第36話:女神と鳥と放浪人
「ただいま!」
はしゃいで宿に入っていくネイシャに、俺は付いて行く元気などない。ルリエールの明るい声がネイシャを元気づけている中に、いつも通りやる気なく入って行くだけだ。何かを頼んだらしいルリエールに、ネイシャは要らないぐらいの頷きを返して2階へと登って行く。扉を開けた俺の目に入ったのは、すっと笑顔をなくしたルリエールだった。
「おかえり、なさい」
「ん、ただいま」
なんでもない顔をして帰って来てしまったが、ついこの間、ルリエールに怒られたことは記憶に新しい。幾ら忘れっぽい俺でも、忘れるに忘れられない。
「今晩はごちそうですね!」
「……ごちそうが多いな」
ルリエールの嘘くさいぐらいに明るい声に、俺は冗談で返すぐらいしかできない。でもここでのごちそうは悪い気はしなかった。実家ではもう要らないってぐらいに飯が運ばれて来て、それも家を出た原因だと思う。張り切って俺に背を見せたルリエールは、しかし台所へ行く足をぴたりと止めてしまう。
「──ご無事で、良かった、です」
「ん、いろいろ、悪かった」
どうして俺の無事なことに安堵し泣くのだろうか。態度が良いと云われたことはないし、せいぜい泣いてくれるのは親族と腐れ縁ウェイアレイだけだろうと思うが。
「俺もなんで狙われるのかさっぱりわかんねぇ。ただ莫迦な思想を持った奴らが、俺をさらいに来たのは北国でも同じだった。だから俺は、こうして異国に居ても意味もなく狙われることがある」
アリカラーナとは、そういう土地らしい。世界の神国であるアリカラーナの人間は、アリカラーナから出ることがまずない。アリカラーナへ行くにはアリカラーナの人間を通さなければならず、またかの国の人に恩恵を預かりたいとか、そういった理由で伝手を作ろうとするらしい。
……のだが、世界のアリカラーナ信仰とは莫迦なぐらいに深くて、外で見つけたら誘拐もどきで連れ去り、あわよくばアリカラーナの政治に介入しようとする。たとえ見つけたアリカラーナ人が王族でなくても、誰かれ構わず貴族にしようとするのだ。まぁだからつまり、俺が王族だってことはあんまり関係ない。北国では俺が王族だってことすら誰も知らなかったのに、奴らはアリカラーナの人間というだけでたかって来た。初めての異国で俺は、莫迦正直にアリカラーナから来たことを口に出していた。一度北国で意味もわからないままさらわれそうになってから、なるべく口を閉じることにした。
「一所に留まれるのは、自分の国だけ。所詮俺は、余所者だから」
面倒くさい国の面倒くさい家に生まれた自分の身を正直面倒だと思うが、やはり俺はあの生まれ育った家を、イリシャントゥラスという家を捨てることはできない。あそこは俺の唯一許された、存在場所だったから。
「出て、行かれるのですか」
ルリエールが絞り出した声は、微かに震えている。なんでそんな、不安そうにされるのだろう。俺がここに来てルリエールにしてやったことなんて、一つもない。
「……なぁ、ルリ。居ない方が、平和だろ」
「平和でなくても、楽しい日々でした」
「ルリ」
「ビルさんが来る前まで、私は診療所に通い詰めてました。ほとんど泊まり込みで。まだ戦が終わったばかりで、あちこち傷だらけの人ばかりで、見つからない人がいっぱい居て、しばらく笑顔なんて見つかりそうにありませんでした。お父さんと二人だけで居ることに息が詰まったのもありますけど、何かしているという、生きて役に立っているって事実が欲しかった。やっと落ち着いて診療所から戻って来て始めたのが、宿屋でした。その後来たのが、ビルさんです」
戦争の惨劇は聞いている。だが俺は、戦争なんて知らない。俺が来た時は戦争の爪痕なんて片付いていて、みんなが自由に暮らしているように見えた。だがそれは、ようやく見つけた笑顔の上に成り立っていたのだと、俺は今さら知る。
「ビルさんが来てからも戦争は小さくあって、それでも久しぶりに楽しかった。本気で笑えた」
「ルリ」
聞かないようにしていた。無理矢理聞き出す必要はないと思っていたのもあるが、俺がそんな話に堪えられないからだ。そんな痛々しい話を、俺は最後まで聞いてやることができないと。だから目の前で肩を震えながら話すルリエールに、俺は何もしてやれない。少しでも落ち着くよう、肩を抑えてやるものの、ルリエールに安堵は来ない。俺が居なくなることが、戦の終焉に繋がるとは思わないのだろうか。
「ビルさんがここを出て行くのも、残るのも、それはビルさんが決めることです。 ただ、ビルさんに居て欲しいという気持ちは、ビルさんが決めて良いものではありません」
あ……。
──世界中の誰が敵になっても、私はビルを好きで居続けるから。それだけは、信じていてね。
信じている。おまえの言葉だけは、誰よりも信じられる。だけど他の人の気持ちなんて、さっぱりわからない。
「ネイシャもジョーさんも将軍も……私だって、ビルさんに居て欲しいから助けたんです。そういう他者の気持ちをビルさんが決める権利はありません」
振り返ったルリエールは、泣いていた。今度こそ本当に、泣いていた。だけど目の強さだけは消えない。あーあ、俺はどうして、こうやって回りを傷付けることばかりするのだろう。本当に他人ってのは難しくて、俺にはレーイ以外の人間の気持ちなんて、さっぱりわからない。
「……悪い」
ルリエールを落ち着かせるように背中を叩いてやる。小さい背中だ。こいつはこんな小さい背中で、今まで何かと戦っていたのだ。それでもこんな俺に、これだけの説教を垂れるほど価値を見出してくれる。
