第十八話 黒い羽根
夜は、静かすぎるほど静かだった。
シェイン王国の城下町には灯りが残り、王城の廊下にも警備兵の足音が規則正しく響いている。
けれど、その静けさの奥に、何かが沈んでいた。
見えない。
聞こえない。
だが、確かにそこにある。
冷えた水の底から、ゆっくりと手が伸びてくるような気配。
ロイは王城の外れ、古い塔の跡地に立っていた。
そこは今では使われていない。
かつて見張り塔として使われていた場所だが、神との戦いの余波で半壊し、その後は封鎖されていた。
石壁は崩れ、床には草が生え、夜露に濡れた瓦礫が月明かりを鈍く反射している。
その中央に、黒い羽根が落ちていた。
鳥の羽根に見える。
だが、ただの羽根ではない。
周囲の光を吸っている。
月明かりに照らされているはずなのに、羽根だけが暗い。
まるで夜よりも深いものを、薄く削り出したようだった。
ロイはそれに触れなかった。
短剣を抜いたまま、じっと観察する。
「神代の残滓……」
そう呟いた直後、背後から声がした。
「ロイ」
ソルだった。
剣を抜いてはいないが、すでに戦える距離に立っている。
その後ろにはロイドもいた。
ロイドは手に小型の測定器を持っている。
「結界に微弱な異常がありました。あなたが追ったと聞いて来ましたが……これは?」
ロイは黒い羽根を指差した。
「触らない方がいい」
ロイドは即座に足を止める。
「危険物ですか」
「たぶん」
「たぶんで止められるなら十分です」
ソルは羽根を見下ろす。
「セイレンのものではないな」
「違う」
ロイは短く答える。
「レッドフラッグスの空間裂傷は赤い。これは黒い」
ロイドは測定器を向ける。
針が震えた。
一瞬だけ、測定器の水晶が黒く染まる。
ロイドはすぐに測定を止めた。
「……魔力の性質が不明です。少なくとも、三国で一般的に使われる魔法体系ではありません」
「神の残り香か」
ソルが低く言う。
ロイは頷いた。
「かもしれない」
「トーマの剣と関係は」
「似てる。でも違う」
ロイドが眉を寄せる。
「似ている?」
ロイは少しだけ言葉を探した。
彼女は普段、必要最低限しか話さない。
だが今回は、短い言葉だけでは足りないと判断したのか、ゆっくり続けた。
「トーマの剣は穴。中に落ちる感じ。これは口」
「口?」
「食べようとしてる」
その言葉に、ソルの目が鋭くなる。
「何を」
ロイは王城の方を見る。
「たぶん、記憶」
沈黙が落ちた。
ロイドは黒い羽根を見つめ、声を低くする。
「忘却の剣に反応して現れた可能性がありますね」
「トーマの記憶が動いたからか」
ソルが言う。
「可能性は高いです。剣の封印が緩んだことで、何かが位置を掴んだのかもしれません」
ロイは小さく頷いた。
「見つけた、って声がした」
ソルの表情が険しくなる。
「誰の声だ」
「知らない。セイレンじゃない。テリアでもない。古い」
ロイドはすぐに決断した。
「この場を封鎖します。ロイ、これ以上の異常は?」
「今はない」
「今は、ですか」
「うん」
ソルは王城を見た。
「トーマに知らせるか」
ロイドは少し迷った。
「今すぐ起こすべきかどうか……」
その時、遠くの王城で小さな魔力反応が走った。
三人が同時に振り向く。
ロイが短く言う。
「剣」
ソルは次の瞬間には走り出していた。
⸻
トーマは眠れていなかった。
ベッドに横になってはいたが、目を閉じるたびにあの声が蘇る。
──トーマ、行かないで!
