むごい仕打ち、運命共同体であるということ(著:天鵞絨リィン)
「悩み相談なんて珍しいね」
弟が久しぶりに連絡を寄越してきたかと思えば、相談事があるなんていうものだから、わたしは目玉が出るほどびっくりした。少なくとも実家にいた頃の弟はそういうキャラクタではなかったからだ。
「まぁ、いろいろあんのよ」
高校卒業後、流れるように家を出た弟と連絡を取ったのは、実に五年ぶりのことだ。弟はさすがに大人びたどころか、だいぶ歳並み以上の貫禄というか、毅然とした態度を身に着けていた。
「ふぅん。なに飲む? わたしはとりあえず、ジントニックで良いや」
「じゃあ俺もそれで」
酒を飲むのは当然初めてで、わたしは弟の酒癖をもちろん知らない。弟が店員を呼び止めてさっと注文を済ませるそのさまは丁寧すぎるくらいだった。
「俺、好きな子いんだよね」
弟は硬い椅子に座りなおしながらそんなことを不意に言うので、わたしからは、え、と間抜けな声が漏れ出てしまった。弟は目を丸くしてわたしを見る。
「なにその顔」
「あんたから恋愛相談を受けることになるとは思わなかったから」
「そう? まぁ、そうか、この五年で俺も変わっちゃったのかも」
そうなのかもしれないね、とジントニックがここで届く。弟と軽く乾杯、そのときにわたしよりグラスを意識的に下位置につけようとしているのが気になった。
「よく飲むの?」
弟はふた口飲んでから、なんで、と屈託なく尋ねる。
「上司との乾杯とかしてる感じの仕草だから、いまの」
「そっかな」
「そうだよ」
そっか、と弟は独り言ちる。
「よく飲むんだよね、仕事柄」
「ふぅん、ちゃんと仕事してるんだ、あんた」
「そりゃね」
「えらいじゃん」
「まぁね」
わたしもジントニックを呷る。ちょっと薄い気がするけど、たぶん氷でそうなっただけだろう。気になるほどではない。
「聞かないの」
弟はグラスの縁をついと指でなぞりながら、水面を見ているらしい。
「なにが?」
「なんの仕事なのか」
「話したけりゃ勝手に話すでしょ、あんたは」
そうだね、と弟の声は安堵に満ちている。
「俺さ、いま、ホストやってるんだ」
弟の耳に光るシルバーのピアス、ひい、ふう、みい。
「そうなんだ」
「引かない?」
「引いてほしいなら全力でそうするけど」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「別に引くことでもないでしょ」
「そっか」
弟がひと口。からんと氷が鳴る。
「衝動的に家出て、行くとこ特になくて、友達の家とか転々としてさ。同期の友達に、あー、メンコンってわかる?」
「なにそれ」
「メンズコンカフェの略」
「なにそれ」
「コンカフェってあるじゃん、女の子のキャストが給仕してくれるようなとこ」
「あー、メイド喫茶的なやつ?」
「だいたいそんな感じ。店ごとにコンセプトが違って、それに応じた衣装があんの。それの、男が給仕するのがメンコン」
「ふーん」
「同期の友達にメンコンで働き始めたってのがいて、レギュラー出勤すれば無料で寮とか住ませてくれるしどうだって言われて、そのときはもうとりあえず衣食住ぜんぶ無かったから、それに頼ったんだよね」
意外も意外だった。だって、つまりそれってばりばりの接客業で、口下手な弟には縁が無いと思っていたからだ。
「いろいろたいへんだったけど、キャストと内勤、なにより通ってくれる女の子たちに支えられて、楽しかったよ、信じられないかもしれないけど。俺って喋るの苦手だと思ってたけど、相手がうまく乗せてくれてるうちに段々それも克服してきてさ。最終的に結構売り上げ上位に食い込むくらいにはその店で頑張ったんだ。で、あるとき、ホストクラブってものが隣り合わせであることを知った」
ホストクラブ。
弟の口から一生聞くことのないと思っていた単語。
「酒が飲めるようになってからは、知り合いの斡旋でホストクラブで働くことになった。メンコンとそんなに変わらない気がしたけど、やっぱり飛ぶ額が違う気がしたよね。なんか、同じ業界なのに世界が違うっていうか」
「そういうもん?」
うん、と頷いて喋り続ける弟の瞳は輝いていた。よく見るとちょっとグレーのかかった色をしている、カラコンでも着けているのだろうか。
「それでね、入店してから三か月くらいかな。俺のことを初めて指名してくれた……女の子がいてね」
「あんたの好きな子?」
