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初恋。  作者: 冬鳥
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矛先

正義があれば悪があります。また正義のなかに悪もあるしその逆もあります。人それぞれ掲げる正義が違うから争いが起こると思います。正義のなかに潜む悪をも尊重しあうことが大切なんでしょうね。



@



「ぐぅぅぅ…いってぇぇぇ」


腹を抱え身をよじる宮崎に詰める彰の動作に迷いは感じられなかった。そして空手で習得した蹴り技がすでに右足を軸に繰り出されようとしていた。踏み込んだ右足の大腿筋ははち切れんばかりに膨らむ。

大人の有段者でさえ、てこずる大橋彰の得意技である左上段蹴りが地を離れ起動を開始した。

彼の顔には形容しがたい憤怒の形相が浮かぶ。冷静さを見失い自分自身にも抑え切れない感情がいま彼のなかで爆発しようとしていた。渾身の力を軸足に溜め左足で解放させる。もし、彰の足の甲、または爪先が宮崎のこめかみ部分にまともに命中でもすれば、怪我では済まなくなるかもしれない。それほどまでに熟練した空手の蹴りの力は甚大となる。いま彰は出せる力の限りを左足に内包させた。


過去に渡辺が忠告した言葉はどれも胸中のなかに納めてある。だがいまの彰は渡辺の言葉すべてを水の泡のごとく消し去っていた。


「お前の上段。とくに左足は天性なところがある。とにかく振り抜きがいい。だから防御をしらない素人には出すな。同級生と喧嘩しても左上段だけはやるなよ。だがもしやらないといけないときがあるならば絶対に顎を狙うこと。ここはやるな」



渡辺は彰のこめかみを指先で突いた。



「下手すりゃ一発でやばいとこまで行く。わかったな」



奈緒子を襲う巨大な悪魔は彰の眼前に突如現れた。


見えている物の何もかもが目撃した一つの齣によって劇変した。



それは日々、奈緒子の遠く小さな背中を見つめながら予想した何通りかの悪い事柄を幾重にも凌駕するような出来事だった。


女じゃなく男が?


彰の想像では女同士の湿っぽい無視や悪態の応酬が思い浮かんでいた。

奈緒子が抱く心の強さも自尊心も彰は理解している。彼女の芯の強さと聡明さは幼い頃から見てきた。

だから奈緒子をどう救い出すべきか悩んでいた。クラリネットを隠されたのは行き過ぎた行為だ。だが彰が思うに、やられたままの奈緒子でもない。

もしイジメがあるとしたら、それに対していま奈緒子がどの立ち位置で踏ん張っているのか。

彼女の登下校を見守るのはそれを確かめたい気持ちもあった。


だがいま目の前には想像に絶した光景が忽然と現れた。


突如奈緒子に近付いた男二人は立ちはだかるように奈緒子の前後に壁を作り、そして…。その光景は彰に恐怖を覚えさせた。決して怒りが血流を遡ったわけではなかった。始めに襲ったのは絶え間ない恐怖だった。


彰は走りだした。


その間も”行き過ぎた”光景が彰の視界に入っていく。

後方の男が奈緒子の髪を触り頭を叩く。

身を擦り寄せ奈緒子の耳元で唇を這わせる。



その汚い手を!その汚らわしい顔を!


振りほどこうとする奈緒子がそこにはいない。

両手をだらりと下げてされるがままに項垂れている。


や、やめてくれ…。



父、孝介が母親に振るう暴力のシーンが甦る。


怒号と悲鳴のなか彰は部屋の隅で泣いていた。膝に顔を埋め何かに懇願するように何事かを唱えるように言い続けた。


もう…もうやめて…お願い…もう…やめて…お願い…



あのとき彰が抱いていたのは父に対する恐怖だけだった。



だがいまは…。


彰自身にも抑え切れない感情が沸き上がっていくのがわかった。



それは怒りだ。



正義という名を下地に怒りと恐怖が混ざりあったとき人は自制を超えた凶器となる。

本能のままに殺戮をする。

人は貪るように復讐をする。




彰は、身体を丸め低い位置にある宮崎の右こめかみを狙う。もしすんでのところで仰け反られ浅く入るならば右目に標的を変える。脳を破壊させるかもしくは瞳を破壊させるか。どちらでもいい。必ずやってやる。

彰にはいま死神が宿った。

右足を軸にして左膝を胸元に引き上げた。そして間髪を容れずに、僅かに漂う朝霧を切り裂く音が鳴った。閃光が走る。


地面を蹴り上げた足先が宮崎のこめかみに疾風迅雷のごとく迫っていく。


まるで蛇だ。


狂暴な毒蛇の牙が宮崎のこめかみを突き破ろうとする。


そのとき誰かが叫んだ。



「彰君!やめてぇぇぇぇ!」



奈緒子が身を縮めながら叫んでいた。


「ぐっっ!」


寸前で彰の足は止まる。彰の履いている靴が、宮崎のこめかみのきわで止まった。シュッという音と共に生まれた風圧だけが宮崎の側頭部を流れていった。



宮崎はわなわなとその場にへたり込んだ。




おいおい!喧嘩だぞ!



