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Reincarnation -Record of memories-  作者: 斗真
第二章 忘却の彼方

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第二十一話 忘却の剣

ベイル王国の古い地下闘技場は、王都の外れにあった。


今では誰も近づかない。


地上から見れば、そこはただの廃墟だった。


崩れた石門。

草に呑まれた階段。

半分埋もれた鉄柵。

かつて観客を迎え入れたであろう広場には、折れた柱が墓標のように並んでいる。


だが、本当の闘技場は地上にはない。


地下にある。


古い時代、強い者を閉じ込め、戦わせ、勝者だけを上へ戻した場所。

国ができるよりも前から存在したと言われる、血と歓声の底。


その入口に、調査隊は立っていた。


シェインから、トーマ、ソル、ロイド。

テリアから、ロイとアリス。

ベイルから、リンとガーネ。


そして、遠隔支援としてテリア女王の魔法通信陣が同行している。


「嫌な場所ですねぇ」


リンが微笑んだ。


いつものように柔らかな声だったが、目は笑っていなかった。


「ベイル王国にも荒っぽい場所は多いですが、ここは別です。強さを讃える場所ではなく、強さを消費する場所でした」


ガーネが低く言う。


「昔、戦士を檻に入れて戦わせた。死んでも記録に残らない者もいた」


「記録に残らない……」


トーマはその言葉に反応した。


腰の忘却の剣が、わずかに揺れる。


ロイドがすぐに見る。


「剣が反応していますか」


「少しだけ」


「無理に触れないでください」


「ああ」


ソルはトーマの横に立つ。


「名前を忘れるな」


トーマは頷いた。


「トーマ。ソル。ロイド。ロイ。アリス。リン。ガーネ」


ひとつずつ口にする。


今ここにいる者たちの名。


ロイが短く頷く。


「いい」


アリスは少しだけ腕を組んだ。


「私の名前も入ってたわね」


「いたからな」


「まあ、いいけど」


リンがくすりと笑う。


「私の名前を呼ぶ時、少し照れてもいいのですよ?」


「しない」


「残念」


その軽いやり取りすら、地下へ続く階段の前では薄く響いた。


まるで、闇が音を吸っているようだった。


ロイドが魔法灯を展開する。


青白い光が階段を照らす。


「行きましょう」


一行は地下へ降りた。


⸻


階段は長かった。


下へ。

下へ。

さらに下へ。


空気は一段ごとに冷たくなっていく。


壁には古い傷が残っていた。


爪痕。

剣痕。

焼け焦げた跡。

そして、何かを削り取ったような不自然な空白。


ロイドが壁を照らす。


「文字があった痕跡ですね」


アリスが顔をしかめる。


「削られてる?」


「いいえ」


ロイドは指で壁の縁をなぞる。


「削られたというより、ここだけ存在が薄い。石ごと記録を失っているように見えます」


ガーネが短く言う。


「記録喰い」


誰も否定しなかった。


トーマは壁の空白を見つめる。


そこには何もない。


なのに、目が吸い寄せられる。


何かがあった。


誰かの名前があった。

誰かの戦いがあった。

誰かの死があった。


だが、もうない。


消された。


忘れられた。


忘却の剣が、腰で小さく鳴った。


ちり、と。


金属音ではない。


もっと内側の音だった。


記憶の骨が軋むような音。


「トーマ」


ソルの声。


トーマは息を吸う。


「大丈夫だ」


「名前」


「トーマ」


自分の名を言う。


戻る。


ここは地下闘技場。

自分は調査隊といる。

一人ではない。


「進むぞ」


ソルが言う。


トーマは頷いた。


さらに下へ。


やがて階段は広い通路へ繋がった。


そこには、巨大な鉄格子が並んでいた。


檻。


かつて戦士たちが入れられていた場所。


いくつもの檻が、暗闇の奥まで続いている。


鉄格子には錆が浮き、床には古い鎖が転がっていた。


リンが低く言う。