少女の声。
悲鳴に近い声。
それが耳ではなく、胸の奥に残っている。
机の上には忘却の剣。
鞘に収まったままの剣は、月明かりの中で静かに置かれている。
だが、トーマには分かった。
剣は眠っていない。
何かを警戒している。
まるで、暗闇の中で目を開けている獣のようだった。
「……何なんだ、お前は」
トーマは剣へ問いかける。
当然、返事はない。
そのはずだった。
だが、次の瞬間。
剣の紋様が黒く光った。
部屋の温度が下がる。
窓の外の月明かりが、急に遠くなる。
「っ……!」
トーマは立ち上がる。
剣に手を伸ばしかけ、止まる。
抜くな。
ソルにも、ロイにも、テリア女王にも言われている。
今はまだ抜いてはいけない。
だが、剣は震えている。
今までとは違う。
記憶を見せる震えではない。
警告。
トーマはそう感じた。
部屋の隅に、黒い影が滲んだ。
影は床から湧くように広がり、ゆっくりと人の形を作ろうとする。
顔はない。
目もない。
だが、口だけがあるように見えた。
黒い裂け目。
それが笑うように開いた。
──見つけた。
冷たい声。
トーマの背筋が凍る。
「誰だ」
影は答えない。
代わりに、部屋の空気が重くなる。
頭の奥が引っ張られる。
記憶が。
何かが、記憶の底に手を入れてくる。
「ぐっ……!」
トーマは頭を押さえる。
視界が揺れる。
崩れた塔。
血。
黒い空。
少女の声。
そして、知らない誰かの笑い声。
影が一歩近づく。
──返せ。
「何を……!」
──忘れたものを。隠したものを。世界から奪ったものを。
トーマは息を荒くする。
意味が分からない。
だが、影が自分の記憶を狙っていることだけは分かった。
いや。
記憶だけではない。
存在そのもの。
テリア女王が言っていた。
この剣は、トーマという存在を世界から隠すための鞘かもしれない、と。
なら、この影は。
自分を見つけたのか。
世界から隠されていた自分を。
「来るな……!」
トーマは木剣を探す。
ない。
部屋には訓練用の木剣は置いていない。
あるのは、机の上の忘却の剣だけ。
影がさらに近づく。
頭の奥に痛みが走る。
何かが剥がされる。
記憶の壁を、爪で削られているような感覚。
トーマの手が、剣の柄に触れた。
抜くな。
分かっている。
でも、このままでは。
その時、扉が蹴破られた。
「トーマ!」
ソルが飛び込んでくる。
同時に、青い魔力の刃が部屋の影を斬った。
影が裂ける。
だが、消えない。
黒いものが壁へ這い、再び集まろうとする。
続いてロイが窓から入ってきた。
「やっぱり来た」
「説明は後だ」
ソルが剣を抜く。
ロイも短剣を構える。
影は二人を見る。
口のような裂け目が、さらに広がった。
──守る者がいるのか。
声は笑っていた。
──では、また奪える。
その言葉に、トーマの胸が強く痛んだ。
また?
また奪える?
「お前は……俺を知っているのか」
影は答えない。
代わりに、部屋の床へ黒い羽根が一枚落ちた。
ソルが踏み込む。
「黙れ」
剣が影を斬る。
ロイが反対側から短剣を投げる。
影は裂け、黒い煙になって消えかける。
だが、消える直前。
それはトーマを見た。
目はないはずなのに、確かに見た。
──思い出せ。お前が何を殺したのか。
黒い影は消えた。
部屋に残ったのは、荒い息と、床に落ちた黒い羽根だけだった。
トーマは膝をついた。
剣を握っている。
だが、抜いてはいなかった。
鞘に収まったまま。
ソルがすぐに近づく。
「トーマ、剣は」
「抜いてない」
「よく耐えた」
ソルの声に、ほんの少し安堵が混ざっていた。
ロイは黒い羽根を見下ろす。
「同じ」
「塔跡にあったものと同じか」
ソルが問う。
ロイは頷く。
「うん」
ロイドが遅れて部屋へ入ってきた。
息は少し乱れているが、すぐに状況を見て顔を険しくする。
「侵入ですか」
「影のようなものが出た」
トーマは頭を押さえながら答えた。
「俺の記憶を……いや、何かを奪おうとした」
ロイドは黒い羽根を見て、すぐに結界布を取り出す。
「触れないでください。隔離します」
レナも廊下から飛び込んできた。
「トーマ! 無事か!?」
「ああ」
「本当に!?」
「本当に」
レナはほっとした顔をした後、床の黒い羽根を見て眉を寄せる。
「なんだこれ。嫌な感じがするぞ」
「触るな」
ソルが言う。
「触らない!」
レナは素直に一歩下がった。
