9:幸せとは
シリルの提案を受け入れれば。
私は修道院に戻らずに済んだ。
両親の愛を知らない私だったが、シリルと結ばれ、子供を産み、親子三人。
慎ましいが、幸せな家庭を築くことができるかもしれない……。
そんな未来も、一瞬浮かんだ。
だがそこに、打算的になれない自分がいた。
シリルが話してくれた未来は、現実的で堅実なものだった。自分の立場を考えたら、これ以上ない、幸せな提案だろうに。そしてこの世界は、妥協で成立していた。
貴族や王族でさえ、結婚については打算と妥協で成り立っている。純粋な恋愛感情で結ばれるなんて無理な話で、家同士の関係、複雑に絡み合う利害、パワーバランス。当人同士よりも、政治や外交が優先され、婚姻関係が結ばれるのが、当たり前のことだった。
だから「シリルはいつ私を好きになったの?」「私はシリルのことが好きなの?」なんて疑問は無視し、出された提案に、食らいつくぐらいになれたら良かったのに。
私自身がシリルを、好意的に思えるが、弟のように思えてしまう。つまりシリルに対し、男女間の情愛を感じることができず、「ぜひ婚約しましょう!」にはなれなかった。
即答できず、かつ気持ちが定まっていない。よってシリルの社交界デビューの舞踏会のお相手は、難しい……そう、伝えることになった。するとシリルは「一応、舞踏会までまだ時間がありますよね。それならしばらくここに滞在しませんか?」と提案したのだ。
そんなことを言われても……と、再び離れた場所にいるランスを見てしまう。するとランスの顔に表情はなく、何を考えているか読み取ることができない。
つい、困るとランスを見てしまうが。
好意を寄せられているのは私であり、それに対する答えは、私からしか出せない。いくら困ったからとはいえ、ランスを見て助けを求めるようなことをするのは、お門違いだろう。
結局シリルには、男爵家への滞在については考える時間が欲しいこと。いずれにせよ、一度、修道院に戻る必要があること。よって滞在についてもすぐに答えは出せないと返事をすることになった。
この返事には、さすがのシリルもガッカリと肩を落としてしまう。
「ではせめて、今晩はこちらの屋敷に、ランス様と共にお泊りになりませんか? どのみち、今から出発されても目指す村に到着するのは、距離的に難しいと思います。そうなるとどこかに泊まる必要性が出てきますが……。宿場町に辿り着くのは、日没後になります。さすがにそれは危険ですよ。夜間の移動は、極力避けた方がいいですから」
それは確かにその通りだった。そしてこの件であれば、ランスに相談していいだろう。ということでチラリとランスを見ると。
さっきからずっとランスの顔に表情はなく、しかも遠くを見つめている。
一体全体どうしたのかしら?
美貌の男性があんな風にしているのも、なんだかそれはそれで絵になると思ってしまうけれど。ひとまず手を振り、関心をこちらへ向けるようにしてみた。ランスはすぐに気づき、慌ててこちらへと来てくれる。
そこで今、シリルに言われたことを聞かせると……。
「確かにその通りですね。さすがこの辺りの土地については、シリル様がお詳しいです。こちらに一晩、滞在させていただければ、とても助かります。予定外ですが、報告は入れておくので、大丈夫でしょう」
ランスは即答し、このまま一泊させてもらうことが、決定した。
◇
正直なところ。
アリーとシリルが何を話しているのか。
それはとても気になった。
だが、二人の方に神経を全集中さえ、会話を聞き取るようにしないと、無理だった。
つまりはこの距離では、普通にしていては、何を話しているか聞こえない。
それでも。そんなことをしなくても。
シリルの表情、そしてあの動作から、彼の方の気持ちは、手に取るように分かってしまう。
それは同じ男……だからだろうか。
間違いなかった。
シリルはアリーに好意を抱いている。
そのきっかけは……。
これは仕方ないと思う。
聞いたところ年齢は16歳になったばかり。
異性への関心が一番強くなる時期だ。
かくいう自分でさえ。
既に騎士団入団し、騎士としての道を極める必要があったのに。
その年齢の時は、異性への興味が高まってしまった。
16歳という異性に目覚める年齢で、あの姿を見てしまったのは……。
盗賊に襲われ、両親につながる大切なペンダントを、アリーは奪われそうになっていた。大変な事態であり、目を奪われている場合ではなかった。それでも16歳だ。あの時、思わずシリルの頭を何度かはたき、見るのを止めさせたが……。
釘付けになっても仕方ないと思う。
自分でさえ、つい見入ってしまいそうになった。シリルは自分以上に衝撃を受け、目を離すことができなかっただろう。
普段は秘されている胸が、下着をつけているとはいえ、あれほど露わになっていたのだ。ミルクのような美しい肌は、羞恥からバラ色に染まっていた。見事な曲線を描いた下着から想像される、その中に収まる胸は……。
ダメだ。
想像するな。
アリーのそばにいるとつい、余計なことを考えてしまう。
深呼吸を繰り返し、騎士のように跪いてアリーの手を取るシリルを見る。
アリーのあんな姿を見て、16歳のシリルが彼女を好きになってしまうのは……仕方ないことだろう。
できることなら、顔を見て会話をし、好意を抱く――そんな手順を踏めればいいと思う。だが窮屈な貴族社会では、それも難しい。縁談話など、画家が描いた絵と身上書で進められていく。
特に家同士の利害が絡んだ結婚など、式当日まで互いの姿を見せないという慣習まであるぐらいだ。
つまり。
まずはアリーの体からシリルが好きになってしまったとしても、責めることはできない。だがアリーはとても性格がいい。すぐに彼女自身のことも、シリルは好きになるだろう。
その一方で……アリーはどうなのだろうか。今、見ている限り、向けられるシリルの好意に、困惑しているようにしか見えないが……。
いや、アリーは修道女。そう簡単にシリルの気持ちに応えるはずがない。
それにシリルだって男爵家の三男。修道女であり平民のアリーを好きになっても……。
アリーが不幸になるのは見たくない。
もしシリルの気持ちが、16歳の若さゆえの欲望だけだったら。
止めなければいけない。
いや、それは余計なことなのか。
宙を眺め、自問自答を繰り返すことになる。