正義のなかに潜む悪
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「えーとここはね、ちょっと難しいんだよね。でもこれを先に計算しちゃうとー」
樹里は一年A組教室の廊下寄りの席に座り、友人二人が見守るなか数学の教科書隅に何事かをシャープペンで書きはじめていた。
それを見ていた友人二人はうんうんと頷き合って破顔する。
「そっかぁ。そうすれば簡単なんだ。さっすが樹里だね」
友人からの囃し立てはやはり嬉しい。
樹里は頬に小さなえくぼを浮かばせながら眼鏡をかけ直した。
「いえいえ。だからね、ここをこうすれば案外簡単に答えが出ちゃったりするわけ。それは先生もわかってるはずなんだけどなぁ。さっきの授業で言わなかったから、あれ?って思ったんだけど。私はこんな初歩な計算式はかなり前に塾で教えられたけどね」
おっといけない。
樹里はつい自分のおでこを小突きたくなった。
やってしまった。
またしても余計な言葉を語尾に付け足してしまったのだ。
お前は一言多い。
あの不良君によく忠告される言葉だ。
気をつけねば。
「そ、そうね。おそらく先生のことだから次の授業で教えてくれると思うけど、だからここをね」
樹里は淡々と教科書の隅に計算式を書き上げていく。
「わぉ!樹里ってやっぱすごいよ。とくに数学においてはクラスで断トツだもんね」
おいては?
そう言ってから友人の一人はしまったというような顔をして、もう一人の友人は樹里がピクッと頬を引き攣らせるのを見た。
この前の試験での英語ではクラスメートの中島好恵に首位を奪われていたのだ。
友人二人は座る樹里の頭の上で見合ってから苦笑いをした。
ペンを握る樹里の動きが止まっている。
「あ、樹里」
友人が名前を呼ぶが樹里はペンを持ったまま固まっていた。
英語であの子に負けた…。
これは樹里にとって英語という一つだけの教科の敗北ではない。
最近は放課後などに中島好恵と大橋彰が楽しそうに話すのを何度も目撃している。
テニス部で小麦色に日焼けしたいかにも健康的で利発そうな中島好恵はクラスの男子のみならず他のクラスや上級生からも人気がある女だ。(テニス部がランニングするとき陸上部の横を走っていく!)
逆に好恵のほうも樹里を意識しているのがわかる。
椅子を並べて彰と話していると彼女の視線をひしひしと感じるのだ。
そう。
樹里にとって好恵は恋のライバルでもあるのだ。
完膚なきまでやっつけねば彰が好恵に吸い取られてしまう恐れがある。
「ねぇ樹里。ねぇ」
友人は樹里を呼び続けるが樹里は屈辱の渦のなかに入り込んでいた。
大橋彰といえばもう一つ気になることがある。
悲しげな表情の杉田奈緒子が脳裏に浮かぶ。
幼なじみとはいったいどれほどの親密度なのだろう?
「ねぇ。樹里。呼んでるよ」
「え?」
やっとのことで現実に戻ってきた樹里はとぼけた顔をそのままに上へとあげた。
「ほら。あそこ。沢村君が呼んでるよ」
「え?さ、沢村君が?」
友人が指差したほうを見る。言われた通り、窓際の一番後ろの席から沢村俊介がこちらに人差し指を向けてくいくい動かしていた。
樹里が自分を指差し「私?」と呟くと俊介は不愉快そうに顔を背けてからまたこちらを睨みつけて人差し指をくいくいと動かした。
俊介の周りには彰と壮太がいた。日光を浴びて輝いている三人であるのだが、どこか暗い雰囲気を同じように作りあげていた。
樹里は何か言いようのない不安を覚えた。
「なんだろな…、ちょ…ちょっと行ってくるね」
樹里は畳んだ教科書を小脇に抱えた。
「樹里頑張れ。大橋君もいるよ」
席を立った樹里に友人二人ともにこちらを見ながら両手を握り締め力を入れていた。
―余計なお世話よ―。
言いたかったがやめた。
教室の端から端まで歩いていく途中に中央付近の席にいた中島好恵がこちらを見てるのが横目でわかった。
ふふふ。
樹里はほくそ笑みたいのを堪えながら歩く。
