第二十一話 忘却の剣
ベイル王国の古い地下闘技場は、王都の外れにあった。
今では誰も近づかない。
地上から見れば、そこはただの廃墟だった。
崩れた石門。
草に呑まれた階段。
半分埋もれた鉄柵。
かつて観客を迎え入れたであろう広場には、折れた柱が墓標のように並んでいる。
だが、本当の闘技場は地上にはない。
地下にある。
古い時代、強い者を閉じ込め、戦わせ、勝者だけを上へ戻した場所。
国ができるよりも前から存在したと言われる、血と歓声の底。
その入口に、調査隊は立っていた。
シェインから、トーマ、ソル、ロイド。
テリアから、ロイとアリス。
ベイルから、リンとガーネ。
そして、遠隔支援としてテリア女王の魔法通信陣が同行している。
「嫌な場所ですねぇ」
リンが微笑んだ。
いつものように柔らかな声だったが、目は笑っていなかった。
「ベイル王国にも荒っぽい場所は多いですが、ここは別です。強さを讃える場所ではなく、強さを消費する場所でした」
ガーネが低く言う。
「昔、戦士を檻に入れて戦わせた。死んでも記録に残らない者もいた」
「記録に残らない……」
トーマはその言葉に反応した。
腰の忘却の剣が、わずかに揺れる。
ロイドがすぐに見る。
「剣が反応していますか」
「少しだけ」
「無理に触れないでください」
「ああ」
ソルはトーマの横に立つ。
「名前を忘れるな」
トーマは頷いた。
「トーマ。ソル。ロイド。ロイ。アリス。リン。ガーネ」
ひとつずつ口にする。
今ここにいる者たちの名。
ロイが短く頷く。
「いい」
アリスは少しだけ腕を組んだ。
「私の名前も入ってたわね」
「いたからな」
「まあ、いいけど」
リンがくすりと笑う。
「私の名前を呼ぶ時、少し照れてもいいのですよ?」
「しない」
「残念」
その軽いやり取りすら、地下へ続く階段の前では薄く響いた。
まるで、闇が音を吸っているようだった。
ロイドが魔法灯を展開する。
青白い光が階段を照らす。
「行きましょう」
一行は地下へ降りた。
⸻
階段は長かった。
下へ。
下へ。
さらに下へ。
空気は一段ごとに冷たくなっていく。
壁には古い傷が残っていた。
爪痕。
剣痕。
焼け焦げた跡。
そして、何かを削り取ったような不自然な空白。
ロイドが壁を照らす。
「文字があった痕跡ですね」
アリスが顔をしかめる。
「削られてる?」
「いいえ」
ロイドは指で壁の縁をなぞる。
「削られたというより、ここだけ存在が薄い。石ごと記録を失っているように見えます」
ガーネが短く言う。
「記録喰い」
誰も否定しなかった。
トーマは壁の空白を見つめる。
そこには何もない。
なのに、目が吸い寄せられる。
何かがあった。
誰かの名前があった。
誰かの戦いがあった。
誰かの死があった。
だが、もうない。
消された。
忘れられた。
忘却の剣が、腰で小さく鳴った。
ちり、と。
金属音ではない。
もっと内側の音だった。
記憶の骨が軋むような音。
「トーマ」
ソルの声。
トーマは息を吸う。
「大丈夫だ」
「名前」
「トーマ」
自分の名を言う。
戻る。
ここは地下闘技場。
自分は調査隊といる。
一人ではない。
「進むぞ」
ソルが言う。
トーマは頷いた。
さらに下へ。
やがて階段は広い通路へ繋がった。
そこには、巨大な鉄格子が並んでいた。
檻。
かつて戦士たちが入れられていた場所。
いくつもの檻が、暗闇の奥まで続いている。
鉄格子には錆が浮き、床には古い鎖が転がっていた。
リンが低く言う。
「ここは待機区画です。試合前の戦士たちを閉じ込めていた場所」
トーマは檻を見た。
狭い。
人が一人、座れる程度の空間。
壁には無数の引っ掻き傷がある。
