたの?」
小さな声が、首元に触れた。
姫乃はまだ目を閉じたまま、私の胸元に顔を埋めていた。
薄い唇が、鎖骨にあたる。くすぐったいのに、痛みみたいに甘い。
「……少し前に。寝坊すると、噛まれるから」
「ひどーい」
目を開けた彼女が、いたずらっぽく笑った。
その顔を見るたび、私はどうしようもなく破壊衝動に近い欲しさに襲われる。
柔らかい表情、すっぴんの睫毛、夢の名残が残る瞳──どれもステージには存在しない、特別な彼女。
その彼女にだけ、私は弱い。
抱き寄せると、姫乃はきゅっと指を絡めてきた。
「ねえ、今日の握手会……わたし、ちゃんとあざとくやらなきゃだよね?」
「ファンにバレるから、ちゃんといつもの顔に戻してね」
「遥が、また濃いキスするからだよ」
そう言って、彼女は膝の上に跨る。
シャツの裾を握る指が、まだ少しだけ震えていた。
「営業の顔と、本当の顔……使い分けるの、わたしほんとは得意じゃないんだ」
「知ってる」
「でも、遥といる時だけは、全部ごちゃ混ぜでいいの」
それが彼女の愛し方だった。
百合営業の皮をかぶって、誰にも触れさせないほど、濃密に私を欲しがる。
舞台では、わたしが攻め。
インタビューでも、SNSでも、ファンアートでも、いつだって私がリードしてる。
でも、現実は違う。
本当の私は、彼女に愛され、甘やかされ、飲み込まれる側だった。
──それを、他の誰にも知られたくない。
今日も握手会では、二人で手を繋ぎ、営業スマイルを浮かべる。
女の子同士の恋人ごっこを完璧に演じる。
「二人ってほんとに付き合ってそう!」
「遥ちゃんの彼氏力つよ〜い」
「姫乃ちゃん、遥ちゃんのこと好きすぎじゃない?顔がデレてる〜!」
──ええ、全部正解。
でも、その正解に気づいてもらっちゃ困る。
ステージの上では、演技でなければならない。
どんなに本気で好きでも、客席にそれが漏れてはいけない。
この関係は、演出の仮面をかぶるからこそ成り立つ。
見えないところで、誰にも知られずに育てていくからこそ、息ができる。
だから──私は、今日も、きちんと嘘をつく。
「今日の姫乃、またファン増えそうだね」
そう言って、営業スマイルを作る。
「ふふ……でも、遥がいないとダメだもん」
姫乃も、演技の笑顔を重ねる。
二人は今、完璧なアイドルだった。
見せかけの百合を振りまく、商品価値の高い、幻想の恋人同士。
でも──
誰も知らない。
昨夜、彼女が私の耳たぶを噛んで、
「もっと、わたしのことだけ見て」って涙をこぼしたことも。
誰も知らない。
私が、彼女の体温にしがみついて、情けない声を出していたことも。
誰にも見せない二人の夜が、営業よりもずっと本物の愛でできていることを──
知られたくない。
けれど、知られずに終わりたくもない。
そう思ってしまった自分の心を、私は誰よりも恐ろしいと思った。




