教室では言えないこと(著:くるっぽー)
私は今日も、教室の隅の席に沈んでいた。
窓際から二番目、黒板も視界に入るし、先生からも呼ばれにくい都合のいい場所。まるで影のように気配を薄めていられる、私だけの聖域。
漫画のキャラが描かれたペンケース、アニメショップで買った缶バッジ、胸元で揺れる推しのストラップ。全部、普通なら隠して扱われるもの。でも私は、これでいい。
彼女を、見つめてしまうまでは。
廊下側の最前列、まるで舞台の上みたいな明るさに包まれて、彼女は今日も笑っていた。金に近い明るい茶髪、くるくる動くまつげ、大胆に開けたピアス。制服のスカートは規定の二倍は短いし、ネクタイはゆるくて、ブラウスのボタンはギリギリのところまでしか留まっていない。
なのに、そんな奔放さが妙に清潔で、美しかった。
ギャルという言葉では言い足りない、太陽みたいな子。
──あの子と、今、付き合っている。
そんな事実は、この教室の誰も知らない。
私たちはそういう風に見えないから。誰も疑いもしない。
「……うちらマジで、バランスとれてんのかな」
放課後、彼女の声が、寝転がるベッドの上で弾んでいた。
このアパートの部屋は、彼女の秘密基地。両親のいない夕方から夜の短い時間だけ使える、二人だけの避難所。ベッドもソファも、床でさえも、ここでは私の縄張りだ。
クラスでの彼女は、誰にでも笑いかける。男の子にも、女の子たちにも。でも、こうして制服を脱ぎ捨てた彼女は、私にしか見せない顔をする。
「うるさい、黙ってて」
私は彼女の顎に手をかけて、目を覗き込んだ。
途端に、さっきまで笑っていた瞳が、ぴたりと止まる。
「……ん、またそうやって、雰囲気変えてくる」
「うるさいって言ったでしょ」
言葉とは裏腹に、指先はそっと頬を撫でる。髪を耳にかけ、開いた襟元をゆっくりと整えた。
ゆっくりと、でも確実に、彼女を私の手の中に閉じ込めていく。
私は弱い人間だ。教室では声を上げることもできない。けれど、彼女と二人きりの時だけは──
この関係だけは、自分の意思で舵を取れる。
「なんでそんな顔してるの?」
「お前にしか、そんな顔しないんだってば……」
彼女が小さく息を吐いた。
その口元に、私はそっと唇を重ねた。
くちづけは長く、そして静かに。
音を立てずに、心を震わせる。
制服の襟を指でほどいていくたびに、彼女の呼吸が変わる。いつも自信たっぷりな笑みは、やがて、戸惑いと期待の混ざった色に変わっていく。
私に触れられながら、彼女は少しずつ溶けていく。
その様子が、たまらなく好きだった。
彼女の喉元に唇を落としたとき、細く洩れた声が、空気をかすかに揺らした。
「……教室じゃ、こんな強気なの見せないくせに」
「教室じゃ、私の彼女じゃないから」
その瞬間、彼女がほんの少しだけ身を震わせた。
まるで、嬉しそうに。
押し倒すような仕草ではない。ただ静かに、何度も、彼女の肌を確かめるように触れる。どこか熱があって、それでもどこまでも繊細な肌。
少しずつ、少しずつ──距離が、音もなくゼロになる。
重ねた唇の下で、彼女がふと、甘えるように囁いた。
「……オタクなのに、こっちのことはずるいくらい上手いじゃん」
「……うるさいって言ったの」
そう返しながらも、私の指はもう一度、彼女の頬を撫でていた。
静かな熱が、部屋を満たしていく。
教室では、誰にも見せない顔。
二人きりのこの時間だけが、私の本当の世界だ。
翌朝、教室に入った私は、いつものように席に沈んだ。
何事もなかった顔をして、教科書を机に並べ、鉛筆を取り出す。私の仮面はもう、誰よりも上手に貼りつけられるようになっていた。
彼女は今日も明るい声を上げて、クラスの真ん中で笑っていた。
いつも通りのスカートの短さ、大きなイヤリング、軽口、笑い声、男の子たちの気のない絡み。それをさらりと流しながら、器用に全員を好きにさせる。
彼女がふいに、私の方を見た。
ほんの数秒。目が合うようで、合わないような──それでも、私の中の何かを、静かに焼いていく視線。
誰にも気づかれずに、私だけに届いた一瞬の好きのかたち。
教室という仮面劇のなかで、それはとても尊い嘘だった。
「……ちゃんと、昨日の痕は隠してきた?」
放課後、彼女は帰り支度をする私の背後から、こっそり囁いた。
その声が耳に触れただけで、首筋が微かに疼く。昨日の、あのやわらかい感触が、記憶ごと皮膚に滲んで蘇る。
「隠さないわけないでしょ、バカ」
「ふふっ、そっか。じゃあ、こっちにもつけとく?」
「やめろ……今日は私の番」
今度は私が、小声で告げた。
教室の喧騒のなかで、誰にも届かないように。
彼女が一瞬、戸惑ったように瞬きをしたあと、すぐに唇の端を上げる。
その笑顔は、嬉しいのか怖いのか、どちらとも取れる危うさを含んでいた。
彼女の家は今日も誰もいないという。鍵は、すでに私のポケットに入っていた。
無人の部屋に、制服の重なりがほどけていく音だけが響いた。
私は彼女の手首を取り、壁にそっと押しつけた。力なんていらない。ただ、彼女の目を見て、それだけで十分だった。
「なんで、そんな目すんの……」
彼女がかすれた声を洩らす。
私は笑わなかった。ただ、ゆっくりと顔を近づけて、彼女の頬に唇を落とした。
「私しか見ないでよ」
言いながら、指がシャツのボタンを外していく。
一つずつ、焦らすように。彼女の呼吸が変わるのを待つように。
昨日、彼女が触れた場所を、私は今日、上書きする。
彼女の中の私だけの光を、またひとつ塗り替える。
彼女の胸元に頬を寄せた。心臓の音が聞こえる。
脈打つそれが、自分のもののように思えて、どうしようもなく切なくなる。
「……ほんと、オタクのくせにさ──」
掠れた声で言った彼女の指が、私のシャツを掴む。
「そんなに、かっこつけんなよ……ドキドキしてるくせに」
「……だから、うるさいって」
二人きりの部屋は、やがて熱を帯び、肌と肌が触れ合うたびに、心の境界線が、ひとつずつ溶けていった。
私の頬を指でなぞりながら、彼女は囁く。
「次、痕つけたら、教室で見せて」
「やだ。絶対にバレたくない」
「じゃあ──わたしにつけて。今度は隠しようがないところに」
照れたような、でも、どこか嬉しそうな、いつもの彼女らしくない顔。
「ねぇ、わたし、お前にほんとバカにされてんじゃない?」
「うん。だから、私だけのバカでいて」
それは、私なりの愛してるの言い換えだった。
教室の私たちは、何事もなかったように振る舞った。
彼女は今日も人気者で、私は空気のような存在だった。
でも、彼女がふいに袖をまくったとき──一瞬だけ、視線が交差した。
見せつけるように。誰にも気づかれないように。
そこには、小さな赤い痕が、花のように咲いていた。
私の手のひらが、彼女の体に咲かせた、ささやかな証明。
誰にも見せられない、でも確かに存在する恋だった。
そして私は、もう一度目を伏せる。
この気持ちを、世界に知られたくないと思った。
この秘密のままで、ずっと彼女を独り占めにしたかった。
誰にも、渡さない。