トーマはまだ息を整えられずにいた。
頭の中で、影の言葉が回る。
思い出せ。
お前が何を殺したのか。
「俺が……何を殺した?」
ソルが彼を見る。
「今は考えるな」
「でも」
「今考えれば、向こうに引きずられる」
ロイも短く言った。
「危ない」
トーマは歯を食いしばる。
考えるなと言われても、言葉は胸に刺さったままだ。
自分は過去に何かを殺したのか。
人をか。
神をか。
それとも、もっと別の何かをか。
その時、廊下から小さな足音が聞こえた。
ノアだった。
寝間着の上に薄い上着を羽織り、顔を青くしている。
「トーマ……?」
トーマは彼女を見て、少しだけ表情を緩めようとした。
「大丈夫だ」
ノアは部屋の中を見る。
壊れた扉。
剣を構えたソルとロイ。
結界布で包まれた黒い羽根。
膝をつくトーマ。
大丈夫には見えなかった。
ノアはトーマのそばに駆け寄る。
「何があったの?」
トーマは答えに詰まった。
ロイドが代わりに言う。
「詳細は調査中です。ですが、トーマを狙った何らかの魔力侵入がありました」
「トーマを……」
ノアの手が震える。
その震えを見て、トーマはようやく少し冷静になった。
自分が怯えれば、ノアも不安になる。
だが、嘘をつくわけにもいかない。
「俺の記憶に触ろうとした」
トーマは言った。
ノアが息を呑む。
「記憶に?」
「ああ。でも、ソルたちが来てくれた」
ノアはソルを見る。
「ありがとうございます」
ソルは短く頷いた。
「間に合ってよかった」
ロイが窓の外を見る。
「まだ終わりじゃない」
ロイドも同意する。
「はい。これは一度限りとは考えない方がいいでしょう」
レナが拳を握る。
「じゃあ、今夜は私がトーマの部屋の前で番をする!」
ロイドは即答した。
「それは採用します」
レナが驚く。
「採用された!?」
「非常時です。あなたの感覚はこういう時、役に立ちます」
「任せろ!」
ソルも言った。
「私も近くにいる」
ロイが続ける。
「私も」
ソルがロイを見る。
「お前はテリア側だろう」
「関係ない」
「……そうか」
ロイはトーマを見た。
「狙われた。剣だけじゃない。トーマ自身」
「分かってる」
「一人になるな」
その言葉は、剣が見せた記憶の声と重なった。
一人で行くな。
トーマは静かに頷く。
「分かった」
今度は、本当にそう思った。
⸻
黒い羽根は封印室へ運ばれた。
テリア女王も起こされ、すぐに調査に加わった。
彼女は黒い羽根を見るなり、顔色を変えた。
「これは……」
アリスが横から問う。
「知ってるの?」
「文献で見たことがある」
テリア女王は慎重に羽根の周囲へ魔法陣を展開する。
直接触れない。
近づきすぎない。
今日の彼女は、明らかに慎重だった。
「神代の残滓に近い。じゃが、神そのものではない」
ロイドが問う。
「神の眷属、あるいは残された術式でしょうか」
「近いが、少し違う」
テリア女王の眉間に皺が寄る。
「これは“記録喰い”に似ておる」
「記録喰い?」
トーマも封印室にいた。
休むよう言われたが、本人が拒んだ。
ただし、ソル、ロイ、レナがすぐ近くについている。
ノアも来ようとしたが、ロイドが止めた。
今は危険すぎる。
ノアは渋々従ったが、トーマには「何かあったら呼んで」と言い残した。
テリア女王は説明する。
「神代の末期、世界の記録そのものを食う存在についての記述がある。歴史、記憶、存在の痕跡。そうしたものを喰らい、なかったことにする影」
ロイドの顔が険しくなる。
「存在を消す力ですか」
「完全なものではないはずじゃ。もし本物なら、ワシらがこうして認識することも難しい」
「では、残骸?」
「あるいは、断片」
トーマは拳を握る。
「そいつが俺を狙ったのか」
テリア女王は頷く。
「おそらく、忘却の剣の封印が揺れたことで、お主の位置を掴んだ。剣が世界から隠していた存在を、向こうが見つけたのじゃ」
「俺は、そいつから隠されていた?」
「可能性は高い」
封印室に沈黙が落ちる。
忘却の剣は、トーマから記憶を奪っただけではない。
トーマを隠していた。
何かから。
何かに見つからないように。
では、その何かが今現れた。
「影は言った」
トーマは低く言う。
「思い出せ。お前が何を殺したのか、と」
テリア女王の表情が変わる。
「……そう言ったのか」
「ああ」
ソルが問う。
「心当たりはあるか」
テリア女王は考え込む。