「ここは待機区画です。試合前の戦士たちを閉じ込めていた場所」


トーマは檻を見た。


狭い。


人が一人、座れる程度の空間。


壁には無数の引っ掻き傷がある。


中には、文字のようなものも刻まれていた。


だが、その多くは途中で途切れている。


名前を書こうとして、最後まで書けなかったように。


ロイが一つの檻の前で止まる。


「ここ」


ロイドが魔法灯を近づける。


檻の奥、壁の低い位置に、黒い染みがあった。


その中心に、羽根の跡。


すでに羽根そのものは回収された後だが、そこには暗い魔力が残っていた。


ガーネが言う。


「最初の黒い羽根はここで見つかった」


トーマは檻の中を見る。


狭い空間。


壁に残る傷。


床に残る錆。


なぜか、胸が苦しくなった。


知らないはずの場所だ。


来たことなどないはずだ。


だが、足が重い。


ここを知っているような気がする。


いや、ここではない。


似た場所を。


暗い場所。

狭い場所。

誰かの泣き声。

鉄の匂い。

血の匂い。


「……っ」


トーマは額を押さえる。


視界が揺れる。


ソルが肩に手を置く。


「戻れ」


「トーマ」


自分の名前を言う。


まだ戻れる。


「ソル。ロイド。ロイ。アリス。リン。ガーネ」


名前を並べる。


声が少し震えていた。


リンが静かに言う。


「無理はしない方がいいですよ」


「でも、見なきゃいけない」


トーマは顔を上げる。


「ここに、俺の名前があったんだろ」


リンは目を細めた。


「ええ。この奥です」


ガーネが先導する。


一行は檻の通路を抜け、さらに奥へ進んだ。


⸻


闘技場の中心部は、円形だった。


巨大な地下空間。


天井は高く、ところどころ崩れている。


観客席らしき段差が円を描き、その中央に広い砂地がある。


砂は黒ずんでいた。


何百年、何千年経っても消えない血の名残のようだった。


「ここが主闘技場です」


リンの声が、空間に反響する。


「壁画はあちら」


彼女が指差したのは、観客席の最奥。


崩れた壁の裏に隠されていた石壁だった。


そこに、巨大な壁画があった。


拓本で見たものより、はるかに大きい。


黒い剣を持つ人物。


羽根のない黒い天使。


絡みつく黒い糸。


消えていく人々。


そして、欠けた文字。


トーマは壁画を見た瞬間、息が止まった。


拓本では分からなかった圧がある。


壁画の中の黒い剣士は、こちらに背を向けていた。


顔は描かれていない。


けれど、なぜか分かる。


これは自分だ。


理屈ではない。


名前でもない。


骨の奥が知っていた。


「トーマ」


ソルが呼ぶ。


「大丈夫……じゃない」


トーマは正直に言った。


「怖い」


ロイが短く言う。


「いい」


怖いと言える。


それだけで、まだ隙間は小さい。


ロイドが壁画の文字を確認する。


「拓本より詳細が見えます。欠落箇所はやはり多いですが……」


アリスが魔法灯を上げる。


「ここの文字、何か読める?」


ロイドはテリア女王へ通信を繋ぐ。


青白い魔法陣が浮かび、テリア女王の声が響いた。


『映像を送るのじゃ』


ロイドが壁画を映す。


通信陣越しに、テリア女王が息を呑む気配がした。


『これは……想像以上じゃな』


リンが問う。


「読めますか?」


『少し待て』


沈黙。


その間、闘技場の空気が重くなっていく。


トーマは壁画から目を離せなかった。


黒い剣士の前には、何かが描かれている。


大きな円。


その円の中に、無数の線。


世界を表しているのか。

記録を表しているのか。


そして、剣士はその円に剣を突き立てている。


守っているようにも見える。


壊しているようにも見える。


テリア女王の声が戻る。


『読める部分を繋ぐぞ』


全員が耳を傾ける。


『黒き記録を断つ者。世界より名を消されし剣士。彼は……』


そこで一度声が止まる。


『彼は、■■を殺し、世界を救い、最愛を失った』


トーマの心臓が、嫌な音を立てた。


最愛を失った。


