56:間一髪
マイが投げたインク瓶がぶつかるのを阻止してくれたのは、サンタベリー子爵家の長男ジルベールだ!
「……どんな理由があっても、暴力はいけない。止めるんだ」
ジルベールの凛とした声に、マイは冷静になったようだ。彼が拾い上げたインク瓶を受け取り「すみませんでした」とぼそっと呟くと。
脱兎のごとく勢いで、走り出す。
「おい、君っ!」
追いかけようとすると、ジルベールを止めた。
あの状態のマイから「すみませんでした」を引き出せたのは、奇跡に感じた。その一方で、それも当然だろうと思えている。もし相手がジルベールでなければ、マイは無言だったはずだ。彼の持つ、上に立つ者特有のオーラに当てられたマイが、男爵令嬢として条件反射で、謝罪の言葉を口にしたのだと思う。
「アリー、これでいいのかい? 彼女は君に、謝罪の言葉を言っていない。あくまで僕の注意に対する謝罪しかしていないと思うが」
「ジルベール様、まずは助けていただき、ありがとうございます。もうダメかと思ったので、本当に助かりました。そして謝罪の件は……仕方ないです。でも直前まで逆上していたので、我を忘れたのだと思います。私のことも別人と勘違いし、襲い掛かろうとしていたので」
「アリー、君は本当に昔から優しいのだね。あんな瓶、顔にあたったら鼻の骨が折れたり、歯が欠けたりした可能性もあるのに」
そう言われると、ジルベールは大丈夫だったのかと、不安になってしまう。
「僕? 僕は大丈夫だよ。咄嗟にこの本で弾いたから」
見るとジルベールの手には、分厚い洋書がある。ディープグリーンの装丁に金色の文字で、タイトルが示されていた。
「咄嗟にあれを弾き返せるってすごいですね」
「丁度当たっただけよ。だからすぐそばに、瓶も転がっていた」
そこでジルベールは、不思議そうに首を傾げる。
「しかしインクも入っていない空の瓶を、さっきの女性は、アリーの手から奪うようにしていたけど……あれは何か特別なものだったのかな?」
「赤いリボンは私がつけましたが、瓶自体は、そこまで特別なものではないです。村でも町でも売っているようなもの。……あの子はマイといって、元は男爵家の令嬢です。どうも誰かから虐げられて生きてきたようで、友達も婚約者を奪われたと叫んでいました。その復讐で、魔物を召喚しようとしているのです」
私の説明を聞いたジルベールは「魔物の召喚?」と驚いた顔をしている。そこで私がシャドウマンサー<魔を招く者>について説明しようとすると。
「アリー、僕は明日のホリデーマーケットの待ち合わせについて、手紙を従者に届けさせるつもりだった。でも少し遠出があって……。それならば帰りがけに修道院により、手紙を直接、アリーかナオミに渡すつもりでいた。……これだよ」
ジルベールがそう言って、ブレザーの胸元から封筒に入った手紙を取り出し、私に渡してくれる。
「つまり馬車で来ているから、修道院までアリーのことを送るよ。そこで魔物の召喚という、随分荒唐無稽そうな話、聞かせてもらっても?」
「分かりました! 馬車で送っていただけるなんて、光栄です。ありがとうございます、よろしくお願いします」
こんな展開になるなら、ナオミのことも連れてくればよかったかな……。いや、でもジルベールが現れたのは偶然だ。暴走したマイが投げたインク瓶がもし、ナオミに当たったら大変なことになっていた。
「ではアリー、どうぞ」
ジルベールが手を出し、公園のそばに止めていた馬車に乗せてくれる。馬車に乗った私は、結局、すべてを話すことになった。つまりシャドウマンサー<魔を招く者>の件は勿論、マイがしたこと――オリアの宝石のついたブローチを盗んだことまで、すべて話した。
話している最中に、修道院についてしまった。するとジルベールは御者に指示を出し、馬車を走らせ続けた。修道院から村のはずれまで一度行き、再び修道院へ到着したところで、すべて話し終えることができた。
「アリー……とても驚いたよ。そのマイという子は、とても危険に感じる。名前はマイ・ドラクブラッドだったよね。ドラクブラッド男爵について、僕の方でも調べてみるよ。何か裏の顔があるようなら、修道院ではない別の場所に収容することができないか、父上に相談してみる。それはあくまで、シャドウマンサー<魔を招く者>に傾倒しているという観点から」
もしマイがどこか別の施設に移るか、ドラクブラッド男爵家に戻ってくれれば、それはとても安心だと思った。あんな風に豹変する姿を見たら、なおのことだ。
「あとオリアのブローチ。もう昨日から大騒ぎで、オリアはショックで寝込んでいたんだ。今日、僕が遠出したのも、隣の町で黒い宝石を売っていると聞いてね。最悪、我が家であのブローチとそっくりのものを用立てようと、黒い宝石と赤い宝石を探しているところだった。まさか盗まれていたなんて……。オリアはどこかに落としたと信じている。……取り戻せるかい、アリー?」
ジルベールが心配そうに、私を見た。
「そうですね。修道院が寄付を失えば、大変なことになると話し、それを聞いてマイも『分かったわ。仕方ないから、それは返してあげる』と言っていたので、取り戻せると思います」
「そうか。でもくれぐれも無茶をしないでほしい。もしもの時は、僕に相談して。いざとなれば僕が動くから」
これはとても心強い! 「ありがとうございます」と頭を下げると。
「僕も今回の件は、大事にしたくない。それにバーリン孤児院と修道院への寄付も、止めさせるつもりはないからね。……ひとまず明日のホリデーマーケットで、どうなったか教えてほしい」
ジルベールの言葉に励まされ、私は馬車を降りた。






















