中には、文字のようなものも刻まれていた。
だが、その多くは途中で途切れている。
名前を書こうとして、最後まで書けなかったように。
ロイが一つの檻の前で止まる。
「ここ」
ロイドが魔法灯を近づける。
檻の奥、壁の低い位置に、黒い染みがあった。
その中心に、羽根の跡。
すでに羽根そのものは回収された後だが、そこには暗い魔力が残っていた。
ガーネが言う。
「最初の黒い羽根はここで見つかった」
トーマは檻の中を見る。
狭い空間。
壁に残る傷。
床に残る錆。
なぜか、胸が苦しくなった。
知らないはずの場所だ。
来たことなどないはずだ。
だが、足が重い。
ここを知っているような気がする。
いや、ここではない。
似た場所を。
暗い場所。
狭い場所。
誰かの泣き声。
鉄の匂い。
血の匂い。
「……っ」
トーマは額を押さえる。
視界が揺れる。
ソルが肩に手を置く。
「戻れ」
「トーマ」
自分の名前を言う。
まだ戻れる。
「ソル。ロイド。ロイ。アリス。リン。ガーネ」
名前を並べる。
声が少し震えていた。
リンが静かに言う。
「無理はしない方がいいですよ」
「でも、見なきゃいけない」
トーマは顔を上げる。
「ここに、俺の名前があったんだろ」
リンは目を細めた。
「ええ。この奥です」
ガーネが先導する。
一行は檻の通路を抜け、さらに奥へ進んだ。
⸻
闘技場の中心部は、円形だった。
巨大な地下空間。
天井は高く、ところどころ崩れている。
観客席らしき段差が円を描き、その中央に広い砂地がある。
砂は黒ずんでいた。
何百年、何千年経っても消えない血の名残のようだった。
「ここが主闘技場です」
リンの声が、空間に反響する。
「壁画はあちら」
彼女が指差したのは、観客席の最奥。
崩れた壁の裏に隠されていた石壁だった。
そこに、巨大な壁画があった。
拓本で見たものより、はるかに大きい。
黒い剣を持つ人物。
羽根のない黒い天使。
絡みつく黒い糸。
消えていく人々。
そして、欠けた文字。
トーマは壁画を見た瞬間、息が止まった。
拓本では分からなかった圧がある。
壁画の中の黒い剣士は、こちらに背を向けていた。
顔は描かれていない。
けれど、なぜか分かる。
これは自分だ。
理屈ではない。
名前でもない。
骨の奥が知っていた。
「トーマ」
ソルが呼ぶ。
「大丈夫……じゃない」
トーマは正直に言った。
「怖い」
ロイが短く言う。
「いい」
怖いと言える。
それだけで、まだ隙間は小さい。
ロイドが壁画の文字を確認する。
「拓本より詳細が見えます。欠落箇所はやはり多いですが……」
アリスが魔法灯を上げる。
「ここの文字、何か読める?」
ロイドはテリア女王へ通信を繋ぐ。
青白い魔法陣が浮かび、テリア女王の声が響いた。
『映像を送るのじゃ』
ロイドが壁画を映す。
通信陣越しに、テリア女王が息を呑む気配がした。
『これは……想像以上じゃな』
リンが問う。
「読めますか?」
『少し待て』
沈黙。
その間、闘技場の空気が重くなっていく。
トーマは壁画から目を離せなかった。
黒い剣士の前には、何かが描かれている。
大きな円。
その円の中に、無数の線。
世界を表しているのか。
記録を表しているのか。
そして、剣士はその円に剣を突き立てている。
守っているようにも見える。
壊しているようにも見える。
テリア女王の声が戻る。
『読める部分を繋ぐぞ』
全員が耳を傾ける。
『黒き記録を断つ者。世界より名を消されし剣士。彼は……』
そこで一度声が止まる。
『彼は、■■を殺し、世界を救い、最愛を失った』
トーマの心臓が、嫌な音を立てた。
最愛を失った。
「最愛……?」
声が掠れる。
ロイドが険しい顔で問う。
「最初の欠落部分は?」