「最愛……?」


声が掠れる。


ロイドが険しい顔で問う。


「最初の欠落部分は?」


『読めぬ。記録が喰われておる。じゃが、前後から見るに、殺した対象は極めて重要じゃ』


ソルが低く言う。


「神か」


『その可能性はある。だが、ゼロが倒した神とは別の名かもしれぬ』


トーマの頭が痛み始めた。


最愛を失った。


トーマ、行かないで。


少女の声。


血に濡れた手。


崩れた塔。


黒い空。


「……誰だ」


トーマは呟く。


「俺は、誰を失った」


その時だった。


闘技場の砂が、わずかに沈んだ。


ロイが短剣を抜く。


「来る」


次の瞬間、中央の砂地から黒い影が湧き上がった。


昨夜のものより大きい。


人の形に近いが、顔はない。


ただ、口だけがある。


黒い裂け目。


闘技場全体の空気が冷えた。


壁画の黒い天使が、ゆっくりと滲んで動いたように見えた。


ロイドが叫ぶ。


「防御陣形!」


ソルが前へ出る。


ロイが影の背後へ回り込むように消える。


ガーネが大斧を構え、リンがチャクラムを展開する。


アリスが魔法陣を張る。


トーマは剣に手をかける。


だが、抜かない。


抜いてはいけない。


影の口が開いた。


──戻ってきた。


声が、闘技場の石壁を震わせた。


──名を消した剣士。逃げた器。忘れた罪。


「黙れ」


ソルが踏み込む。


剣が影を斬る。


黒い体が裂ける。


だが、裂けた場所から無数の細い腕が伸びた。


腕は空中の文字へ絡みつく。


壁画に刻まれた古代文字が、一部黒く染まる。


テリア女王の通信が乱れた。


『まずい、壁画の記録を──』


声が途切れる。


ロイドが魔法陣を展開する。


「壁画保護! アリス、補助を!」


「分かってる!」


アリスの魔法が壁画を覆う。


リンのチャクラムが黒い腕を切断し、ガーネの大斧が影の胴を叩き潰す。


ロイが背後から短剣を突き立てる。


影が歪む。


だが消えない。


むしろ、攻撃を受けるたびに闘技場の空気が重くなる。


──記録を返せ。


影の声。


──お前が断った記録を。お前が殺したものを。お前が選んだ忘却を。


トーマの頭が割れそうになる。


「トーマ!」


ソルの声。


戻れ。


名前。


「トーマ……」


自分の名を言う。


だが、声が震える。


「ソル……ロイド……ロイ……」


名前を呼ぶ。


でも、遠い。


みんなの声が遠い。


闘技場の音が消えていく。


代わりに、別の音が聞こえる。


雨。


いや、血が落ちる音。


ぽた。

ぽた。

ぽた。


暗い塔。


崩れた床。


誰かが泣いている。


──行かないで。


少女の声。


誰だ。


顔が見えない。


見えそうで見えない。


トーマは頭を押さえる。


「やめろ……!」


影が笑う。


──見ろ。


闘技場の壁が消える。


いや、トーマの視界だけが別の場所へ引きずり込まれる。


崩れた塔。


黒い空。


地面に倒れている少女。


長い髪。

白い服。

胸元に広がる赤。


自分の手が、血に濡れている。


「違う……」


トーマは呟く。


「これは……」


少女の顔がまだ見えない。


だが、知っている。


知っているはずだ。


知らないままではいられない。


けれど、知ったら壊れる。


剣が震える。


鞘の中で、何かが目を覚ます。


──まだ足りない。


剣の声。


影の声が重なる。


──思い出せ。


トーマは膝をつく。


ソルが叫ぶ。


「トーマ! 名前を呼べ!」


名前。


名前。


自分の名前。


「トー……マ……」


声が途切れる。


自分の名前が、舌の上で崩れていく。


トーマとは誰だ。


空から落ちてきた男。

記憶のない男。

シェインに拾われた男。

忘却の剣を持つ男。


でも、壁画の剣士は誰だ。


最愛を失った男は誰だ。


何かを殺した男は誰だ。


「俺は……」


影が近づく。


ソルが斬る。

ロイが刺す。

リンが腕を切る。

ガーネが叩き潰す。

アリスが壁を張る。

