沈むならあなたの底で(著:くるっぽー)
カウンターの端で、私は死んだ目をしていたと思う。
氷が融けきったウイスキーのグラスをぼんやり見つめながら、ひとくち、またひとくちと飲む。
喉を通る感覚すらぼやけて、味があるのかどうかもわからなかった。
──生きてる、というより、止まってるに近かった。
23時を回ってもバーは静かだった。
週末とはいえ、少し裏通りにあるこの店に人が詰めかけることはない。
むしろそれが良かった。
誰にも干渉されないことだけが、今の私をギリギリの場所で踏みとどまらせていた。
それなのに。
「ねぇ……」
不意に、声をかけられた。
あまりに唐突で、聞き間違いかとすら思った。
けれど視線をあげると、ひとりの女がいた。
ワイングラスを持った手で、私の隣の椅子をトンと軽く叩きながら、少し微笑む。
「……浮かない顔してるね。ていうか、それもう“死にそう”って顔」
静かな、低めの声。
言葉はストレートなのに、不思議と刺さらなかった。
彼女の目が冗談を言っていなかったからかもしれない。
「……誰?」
「ただの通りすがりの、酒好きな女」
そう言って彼女は勝手に隣に座った。
少し古びた香水の匂いがふわりと香る。
甘さよりも渋みの強い匂いだった。
「でも、わかるよ。全部投げ出したい夜でしょ、今のあなた」
「……かもね」
口をついて出た言葉が、自分のものとは思えないくらい素直だった。
酒のせいか、それとも、この女の目の奥にあるなにかがそうさせたのか。
「なんかあったの?」
「なんかって言えるなら、こんなふうに飲んでない」
「ふーん」
興味があるような、ないような返事をしながら、彼女はワインをくいっと飲み干す。
首筋がきれいだと思った。
喉が動く一瞬が、妙に艶っぽかった。
「もう……全部嫌になったんだよ」
「うん」
「何やってもうまくいかないし、努力しても誰も見てくれないし、優しくされたら信用できなくて、怒鳴られたら自分のせいだって思うし」
ぽつり、ぽつりと吐き出すように言葉が落ちていく。
彼女は黙っていた。
うなずくでもなく、遮るでもなく、ただ静かに聞いていた。
それが、とても心地よかった。
「……死にたいってほどじゃないけど、生きていたくもない」
「うん。わかるよ」
カラン、とグラスの音が響く。
いつの間にか彼女が、わたしのグラスと自分のを近づけていた。
「どうせ終わるつもりならさ、私に抱かれて壊れてみない?」
その言葉が、耳の奥でゆっくり沈む。
「……え?」
「壊れたいって顔してたよ、最初から。でも、ひとりで壊れてもつまんない。誰かに壊してもらったほうが、案外スッキリするよ」
口角が少しだけ上がっていた。
その笑みは妖艶でも好色でもなく、どこか同情のない慈悲に近かった。
「……なんで、そんなこと言うの?」
「なんでだろうね。でも……あなた、今のままじゃ、絶対この先、生きていけないよ」
その言葉だけは、なぜか、残酷に優しかった。
わたしはもう、底だった。
すり減って、ひとりではまともに形を保てないほどに。
だから。
そのまま、彼女の言葉に従った。
夜の街は、冷たい風が吹いていた。
無言で歩くわたしの手を、彼女が自然に取った。
暖かくて、ざらざらしていて、生きてるなって感じる。
部屋は狭いワンルーム。
古いマンションの一角。
白い壁に、置かれた家具もシンプル。
それが逆に、ここに連れてこられたという実感を強くさせた。
彼女は何も言わず、私のコートを脱がせる。
ボタンを外す指が、妙に優しかった。
頬に触れた手にびくりと身体が反応する。
「怖い?」
「……ううん、平気。もう、何も怖くない」
「そっか」
そのあと、彼女は何も言わなかった。
口づけも、脱がす指も、すべてが静かで、まるで死に水を取るような優しさ。
でも、わたしの心は死ななかった。
むしろ、あたたかくて、くすぐったくて、どこか疼いている。
──どうして、こんなことをしてるんだろう。
そんな問いが浮かぶたび、彼女の指先が答えを濁してくれた。
私は、抱かれていた。
だけど、それだけじゃない。
なにかが、壊れていた。
けれど、それ以上に──なにかが、生まれていた。
それが、恋と呼べるものかどうかは、まだわからなかった。