俺はこいつに泣いてもらえるだけの価値があるわけじゃあないのに。みんなが望んでいるのは俺じゃあないのに。どうしてわかってもらえないのだろう。それとも、その前提が、もしかして間違っているのか。そんなわけがない。俺が生きていることが許される世界があっても、俺は結局アリカラーナでしか生きられない。そしてあの国は、俺が生きていることを許さない。
でもここでは、ここでは少しぐらい、存在を許されていると思っても良いのかもしれない。結局は束の間の夢だが、少しならば、俺はここに居ても良いのだろうか。
「あー……なんだっけ、あいつ。不動産屋」
俺がいきなり切り出すと、ルリエールは小さく反応した。
「──ヨアンさん、ですか」
「そう、実はそいつに頼んで、家を捜してもらおうと思ってんだ」
「家?」
ルリエールはうつむけていた顔を少し上げたものの、こちらを向こうとはしない。あーあ、なんで俺が出て行くってだけで、こんな大事になっているのだろう。
「とりあえず、ネイシャと住むことにした」
・・・・・
「私、リュースのこと知ってるよ」
いきなりネイシャにそんなことを云われたのは、シーバルトから宿へと帰る時だった。こいつまで頭がおかしくなかったかと訝ったものの、俺を見る目は実に真剣だった。
「だからリュースも、私のこと、知ってるよね?」
不安そうに尋ねられて、俺はようやく思い出す。俺が去り際に云ったことを、こいつは律儀に覚えていたのだ。本来ならあのまま二度と会わないはずだったのだが、おせっかいなやつらが多くて、結局俺はネイシャの手を引いて「帰ろう」としていた。
アリカラーナではない、自分の邸宅ではない、異国の小さな宿に。
「幾ら俺でも、忘れねぇよ」
こんなちんまい餓鬼、忘れるわけがない。餓鬼のくせにすべて悟ったような顔をして閉じこもっていたのは、そう簡単に忘れられる光景ではなかった。忘れたと云えたら、楽だったのだろうか。
「それで、おまえはどうするか決めたのか」
「……まだわからない」
ふいにさっきまでの明るいテンションは急降下し、わかり易く顔まで萎れる。単純と云うか子どもというか。餓鬼餓鬼云うほど子どもではないのだが、ついそう感じてしまう。
「リュースは? 決めたの?」
もう船は出航できるから、俺は北大陸に渡ることも、南大陸に渡ることもできる。行ったことのない南には心惹かれるし、だからと云って山脈向こうの戦乱も行きたい気持ちは失せていない。
「いや、近いうち、帰らないとまずいけど」
「そう、なんだ」
わかり易く落ち込まれると、俺もどうしたら良いかわからない。ただ本当にさっき思い出したが、帰らないとルーシアからどんな仕打ちがあるかわからない。レイヴンにも帰ると約束した手前、帰ることは決定事項だ。この壊れた身体がさらにどんだけ壊れたのか、主治医に見てもらうこともしなければならないだろう。ここに来てからやけにぶっ倒れてるから、たぶん恐ろしいぐらいの笑顔で怒られそうだが、それも覚悟の上で従兄に診てもらったほうが良い。
ただ、それまでの間、俺は何をしたら良いかわからない。
「一緒に考えるか」
「え?」
「しばらくの間、少しだけ、やることがわからない奴ら同士でぼけっとしてるのも良いだろ」
ネイシャはわけがわからないらしく、丸い目でじっと俺を見て来る。真意を伺うようにする様は、まるで餌を取る野生動物のようだ。
「宿出て近くに家借りて、そこでしばらく住む。──それで良いか」
「え?」
「あ、嫌なら良いから」
「わ、私も一緒に居て良いの?」
「駄目だったら云わねぇよ」
相当慌てて挙動不審になるネイシャに、俺は小さく溜め息を吐く。こいつの場合ベルクスの望む通り、孤児院に行くのが一番良いのかもしれないが、ネイシャ自身からそうしたいという希望は出て来ない。
「ただし、ちゃんとどうするか決めることが条件だ」
俺はこいつを外に出した。選択肢を与え、その通りにしてやった。ならばこいつが選ぶ道を最後まで摘み取らないために、貫き通すしかない。俺のできる範囲で、道の数を増やしてやるしかない。
「考えるまで、リュースと一緒に居たい」
結局のところ、あいつの答えはすごくシンプルで、俺はたぶん、脱力した。そんな俺を見ながらレイヴンがにやにやしていたことだけを、やけに覚えている。鳥のくせになんでにやにやしているとかわかってしまうんだろう。
不動産屋に頼んで紹介してもらった場所は、宿から北西、カーヴレイクから西にある、集落から離れた古い家だ。戦争の後奇跡的に残っていたのは、住宅地から離れていたからだと云う。周囲には柵で囲まれた小さな牧草地らしき跡が残っているものの、生命の兆しはあまり見えない。
二階建ての小さなその家に、俺とネイシャは来た。周りは死んだ地面なのに、この家だけ古いくせにやけに生き生きしていて、少し入るのを躊躇いたくなるぐらいだ。
「リュース」
そう云って俺を見るネイシャは、最初ただのちんまい子どものように見えたのに、なんだか大人びた顔つきになっている。まあでも、11歳と云えばもう子どもでもない。よく考えれば、妹も同じぐらいである。あれ、何歳だったっけ。13ぐらいだったか。その割には縁談がどうのとかの話はまるで聞いていない気がするけど、ちゃんと後を継げるのかと、自分のことを棚に上げて余計なことまで考えてしまう。
──帰って来てください。
一度は帰るとそう決めた。だがあとほんの少し、まだここでこうして迷っていても良いだろうか。
無言で手をつないで、俺たちは、仮初めの家の中へと入った。