ロイドが記録を守る。


みんなが戦っている。


トーマを守ろうとしている。


だが、トーマの中へ入った影は、誰にも斬れない。


──教えてやろう。


影が囁く。


その声は、耳元にあった。


いや、頭蓋骨の内側から聞こえた。


──お前が殺したもの。


トーマの心が、そこで止まった。


影の口がゆっくり開く。


そして、たった一言。


──ゼロ。


世界が凍った。


「……え?」


トーマは顔を上げた。


何を言われたのか、理解できなかった。


ゼロ。


英雄。

世界を救った男。

今も世界を復興のために駆け回っているはずの男。


その名が、影の口から出た。


お前が殺したもの。


ゼロ。


「嘘だ」


トーマは言った。


誰に向かって言ったのか分からない。


「嘘だ……ゼロは生きてる。世界を救った英雄だ。皆が知ってる。シェインも、テリアも、ベイルも……」


影は笑った。


──記録は、そう語る。


壁画の文字が黒く滲む。


──世界は、そう覚えている。


トーマの視界がまた歪む。


崩れた塔。


血。


白い服の少女。


そして、もう一つの影。


自分の前に立つ男。


背中だけが見える。


強い背中。


誰よりも強く、誰よりも遠い背中。


その男が振り返る。


顔は見えない。


でも分かる。


ゼロ。


トーマの手の中には、黒い剣。


刃が赤く濡れている。


「違う……」


声が出ない。


「違う、違う、違う……!」


影の声が優しくなる。


それが余計に恐ろしかった。


──お前は英雄を殺した。


トーマの心に亀裂が入る。


──だから世界はお前を忘れた。


亀裂が広がる。


──だから剣はお前を隠した。


何かが崩れる音がした。


石ではない。


骨でもない。


心だった。


トーマの中で、辛うじて立っていた何かが、音もなく折れた。


「俺が……」


喉が震える。


「俺が、ゼロを……?」


ソルが叫ぶ。


「聞くな! それは真実とは限らない!」


ロイドも声を張る。


「トーマ! 名前を!」


ロイが影を切り裂きながら言う。


「戻れ!」


アリスが叫ぶ。


「影の言葉を信じるな!」


リンがチャクラムを放つ。


「トーマくん、こちらを見なさい!」


ガーネが影を押さえ込む。


「立て」


声が届く。


届いているはずなのに、届かない。


トーマの中はもう、水の底だった。


みんなの声が遠い。


遠く、遠く。


泡になって消えていく。


トーマ。


その名前すら、薄れていく。


代わりに、剣の声がはっきりする。


──抜け。


低い声。


鞘の奥から。


骨の奥から。


記憶の底から。


──思い出せないなら、私が思い出してやる。


「やめろ……」


トーマは剣の柄を握っていた。


いつの間にか。


指が白くなるほど強く。


ソルが気づく。


「トーマ! 抜くな!」


ロイが走る。


「駄目」


ロイドが叫ぶ。


「全員、トーマを止めてください!」


ガーネが動く。


リンが糸のようにチャクラムを伸ばす。


アリスが拘束魔法を展開する。


ソルが最速で踏み込む。


だが、その瞬間。


トーマの周囲に、黒い波紋が広がった。


全員の足が止まる。


いや、止められた。


空間そのものが、トーマから遠ざけられたように。


トーマは剣を握る。


涙は出なかった。


悲鳴も出なかった。


ただ、目の中から光が抜けていく。


「ゼロを……俺が……」


壊れた声。


影が笑う。


──そうだ。


剣が囁く。


──違う。続きを見ろ。


影と剣。


二つの声が、トーマの中で絡み合う。


どちらが嘘で、どちらが真実か分からない。


分からない。


分からない。


分からない。


なら。






全部消してしまえばいい






その考えが浮かんだ瞬間、トーマの顔から表情が消えた。


ソルの声が裂ける。


「トーマ!」


トーマは鞘を握った。


そして。


忘却の剣を抜いた。


音はなかった。


金属が擦れる音も、刃が空気を切る音も。