『読めぬ。記録が喰われておる。じゃが、前後から見るに、殺した対象は極めて重要じゃ』
ソルが低く言う。
「神か」
『その可能性はある。だが、ゼロが倒した神とは別の名かもしれぬ』
トーマの頭が痛み始めた。
最愛を失った。
トーマ、行かないで。
少女の声。
血に濡れた手。
崩れた塔。
黒い空。
「……誰だ」
トーマは呟く。
「俺は、誰を失った」
その時だった。
闘技場の砂が、わずかに沈んだ。
ロイが短剣を抜く。
「来る」
次の瞬間、中央の砂地から黒い影が湧き上がった。
昨夜のものより大きい。
人の形に近いが、顔はない。
ただ、口だけがある。
黒い裂け目。
闘技場全体の空気が冷えた。
壁画の黒い天使が、ゆっくりと滲んで動いたように見えた。
ロイドが叫ぶ。
「防御陣形!」
ソルが前へ出る。
ロイが影の背後へ回り込むように消える。
ガーネが大斧を構え、リンがチャクラムを展開する。
アリスが魔法陣を張る。
トーマは剣に手をかける。
だが、抜かない。
抜いてはいけない。
影の口が開いた。
──戻ってきた。
声が、闘技場の石壁を震わせた。
──名を消した剣士。逃げた器。忘れた罪。
「黙れ」
ソルが踏み込む。
剣が影を斬る。
黒い体が裂ける。
だが、裂けた場所から無数の細い腕が伸びた。
腕は空中の文字へ絡みつく。
壁画に刻まれた古代文字が、一部黒く染まる。
テリア女王の通信が乱れた。
『まずい、壁画の記録を──』
声が途切れる。
ロイドが魔法陣を展開する。
「壁画保護! アリス、補助を!」
「分かってる!」
アリスの魔法が壁画を覆う。
リンのチャクラムが黒い腕を切断し、ガーネの大斧が影の胴を叩き潰す。
ロイが背後から短剣を突き立てる。
影が歪む。
だが消えない。
むしろ、攻撃を受けるたびに闘技場の空気が重くなる。
──記録を返せ。
影の声。
──お前が断った記録を。お前が殺したものを。お前が選んだ忘却を。
トーマの頭が割れそうになる。
「トーマ!」
ソルの声。
戻れ。
名前。
「トーマ……」
自分の名を言う。
だが、声が震える。
「ソル……ロイド……ロイ……」
名前を呼ぶ。
でも、遠い。
みんなの声が遠い。
闘技場の音が消えていく。
代わりに、別の音が聞こえる。
雨。
いや、血が落ちる音。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
暗い塔。
崩れた床。
誰かが泣いている。
──行かないで。
少女の声。
誰だ。
顔が見えない。
見えそうで見えない。
トーマは頭を押さえる。
「やめろ……!」
影が笑う。
──見ろ。
闘技場の壁が消える。
いや、トーマの視界だけが別の場所へ引きずり込まれる。
崩れた塔。
黒い空。
地面に倒れている少女。
長い髪。
白い服。
胸元に広がる赤。
自分の手が、血に濡れている。
「違う……」
トーマは呟く。
「これは……」
少女の顔がまだ見えない。
だが、知っている。
知っているはずだ。
知らないままではいられない。
けれど、知ったら壊れる。
剣が震える。
鞘の中で、何かが目を覚ます。
──まだ足りない。
剣の声。
影の声が重なる。
──思い出せ。
トーマは膝をつく。
ソルが叫ぶ。
「トーマ! 名前を呼べ!」
名前。
名前。
自分の名前。
「トー……マ……」
声が途切れる。
自分の名前が、舌の上で崩れていく。
トーマとは誰だ。
空から落ちてきた男。
記憶のない男。
シェインに拾われた男。
忘却の剣を持つ男。
でも、壁画の剣士は誰だ。
最愛を失った男は誰だ。
何かを殺した男は誰だ。
「俺は……」
影が近づく。
ソルが斬る。
ロイが刺す。
リンが腕を切る。
ガーネが叩き潰す。