好恵ちゃんは大橋君から席が遠いから大変ね。
うらやましい?私が
私は。
隣よ。
好恵ちゃん。安心して。
学級委員長として席替えは断固反対させていただきますから。
大橋君の近くの席になることは絶対にありません。
そして次は絶対に英語で勝つ。
しかし。
樹里は好恵の顔が平和に囲まれた楽園のように見えた。
純真な中学校生活が好恵からは爛々と輝いている。
片やこちらは。
嫌な予感が背筋を走っていく。
沢村君が私にした犬を呼び寄せるような仕種はいったい何を意味するのか。
怖い。
樹里は自分の席の机の角に軽く指先で触れながら立ち止まった。同時に前の席にいた田中がそそくさと立ち上がる。
田中は樹里を一瞥してすぐに逸らした。
きっと俊介に「ちょっとお前席外せ」とか言われたのだろう。自分の絶対的テリトリーである席から強制的な排除。そして明白なまでに怖じ気のままにこの場所から離れていく田中。その背中はより小さく見えた。
「沢村君。いったい何事かしら。さっきの数学の復習とかかな。大橋君は最近頑張ってるしね」
樹里は彰の横顔を見て顔を赤らめながら抱える教科書を机に置いた。
「えーと。さっきの授業のどこがわかんない?」
樹里は、はらりと落ちた髪を耳に掻き上げ眼鏡をかけ直してから机に広げた教科書をめくっていった。
「おそらくわからないのはここよね」
ついさっきまで友人に教えていた箇所を開いた樹里はペンを手にして何かを書き込もうとする。
だがそこに突然何かが侵入してきた。それに驚いた樹里は思わず教科書から手を離した。
堰を切るようにスライドしていくページ。
侵入してきたものは最初樹里の目にはペーパーナイフに見えた。装飾が施された白く幻想的なペーパーナイフに驚き手を離した。
めくられていく教科書はいつしか最後のページで止まっていた。
「違う」
教科書に触れる侵入物。それはシルバーの大きなリングがはめてある白く長い人差し指だった。その指先が教科書を労るようにゆっくりと慎重に閉じていく。
机に手を置いたままバニラの香りを樹里に十分に嗅がせるように近付いた俊介は、髪を掻き上げ覗く耳元に寄せてもう一度「違う」と言った。
「須田に聞きたいことがある。壮太と彰は杉田。あの杉田の友人らしいんだが……なに?お前…知ってたのか?」
俊介は樹里の反応を見てすぐに言葉を切り返した。
「なぁ須田。俺、前に聞いたよな?そうしたら吹奏楽部にイジメとかそういう類いなものは全く無いって言ってたじゃねえか?」
彰の机に座る壮太は、重い口を開かせるようにして声を出してからこちらに身体を向けてきた。
「う…ん」
「なんでだよ。なんで正直に俺達に教えてくれなかったんだよ。なんであん時嘘付いたんだ。お前が正直に言ってくれたら俺はあの時点で」
「ごめん…」
樹里が俯いたらまた髪が、はらりと流れるように落ちていった。
「ごめん…なさい…」
椅子に座る彰は無言のまま腕を組んで一点を見つめ続けていた。
「おい壮太。そんなに怒鳴るな。杉田に関しては俺が須田に言い含めたんだ」
「なに?シュンが?どうしてお前が?」
壮太がイライラとすぐに大きな声で聞き返す。
「うっせえな。俺が言った。関与するなってな。もしどうしても助けたい衝動が抑え切れなくなったらまず俺に言えと忠告した。お前らは須田の性格知ってんだろ。こいつはイジメを見て見ぬふりできるほどに零落してはいない。わかるだろう?。こいつは日々苦しんだ。毎日部活に行けば見たくもないイジメが繰り広げられている。だがな。壮太、お前には須田を攻める権利も資格もない。杉田を取り巻く現状はお前らが少ない脳みそであれこれ思うよりも数段上の残酷さだ。それをこいつの小さな正義と勇気を抱いた手だけで負えるレベルじゃないのはわかるだろうが。杉田はもうそこまで雁字搦めにされちまってんだよ。それを彰は今日の朝二年と喧嘩して痛感したんだろ?」