一年と二年が喧嘩してる!


にわかに騒然となる南門。



「止めて…彰くん。止めて…お願いだから」



左足をだらりと下ろした彰は無言のままに宮崎の襟を掴みあげ睨み続けた。そして我に返った宮崎が「ひぃひぃ」と彰を見て悲鳴をあげ始めると宮崎を地面に突き飛ばした。


「ぐぐっ」


後方でうずくまっていた山下が苦悶に顔を歪めながらよろよろと立ち上がると、アスファルトに尻を付け喪失する宮崎を無理矢理に立たせた。



「い、い、行こうぜ…大丈夫か…く…くそ…。奈緒子…覚えとけよ…この借りはでかいからな。お前も…だ一年め。二年に喧嘩うりやがったな…これが何を意味するかわかるよな」



そう言い捨てると山下と宮崎は逃げるように校舎があるほうへとよろけながらも走り去っていった。



この場に残された二人。



「あ…あのね彰くん。大丈夫…大丈夫だよ。たんなる男子の悪ふざけだから。ほんとに…これは…悪ふざけで…」



奈緒子は歯をカチカチと鳴らしながら何度も深呼吸をする。震える身体は涙で濡れる頬をも揺らしていた。奈緒子の蒼白になった顔からは悲しみと恐怖しか伝わらなかった。


「奈緒ちゃん…」



彰は名前を呼ぶことしかできなかった。

いまこれ以上のことを訊く勇気がなかった。

しばらく無言のまま二人はその場にいた。


「私…行くね」



そして奈緒子は男達と同じ方向へ駆けていく。


自ら地獄の門を潜り抜けていくのだ。



彰は怒りで震える身体のまま遠ざかる奈緒子の背中を見つめ続けていた。


いまは何も考えられなかった。


ただ思うことは、奈緒子はそれでも学校に行く。それを自分は止めることができなかった。



彰の頭は混乱する。


男がイジメに絡んでいる…のか…。



「大橋…大丈夫か?さっきの二年…だろ?やばくねえのか…」



一年生の誰かが後ろから話しかけてきた。きっと振り向いて顔を見ても名前は思い出せないだろう。


「ああ。大丈夫だ。ちょっと揉めた」



震える言葉を抑えながらなんとか応えたときに、彰の足元に冷静さを拾いあげこちらに渡す神がいるように感じられた。

夢で聞いた言葉が脳裏に浮かんだのだ。


―お姉ちゃんを助けてあげて―




@



二時間目の授業が終わり15分の休憩が始まった。朝からずっと深刻な顔を浮かべる彰を不審に思ったのか壮太が首を何度か捻りながらのそのそと窓際の一番後ろの席へと近付いていった。


「よっこらしょ」


壮太が彰の机に腰をかけて彰の顔を窺った。椅子に深く座る彰は腕を組んだまま何かを睨み続けている。


「おいおい…めずらしく怖い目してるな…彰…なんかあったのか?」


彰の異変に気付いたように厳つい顔を寄せた。




「なにか…あったか?」



もう一度訊いてきた壮太の声は低くく深刻さが含まれていた。その声は小さな安堵となり彰の脳髄に響いた。


「壮太…」



「どうした?おい…いったい」



どこかに消失してしまいそうな彰の表情を見た壮太は異常さを察知した。



「なにかあったか。俺に言え。何があった?誰かにやられたのか?お前ほどの奴がやられたならば、さては二年だな?よし俺がやってやる」


握り締めた右拳を広げた自分の左の掌に二度打ち付けた壮太は「ふんふん」と鼻息を鳴らした。


彰は「いや」と否定してから下唇に前歯を当てた。



「壮太…奈緒ちゃんと…最近会ったか?」



奈緒ちゃん?