「最初はぜんぜんそんな気がしなかったよ、俺も初指名で緊張してたしさ。その子は俺のことをすごく気に入ってくれた。その子にとってはホストクラブで同じ店に二回以上来るのはうちが初めてで、つまり初めて気に入ったホストが俺だったってわけ。それってさ、嬉しいよね。すごく嬉しかった」
「ホストってお客さんを好きにさせる仕事でしょ? あんたが好きになってどうすんの」
「まぁ聞いてよ、俺はこの時点でまだその子のことを普通に気に入ってたけど、それはつまり、お客さんとしてってこと。恋とか友情とかじゃ断じて無いんだ。でも、その子はどんどん俺のことを好きになってくれて、会いに来るのも週に一度程度のペースになった。ここで問題があるんだけど、わかる?」
「お金」
「そう。ホストクラブって、指名料とドリンク料がかかるんだけど、それがまぁ、普通の感覚からしたらだいぶ高いんだよね。一晩で数万は少なくとも飛ぶし、シャンパンとか入れたら数十万、百万だって飛ぶこともある」
「こわ」
「だから、週に一度そんな額を使うって、ちょっと普通に考えると難しい。でも、その子は俺に欠かさず会いに来てくれる。その子はなにも変わってないし、なにも変わってないよと言う。でも、俺は気づいてるんだ、その子が風俗を始めたってことに」
なんだか雲行きの嫌な話になってきたな、とジントニックを飲み干してやる。もっと度数の高い酒を奢らせてやろうかな。
「週に一度、その子は最低でも五万のお金を俺のために使ってくれた。俺はそれをありがたく享受して、その子に対して詮索とかは絶対しなかった。だって、その子が自分から言わないなら俺が聞くべきじゃないと思ったから。でも、俺、俺さ」
弟はグラスをぎゅっと握りしめて、きゅる、と雫に指が滑る音。
「その子に、なんか、ひどいこと言っちゃうんだよね」
なるほど、それが悩みか。わたしは新しく来たカルーアミルクをちびりと啜る。
「俺がどんなに冷たくしても、その子は会計額を膨らませていくし、連絡は欠かさないし、文句のひとつも言わない。俺、最低なんだよ。その子はいつも笑ってる。俺のことが好きだって言って、でも客とホストのラインを越えたことは要求してこない。お前の姫は良い子だなって皆に言われる」
「でも、嫌なんでしょ。その子が風俗で働いてること」
弟は静かに頷く。
「んー、素直な感想としては、その子はやりすぎだよね。店の性質上、お金を使うことを要求されることはわかってたはず。自分の身の丈に合わない額を使わなきゃいけないなら、普通そこは我慢すべきでしょ。なのにそんな過激で危険なことまでしでかしてしまうって、その子おかしいよ」
弟はなにも言わない。これが普通の感覚だとわかっているのだろう。
「で、なにも言わないあんたもあんた。要は、好きな子に風俗やめてほしいって言えなくて、風俗やってるのにまだ好きでいる自分が嫌なんでしょ」
「あー……」
弟はふらりと天井を見る。長い襟足が背中にかかる。
「なんかさ」
弟の浮ついた声。
「たぶん、理解されないと思うんだけど」
「なに」
「俺、昨日気づいたんだ。その子のこと好きだって。で、その子にほんとうは風俗をやめてほしいってのも、合ってる。でも、あのさ」
店内のBGMが切り替わる。メロウなサウンド。
「うん、俺、その子に昼の世界に帰ってほしいんだよね」
昼の世界。
「本来こんなことするような子じゃなかったんだよ。純朴で愛らしいお姫様だったのに、今や薄汚い性欲の奴隷に差し出されずを得なくなってる。それって、つらいけどさ、でも俺のために選んでくれた道だって思ったらさ、止められないよ。俺とその子は運命共同体で、もう戻れないところまで来ちゃったから、だからさ」
弟の高揚した吐息が聞こえる。
「俺のこと嫌いになれば良いと思った。冷たくすれば、月に欲しい額釣りあげれば、俺のこと嫌いになるって思った。でも、ぜんぜん意味無かった。ね、どうしたら、俺のこと嫌いになって、夜の世界から飛び立ってくれると思う?」
弟の横顔ってこんなに端正だったかな、なんてことをふと思う。その子は、こんな顔に陥落してしまったのだろうか。
あまりにむごい。
「大好きなんだ。だから俺なんかに、捕まってる場合じゃないんだよ……」
目を伏せると妙に長いまつげ、先端につやと光った涙のようなもの。あぁ、こいつ、本気でその子のことが好きなんだ。でも、一介の姉でしかないわたしには、なんと言ったら良いかのか、判断がつかなかった。
やがて弟は静かに泣き出した。わたしがハンカチを差し出すと、目頭だけをちょんと拭いた。そこに滲んだアイラインの跡のことは、問いたださないでやることにした。