ただ、たしかに終わらせてくれない誰かが、いま目の前にいる。
気づけば、彼女の部屋に通うのが習慣になっていた。
週末だけじゃない。
ひとりでいる夜のほうが怖くなって、私から連絡することもあった。
彼女は、いつでも「おいで」とだけ返す。
それだけで、私はなにも聞かれずに済むのだと、ほっとした。
名前も、歳も、仕事も。
彼女は尋ねなかったし、私も言わなかった。
そのあいだに、数えきれない夜が過ぎた。
抱き合って、眠って、朝がきたら無言で帰る。
まるで夢の続きみたいに、現実と地続きにならない時間。
それなのに、不思議と私は、生き延びていた。
相変わらず、会社では浮いていたし、将来の不安は尽きなかったけれど。
彼女といると、なぜか死ななくていいと思えた。
ある晩、いつもより少し酔った彼女が、珍しく話しかけてきた。
「ねえ」
「ん?」
「……あなた、本当にあの夜、死ぬつもりだった?」
彼女の指が、私の髪を梳きながらそう尋ねる。
その動作と問いのギャップに、私は少し笑ってしまった。
「わかんない。たぶん、死ぬ勇気もなかったと思う」
「じゃあ、あのとき私が声かけなくても、生きてた?」
「……生きてたかもしれないけど、もっと腐ってたかもね。なにも感じないまま、ずっと」
彼女の手が止まる。
そのまま、頬に添えられる。
温かい。
「……私は、あなたの全部を救ったわけじゃないよ。ただ、寂しさに名前をつけてあげたかっただけ」
「名前?」
「そう。誰かに抱かれてるっていう、それだけのことに」
私たちの関係には、最初から名前がなかった。
友達でも恋人でも、当然愛人というほど割り切れてもいない。
でも──今、ようやくその理由が少しだけわかった気がした。
「私たちって、付き合ってるのかな」
彼女は一瞬だけ、目を細めて笑った。
それは、やさしいけれど、どこか物悲しい目。
「さあ。あなたがそう思いたいなら、そうなんじゃない?」
「ずるい」
「そうだよ。だって、これは恋じゃないもの」
「……じゃあ、なに?」
「あなたが、死なないための場所」
その言葉に、胸の奥がざらっとした。
けれど不思議と、それは悪い感触じゃなかった。
たしかに私にとって、彼女は恋なんて生ぬるいものじゃなかった。
もっと、深くて、重くて、曖昧で、名づけようのないもの。
ただ、それでもいいと思えた。
彼女の肌の温度を感じるたびに。
その腕の中で泣いた夜を思い出すたびに。
「……ねえ」
今度は、私が呼んだ。
「なに?」
「私、今日で終わりにしようと思う」
「なにを?」
「この関係……っていうか、ここに来るの」
彼女の指がぴたりと止まる。
沈黙が、ゆっくりと降りる。
「理由、聞いてもいい?」
「たぶん、もう平気だから。ひとりで泣くのも、ひとりで眠るのも、できる気がする」
彼女は黙って私を見ていた。
その目に、怒りも驚きもなかった。
ただ、少しだけ、深く深く沈んだ哀しみのようなものがあった。
「……そう」
そう言って、彼女はそっと手を離した。
「おめでとう。あなた、やっと“ひとり”になれるね」
「うん」
たぶん、それが彼女なりの祝福だったのだと思う。
最後の夜も、私たちは抱き合った。
痛みはなかった。
ただ、何かが流れていく感じだった。
繋がって、溶けて、でも最後にはきちんと離れていく。
朝、私は彼女のキスで目を覚ました。
ほんの少し唇が触れるだけの、浅いキス。
「じゃあ、元気でね」
「うん」
彼女の部屋を出た瞬間。
私は初めて、この部屋に帰る場所ではない匂いを感じた。
あれから、数ヶ月が経った。
私はちゃんと働いている。
飲みすぎないようになったし、笑うことも増えた。
それなりに、誰かと話すこともできるようになった。
でも、たまに夜になると思い出す。
彼女の髪の香り。
爪のかたち。
グラスを持つ手の、細さ。
──そして、あの時言わなかった名前。
今でも、私は彼女の名前を知らない。
それでよかったのかもしれない。
名づけた瞬間、それは終わるものだから。
私は、今日もひとりで眠る。
でも、それが苦じゃなくなったのは──
きっとあの人が、私の終わりを止めてくれたから。
愛してたかどうか、わからない。
でも、私は確かにあの夜から生きたと思う。