壮太は意外そうな顔をしてから思いを巡らしはじめた

「いつになるかなぁマンションの入口で確か」


「違う」


会話を途中で遮る。



「違う学校でだ。最近あるか?」



「学校か…、ああ、思い出した。そういえば三日前だったかな。学校で奈緒ちゃんを見た。ただそれが意外な場所でだ」



「意外な場所?ど、どこで?」



壮太はそれから奈緒子とばったり会った昼休みのことを彰に話しだした。



「それがさ、奈緒ちゃん自転車置場にいたんだよ。校舎の裏で北門の横にあるだろ、ずらーって自転車が並んでるとこ。そこに一人で奈緒ちゃんがいたんだ」



「自転車置場…」



「奈緒ちゃんは通学で自転車使わないだろう。だから俺もびっくりしたんだよ。奈緒ちゃんがそこにいたから」


壮太の話す声にはどこか喜びも感じられた。


「そのときの奈緒ちゃん…どうだった?」


どこか苦しげに聞いてくる彰に首を傾げながらも言葉を返す。



「どうだったって言われても難しいが、奈緒ちゃんとちょっとそこで話したんだ」


壮太は教室を見渡してから会話に戻る。



「なんか友達に自転車を借りたらしくてな。昼休みに家まで忘れ物を取りに行って来たって」



「友達…。行きたいとこ?」

壮太は、がははと笑いだした。


「実はな、俺も忘れ物を取りに家まで行きたくて自転車を借りたとこだったから。あ、それ同じだね!って盛り上がってさ。奈緒ちゃんも笑ってたな。それで最後に奈緒ちゃんが気をつけてねって言ってくれたんで。おうって感じで別れたけどな。彰。奈緒ちゃん友達いたぞ。よかったよ。俺ちょっと心配してたんだ。須田も吹奏楽ではイジメとかは無いって言ってたしな。まあ安心だ。それでどうした?。もしかして奈緒ちゃんに…なんかあったのか?」



「壮太…」




彰は言葉を切った。

そして苦しみのなかで必死に何かを探しだすように顔をしかめながら言った。



「奈緒ちゃん…やばいかもしれない」



「なに?」


壮太の表情が厳しくなった。


「やばい?やばいってどういう意味なんだよ」




壮太が張り詰めた大きな声で聞き返したときに、俊介が壮太の肩先から顔をひょいと出した。そして一口サイズのチョコレートを口に含みながら彰を睨みつけた。



「おい彰。お前…、今日の朝、南門で二年の宮崎らとやったのか?」



俊介の鋭い視線と彰の視線が重なる。



「なんだよそれ…」


壮太が前のめりになった。


「ただ喧嘩しただけだ…目が合って…」



「それと奈緒ちゃんが何か関係あるのか…?」


「……」



「彰!何があった!言え」



「……」



押し黙る彰に壮太が強い口調で詰問するように訊く。



「二年との喧嘩と奈緒ちゃんは関係あんのかよ!彰!」




「おい、お前何怒ってんだよ。それに誰だよさっきから奈緒ちゃん奈緒ちゃんて」



俊介は壮太の怒りに気付いて口腔に残るチョコをゴクリと飲み込んだ。



奈緒ちゃんと呼ばれた名前は俊介の頭に引っ掛かった。どこかで聞いた名前なような気がした。


彰は苦々しそうに窓の外に視線を移した。


「シュン。何があった?朝南門で何があったんだ。詳しく教えろ。早く!」



「ちっ。命令かよ」



俊介は彰の横顔を見つめた。辛そうな表情は何を意味しているのか。



「彰。話していいのか?」


俊介が尋ねると彰はコクリと小さく頷いてから壮太に視線を戻した。


「シュン。俺が話す。壮太…。奈緒ちゃんは二年の男からイジメを受けているみたいなんだ。朝、南門でそれを目撃した。これは…これはいったい…どういう意味なんだと思う?」


「なんだと…?男から…?男から奈緒ちゃんが?」


口をぽかんと開けて唖然とする壮太。

その隣りにいる俊介は奈緒ちゃんと呼ばれる女がいったい誰なのかを理解した。


「奈緒ちゃんていうのは二年の日々イジメを受ける杉田奈緒子のことか?それはお前らが想像する領域を超えたイジメだ。相当酷い」


俊介がそう呟くと二人は顔を上げて見合わせてから俊介へと移った。


「シュン。ど…どうして?」



「先に俺が質問をする。お前らは杉田奈緒子とどんな関係なんだ?」


そう尋ねてから俊介は教室を見渡すようにして須田樹里を探していた。

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