ただ、世界から一枚、薄い膜が剥がれるような感覚があった。


黒い刃が現れる。


刃は光を反射しない。


闇でもない。


そこには何もなかった。


見ているだけで、自分が何者か分からなくなるような刃。


闘技場の壁画が震える。


黒い羽根が燃えるように散る。


影が歓喜した。


──抜いた。


剣が、笑った。


トーマの体がびくりと震える。


次の瞬間。


彼の瞳から、完全に色が消えた。


黒でもない。

白でもない。

空白。


ただの空白が、目の中に広がっていた。


「……」


トーマはゆっくり立ち上がる。


誰も動けなかった。


目の前にいるのはトーマのはずだった。


だが、違う。


立ち方が違う。

呼吸が違う。

気配が違う。


人ではなく、剣が人の形をして立っている。


ソルが歯を食いしばる。


「トーマ……?」


トーマだったものは、ソルを見た。


その目に、何もない。


そして口を開いた。


「名は不要」


声はトーマのものだった。


だが、トーマではなかった。


「記録は不要」


忘却の剣が、静かに黒い光を放つ。


「すべて、忘れればよい」


次の瞬間。


闘技場の中央から、黒い衝撃が広がった。


ソルが剣で受ける。

ロイが影へ逃げる。

ガーネが斧を地面に叩きつけ踏みとどまる。

リンがチャクラムで身を守る。

アリスが結界を張る。

ロイドが壁画の保護陣を強化する。


それでも、全員が吹き飛ばされた。


影は笑っていた。


だが、その笑いは長く続かなかった。


忘却の剣を持つトーマが、影へ視線を向ける。


空白の瞳。


「お前も」


声が響く。


「忘れろ」


剣が振られた。


ただ一振り。


影の体が裂ける。


いや、裂けたのではない。


影の一部が、存在ごと抜け落ちた。


影が初めて悲鳴を上げた。


──■■■■■■!


声にならない声。


記録喰いの残滓が、自分の記録を奪われている。


闘技場の空気が狂ったように震える。


ソルは立ち上がろうとする。


「止めろ……!」


だが、体が動かない。


黒い衝撃が全身を縛っている。


ロイが短剣を握り直す。


「まずい」


アリスが青ざめる。


「トーマが……」


リンの笑みは完全に消えていた。


「乗っ取られましたねぇ……」


ガーネが歯を食いしばる。


「止める」


「待て!」


ロイドが叫ぶ。


「……今近づけば、こちらの記録も削られます」


忘却の剣を持つトーマは、影を見下ろしていた。


その姿は静かだった。


恐ろしいほど静かだった。


怒りもない。


悲しみもない。


ただ、消す。


それだけの意思。


影が黒い腕を伸ばす。


しかし、トーマは剣を横に振る。


腕が消える。


影の叫びが闘技場に響く。


トーマの背後で、壁画が黒く光った。


文字が浮かび上がる。


欠けていた部分が、一瞬だけ蘇る。


だが、誰も読む余裕はなかった。


ソルだけが、その一部を見た。


彼は■■を殺し、世界を救い、最愛を失った。


欠けていた最初の文字が、黒い炎の中で一瞬だけ形を取った。


だが、次の瞬間にはまた喰われるように消えた。


ソルは目を見開く。


「今のは……」


言葉にならなかった。


忘却の剣を持つトーマが、ゆっくりこちらを振り返る。


その視線が、ソルに向く。


ソルの背筋に、初めて冷たいものが走った。


トーマ、いや────




──────これは敵だ。




今のトーマは、トーマではない。


だが、倒せばいい相手でもない。


守るべき者が、最悪の刃になった。


「トーマ……戻れ」


ソルの声は掠れていた。


空白の瞳が、彼女を見る。


そして、その口がわずかに動いた。


「トーマは忘れた」


剣が黒く鳴る。


「残ったのは、忘却だけだ」


その言葉と同時に、闘技場全体の魔法灯が消えた。


暗闇。


完全な暗闇。


その中で、忘却の剣だけが、黒く光っていた。

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