第二十六話 消えない火種(中編)
柚木朝陽の死から五日が経った。
所轄の見立ては、依然として「電気系統の不具合による感電事故」で固まりつつあった。花火大会という、大量の電力を扱う現場での事故は、決して前例のないことではない。
だが、井森正一だけは、違った。
彼は捜査本部にほとんど顔を出さず、一人で柚木の交友関係と、宗像煙火の内情を、まるで散歩でもするかのように調べ続けていた。
⸻
「柚木さんが、分析を依頼していた、化学者さんですよね」
地方都市の小さな研究所を訪ねた井森は白衣の男性に声をかけた。
「あ……はい、そうですけど」
「捜査一課の井森です。すみませんね、お忙しいところ。ちょっとだけ、お時間よろしいですか」
化学者の名は、大井といった。宗像煙火とも、長年の取引があるという。
「柚木さんから、どのような依頼を受けていらっしゃいましたか」
「火薬の配合成分の、詳細な分析です。特許出願のための、資料作成の一環だと聞いていました」
「特許、ですか。それは、宗像家の秘伝の配合を、ということですよね」
「はい。柚木さん、独立を考えていらしたようで。〈自分の名前で、新しい花火ブランドを立ち上げたい〉と、おっしゃっていました」
「なるほど、なるほど」
井森は、手帳に何かを書きつけた。
「その件、宗像さんはご存知でしたか」
大井は、少し気まずそうな顔をした。
「実は……私が、うっかり、源一郎さんに話してしまったんです。事件の三ヶ月ほど前に。今にして思えば、余計なことをしてしまったと、後悔しています」
「源一郎さんの反応は、どうでしたか」
「電話越しでしたが……声のトーンが、明らかに変わりました。〈特許だと?〉と、低い声で。あれは、驚きというより……怒りに近かったように思います」
「なるほど」
井森は、静かに頷いた。
(――源一郎さんは、事件の三ヶ月前から、柚木さんの計画を知っていた)
⸻
井森は、その足で、柚木の分析データそのものを確認するため、遺品となったノートパソコンを、鑑識に依頼して解析させた。
削除されていたはずのデータの一部が、復元された。
そこには、詳細な成分表と共に、特許出願のための申請書類の下書きが残されていた。日付は、事件の一ヶ月前。すでに、弁理士への相談も、進めていた形跡があった。
「柚木さん、本気で、独立を考えていたんですねぇ」
井森は、そのデータを見ながら、独り言のように呟いた。
⸻
夕方、井森は宗像煙火の作業場で、源一郎と再び顔を合わせた。
「おや、井森さん。まだ捜査を?」
「ええ、まあ。どうしても気になるので」
井森は照れくさそうに頭を掻いた。
「宗像さん、少し伺いたいんですが。柚木さんが、秘伝の配合を分析して、特許出願の準備を進めていたという話、ご存知でしたか」
源一郎の表情筋が、ほんの一瞬だけ強張った。だが、すぐに平静を取り戻す。
「初耳です。弟子の私生活には、あまり口を出さない主義でしてね」
「なるほど。いや、面白いですよねえ。十三年間、住み込みで修業してきた弟子が、亡くなる直前に、師匠の秘伝を、こっそり特許にしようとしていたなんて。まるで――独立の準備を、着々と進めていたみたいで」
「……それが、何か問題でも?」
「いえいえ、ちょっと気になったものですから」
井森はぺこぺこと頭を下げた。
「ところで宗像さん。もう一つ、教えていただきたいことが。あの点火装置、去年、接触が悪かった箇所があったとおっしゃっていましたが、具体的には、どのあたりだったんでしょう」
源一郎の心臓が、大きく跳ねた。
「……それは、専門的な話になりますが」
「専門的で結構です。実は、電気工事の専門家に、装置を詳しく調べてもらったんですが、絶縁体の劣化にしては、少し不自然な破損の仕方をしている箇所があったそうでしてね」
「不自然、というのは」
「経年劣化なら、もっと広い範囲に、均一に劣化が見られるはずなんです。でも、今回の破損箇所は、局所的に、意図的に傷つけられたような形跡がある、と」
源一郎は、答えなかった。
「念には念を入れて、点検されていたと思うんですよ。だから、なおさら気になってしまって」
井森はそう言うと作業場を後にした。
源一郎はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
⸻
その夜、源一郎は自宅の書斎で、密かに古参の花火師に電話をかけていた。
「――点火装置の配線、去年の点検記録、もう一度確認しておいてくれ。それから、あの日、俺が装置に触れた記録が残っていないか、念のため確認しておいてほしい」
電話を切ったあと、源一郎は深いため息をついた。
(あの男……ただの間抜けな刑事ではない。むしろ、恐ろしいほどに、細部を見ている)
だが、まだ大丈夫だ。証拠は、何一つ残していないはずだ。配線の細工は、専門の工具を使い、誰にも見られることなく行った。あとは、井森という男の追及を、どうかわすかだけだ。
⸻
翌日。
井森は、柚木朝陽の母親のもとを訪れていた。
「朝陽さんの持ち物、見せていただいてもいいですか」
「……はい、どうぞ」
柚木の遺品の中に、一冊の古いノートがあった。修業時代からの、日々の記録がつけられたものだった。
井森は、そのノートを、丁寧にめくっていった。
事件の二週間前、柚木は、こう書き残していた。
〈今日、先生の様子が、少しおかしかった。いつもより、点検の指示が細かい。何か、気づかれたんだろうか〉
そして、事件の三日前――
〈先生に、独立の話をするなら、今のうちだ。でも、なかなか、切り出せない。先生には、本当にお世話になったから〉
井森は、しばらくの間、そのページを、静かに見つめていた。
(――柚木さんは、師匠の変化に、気づいていた。それでも、正面から話そうとしていた)