アリスが壁を張る。
ロイドが記録を守る。
みんなが戦っている。
トーマを守ろうとしている。
だが、トーマの中へ入った影は、誰にも斬れない。
──教えてやろう。
影が囁く。
その声は、耳元にあった。
いや、頭蓋骨の内側から聞こえた。
──お前が殺したもの。
トーマの心が、そこで止まった。
影の口がゆっくり開く。
そして、たった一言。
──ゼロ。
世界が凍った。
「……え?」
トーマは顔を上げた。
何を言われたのか、理解できなかった。
ゼロ。
英雄。
世界を救った男。
今も世界を復興のために駆け回っているはずの男。
その名が、影の口から出た。
お前が殺したもの。
ゼロ。
「嘘だ」
トーマは言った。
誰に向かって言ったのか分からない。
「嘘だ……ゼロは生きてる。世界を救った英雄だ。皆が知ってる。シェインも、テリアも、ベイルも……」
影は笑った。
──記録は、そう語る。
壁画の文字が黒く滲む。
──世界は、そう覚えている。
トーマの視界がまた歪む。
崩れた塔。
血。
白い服の少女。
そして、もう一つの影。
自分の前に立つ男。
背中だけが見える。
強い背中。
誰よりも強く、誰よりも遠い背中。
その男が振り返る。
顔は見えない。
でも分かる。
ゼロ。
トーマの手の中には、黒い剣。
刃が赤く濡れている。
「違う……」
声が出ない。
「違う、違う、違う……!」
影の声が優しくなる。
それが余計に恐ろしかった。
──お前は英雄を殺した。
トーマの心に亀裂が入る。
──だから世界はお前を忘れた。
亀裂が広がる。
──だから剣はお前を隠した。
何かが崩れる音がした。
石ではない。
骨でもない。
心だった。
トーマの中で、辛うじて立っていた何かが、音もなく折れた。
「俺が……」
喉が震える。
「俺が、ゼロを……?」
ソルが叫ぶ。
「聞くな! それは真実とは限らない!」
ロイドも声を張る。
「トーマ! 名前を!」
ロイが影を切り裂きながら言う。
「戻れ!」
アリスが叫ぶ。
「影の言葉を信じるな!」
リンがチャクラムを放つ。
「トーマくん、こちらを見なさい!」
ガーネが影を押さえ込む。
「立て」
声が届く。
届いているはずなのに、届かない。
トーマの中はもう、水の底だった。
みんなの声が遠い。
遠く、遠く。
泡になって消えていく。
トーマ。
その名前すら、薄れていく。
代わりに、剣の声がはっきりする。
──抜け。
低い声。
鞘の奥から。
骨の奥から。
記憶の底から。
──思い出せないなら、私が思い出してやる。
「やめろ……」
トーマは剣の柄を握っていた。
いつの間にか。
指が白くなるほど強く。
ソルが気づく。
「トーマ! 抜くな!」
ロイが走る。
「駄目」
ロイドが叫ぶ。
「全員、トーマを止めてください!」
ガーネが動く。
リンが糸のようにチャクラムを伸ばす。
アリスが拘束魔法を展開する。
ソルが最速で踏み込む。
だが、その瞬間。
トーマの周囲に、黒い波紋が広がった。
全員の足が止まる。
いや、止められた。
空間そのものが、トーマから遠ざけられたように。
トーマは剣を握る。
涙は出なかった。
悲鳴も出なかった。
ただ、目の中から光が抜けていく。
「ゼロを……俺が……」
壊れた声。
影が笑う。
──そうだ。
剣が囁く。
──違う。続きを見ろ。
影と剣。
二つの声が、トーマの中で絡み合う。
どちらが嘘で、どちらが真実か分からない。
分からない。
分からない。
分からない。
なら。
全部消してしまえばいい
その考えが浮かんだ瞬間、トーマの顔から表情が消えた。
ソルの声が裂ける。
「トーマ!」
トーマは鞘を握った。
そして。
忘却の剣を抜いた。
音はなかった。