俊介は話し終えてから彰を見つめたが、彰は視線を合わそうとはせず苦しげな表情のままに一点を見つめていた。
樹里はといえば俯いたまま肩を震わせはじめていた。
「くそ!」
樹里を睨んでいた壮太がいきなり机をドンっと強く叩いた。 教室が一瞬にして無音になった。
「シュンの言いたいことはわかるぜ。だけどな須田。少しはイジメる奴に注意とか出来たはずだ。お前らしくない」
そのまま壮太は樹里に顔を向け続ける。
樹里は俯いたまま肩を震わせ、俊介はしばらく静観するように黙り続けていた。そして再び教室に本来の賑わいが戻ってきたときに樹里の机にひょいと座り、ピンク色のスリッパを足先で揺らしながら口を開いた。
「壮太。もうがたがた言うな。須田を攻めるなよ。もしそれでもまだお前が杉田のことで須田に言い寄るなら俺は容赦しないぜ」
「なんだと?」
壮太と俊介が睨み合う。
そこへ彰が立ち上がって二人の間に入った。
「壮太。シュンと須田が正しいよ。悪いのは―」
「そうだ。お前らだ」
俊介は次は彰を睨んだ。
「お前らの大事な幼なじみなんだろうが。おっせーんだよ。何いまごろ気付いて他人に怒りぶつけてんだ。自分の不甲斐無さを他人に掏り替えて穴埋めするんじゃねえよ。いいか。彰が今日の朝味わったように杉田のイジメには男が絡んでんだ。おそらく二年C組、そこは杉田にとっては地獄だ。相手はしかも二年だ。悪の巣窟だ。しかも佐野がいる。あの佐野勝也だ。お前らだって嫌でも名前くらいは聞いてるはずだ。無理なんだよ。相手が悪すぎるんだ。諦めろ。杉田を引っ越すか何かさせるんだ。いいか。ここまで気付かなかったお前らが」
ばんっ
と、彰の前の席の椅子を蹴り倒した壮太が机から尻を浮かして床に足を付けた。
「やられたままなんてあまりに可哀相じゃねえか!いまから俺は行く!奈緒ちゃんをイジメる奴らすべてぶん殴ってやる」
「お、おい!やめとけ。壮太!佐野に手を出したら殺されるぞ」
俊介が肩を掴み引き止めようとしたが壮太はその手を勢いよく振りほどいた。
「シュンの言う通りだ。俺が悪い。奈緒ちゃんをここまでさせたのは俺の責任だ。でもまだ遅くはないはずだ。いまからやってやる。男も女も関係なく恐怖を植え付けてやる。佐野勝也など怖くねぇ。すぐに上を出してくるなら上等だ!」
俊介は思った。
やっぱこいつも佐野を知ってやがる。と。
だがそれは当たり前の話しでもある。
知らない奴などいない
「止めとけ!」
珍しく俊介が怒鳴っていた。
「おい彰!待て!あの馬鹿!」
壮太の背中を追いかけるように教室を出て行く彰の背中は終始無言のままだった。
「沢村君!これからどうなるの?」
目を赤くした樹里が隣りに来た。俊介は遠ざかっていく壮太と彰を睨みながら、「樹里」
と須田を名前で呼んだ。
「よく聞け。これは緊急事態と言っていい。お前はいまからG組の松田裕吾を呼んできてくれ。わかるだろ?あの裕吾だ」
「え?え?裕吾君?裕吾君てあのリーゼントの?」
「ああ六年のとき同じクラスだったろ?ああ、あと真一も必要だな。D組の衣川真一だ」
「き、衣川君?て…誰だっけ…」
「まず裕吾に会ってそれから一緒に真一んとこに行け。聞かれたら壮太が佐野に喧嘩売りに行ったから止めると言え。わかったな。いいから早く!壮太と彰を止めるんだ」
マシンガンのように次々と出てくる俊介の言葉に樹里は震えながら何度も頷いた。
「わ、わかった!先生には?先生には言ったほうがいい?」
「馬鹿!言うな。俺達は止めに行くだけだ。早く行け!」
樹里は眼鏡のブリッジを抑えながら駆け足で廊下を走っていく。壮太と彰が行く方向とは逆方向を走る。
「やばいよ…私の責任で…やばい。早く裕吾君に…でもなんでよりによってG組なの?遠いわ」
俊介は樹里が走る後ろ姿を見送ってから、再び二年生の教室があるほうへ進む廊下に視線を移した。
遠くに二つの戦士の影が見える。
俊介はそれを真顔の鋭い視線で見ていたが、やがてにやりと不気味な笑みを浮かべた。