金属が擦れる音も、刃が空気を切る音も。
ただ、世界から一枚、薄い膜が剥がれるような感覚があった。
黒い刃が現れる。
刃は光を反射しない。
闇でもない。
そこには何もなかった。
見ているだけで、自分が何者か分からなくなるような刃。
闘技場の壁画が震える。
黒い羽根が燃えるように散る。
影が歓喜した。
──抜いた。
剣が、笑った。
トーマの体がびくりと震える。
次の瞬間。
彼の瞳から、完全に色が消えた。
黒でもない。
白でもない。
空白。
ただの空白が、目の中に広がっていた。
「……」
トーマはゆっくり立ち上がる。
誰も動けなかった。
目の前にいるのはトーマのはずだった。
だが、違う。
立ち方が違う。
呼吸が違う。
気配が違う。
人ではなく、剣が人の形をして立っている。
ソルが歯を食いしばる。
「トーマ……?」
トーマだったものは、ソルを見た。
その目に、何もない。
そして口を開いた。
「名は不要」
声はトーマのものだった。
だが、トーマではなかった。
「記録は不要」
忘却の剣が、静かに黒い光を放つ。
「すべて、忘れればよい」
次の瞬間。
闘技場の中央から、黒い衝撃が広がった。
ソルが剣で受ける。
ロイが影へ逃げる。
ガーネが斧を地面に叩きつけ踏みとどまる。
リンがチャクラムで身を守る。
アリスが結界を張る。
ロイドが壁画の保護陣を強化する。
それでも、全員が吹き飛ばされた。
影は笑っていた。
だが、その笑いは長く続かなかった。
忘却の剣を持つトーマが、影へ視線を向ける。
空白の瞳。
「お前も」
声が響く。
「忘れろ」
剣が振られた。
ただ一振り。
影の体が裂ける。
いや、裂けたのではない。
影の一部が、存在ごと抜け落ちた。
影が初めて悲鳴を上げた。
──■■■■■■!
声にならない声。
記録喰いの残滓が、自分の記録を奪われている。
闘技場の空気が狂ったように震える。
ソルは立ち上がろうとする。
「止めろ……!」
だが、体が動かない。
黒い衝撃が全身を縛っている。
ロイが短剣を握り直す。
「まずい」
アリスが青ざめる。
「トーマが……」
リンの笑みは完全に消えていた。
「乗っ取られましたねぇ……」
ガーネが歯を食いしばる。
「止める」
「待て!」
ロイドが叫ぶ。
「……今近づけば、こちらの記録も削られます」
忘却の剣を持つトーマは、影を見下ろしていた。
その姿は静かだった。
恐ろしいほど静かだった。
怒りもない。
悲しみもない。
ただ、消す。
それだけの意思。
影が黒い腕を伸ばす。
しかし、トーマは剣を横に振る。
腕が消える。
影の叫びが闘技場に響く。
トーマの背後で、壁画が黒く光った。
文字が浮かび上がる。
欠けていた部分が、一瞬だけ蘇る。
だが、誰も読む余裕はなかった。
ソルだけが、その一部を見た。
彼は■■を殺し、世界を救い、最愛を失った。
欠けていた最初の文字が、黒い炎の中で一瞬だけ形を取った。
だが、次の瞬間にはまた喰われるように消えた。
ソルは目を見開く。
「今のは……」
言葉にならなかった。
忘却の剣を持つトーマが、ゆっくりこちらを振り返る。
その視線が、ソルに向く。
ソルの背筋に、初めて冷たいものが走った。
トーマ、いや────
──────これは敵だ。
今のトーマは、トーマではない。
だが、倒せばいい相手でもない。
守るべき者が、最悪の刃になった。
「トーマ……戻れ」
ソルの声は掠れていた。
空白の瞳が、彼女を見る。
そして、その口がわずかに動いた。
「トーマは忘れた」
剣が黒く鳴る。
「残ったのは、忘却だけだ」
その言葉と同時に、闘技場全体の魔法灯が消えた。
暗闇。
完全な暗闇。
その中で、忘却の剣だけが、黒く光っていた。