「神を殺したのはゼロたちのはずじゃ。少なくとも、世界に語られている歴史ではそうなっておる」
「トーマがそこに関わっていた可能性は?」
ロイドが問う。
「否定できぬ。だが、問題はそこではない」
テリア女王は黒い羽根を見つめる。
「もしトーマが何かを殺し、その記録が世界から消されているなら……それは、ゼロたちの戦いの裏に、まだ語られていない出来事があるということじゃ」
トーマの胸が重くなる。
ゼロ。
世界を救った英雄。
その戦いの裏に、自分がいたのか。
それとも、自分は別の戦いにいたのか。
「ゼロに会えば分かるのか」
トーマの言葉に、その場の全員が黙った。
ゼロは今、世界中を回って復興に力を貸している。
英雄として知られているが、常に同じ場所にいるわけではない。
会おうと思ってすぐ会える人物ではない。
ロイドが慎重に言う。
「ゼロ本人に確認する価値はあります。ただし、所在の確認には時間がかかります」
テリア女王が頷く。
「ワシの方でも探らせよう。ゼロだけでなく、その仲間たちにもな」
ソルはトーマを見た。
「焦るな」
「でも、ゼロなら俺を知っているかもしれない」
「かもしれない。だが、今のお前がその答えに耐えられるかは別だ」
トーマは言葉を詰まらせる。
その通りだった。
たった一つの映像と声だけで、ここまで揺らいでいる。
もしゼロがすべてを知っていたとして。
その真実を今聞いたら、自分はどうなる。
「……分かってる」
トーマはそう答えるしかなかった。
レナが珍しく静かな声で言う。
「でも、分かるまで一緒に探せばいいだろ」
トーマはレナを見る。
レナはまっすぐに言った。
「トーマ一人で行くなって、剣も言ってるんだろ? なら一緒に行けばいい」
単純な言葉。
だが、それが今のトーマには一番届いた。
「そうだな」
トーマは頷いた。
「一人では行かない」
ソルも頷く。
「それでいい」
ロイが黒い羽根を見る。
「でも、向こうは待たない」
「そうじゃな」
テリア女王は魔法陣を閉じた。
「この羽根は厳重に封印する。だが、これで終わりではない。記録喰いの断片が動き出したなら、忘却の剣だけでなく、トーマの周囲の者も危険になる」
トーマの表情が変わる。
「周囲の者?」
「記憶を喰う存在が、本人に届かぬ時、周りから削る可能性がある」
「ノアたちも危ないのか」
「可能性はある」
トーマの手が震える。
その瞬間、ソルが彼の肩に手を置いた。
「だから守りを固める」
ロイドも頷く。
「今夜から警備体制を変更します。ノア、ミア、ユナにも個別護衛をつけます。城内結界も対記憶干渉の要素を追加しましょう」
テリア女王が言う。
「その術式なら、ワシが組める」
アリスが即座に見る。
「女王様」
「分かっておる。これはノアへの干渉ではない。城全体の守りじゃ」
ロイドは少し考え、頷いた。
「お願いします。ただし、術式は私も確認します」
「もちろんじゃ」
レナが拳を握る。
「よし! 今夜からもっと警戒だな!」
ロイが短く言う。
「私も残る」
ソルが眉を動かす。
「テリア女王の護衛は」
「アリスがいる」
アリスが顔をしかめる。
「勝手に決めないでくれる?」
ロイはアリスを見る。
「お願い」
「……そう言われると断りづらいじゃない」
テリア女王は少しだけ笑った。
「ロイがそうしたいなら、残るがよい。ワシも今夜はシェインに留まる」
ロイドは頷く。
「承知しました」
こうして、シェイン王国の夜は一気に慌ただしくなった。
客人として来たテリア女王は、対記憶干渉結界の構築に加わることになった。
ロイは城内の影を見回る。
ソルとレナはトーマの周辺警護。
ロイドは全体指揮。
そしてトーマは、自分の部屋ではなく、結界を張った別室で夜を過ごすことになった。
⸻
その頃。
荒野の赤い旗の下。
セイレンは突然顔を上げた。
ルークが大剣を抱えて、ぼんやり座っている。
「どうした?」
「黒い反応」
セイレンは遠く、シェイン王国の方角を見る。
紅い瞳が細くなる。
「母上でもない。忘却の剣でもない。別のものが動いた」
ルークの目から眠気が消える。
「強い?」
「まだ分からない」
「戦う?」
「今すぐではない」
セイレンは紅い旗を握る。
「でも、まずいわね。あれは私たちの予定より早い」
「予定?」
「トーマを試す前に、別のものが彼を壊そうとしている」
ルークは首を傾げた。
「困る?」
「困るわ」
セイレンははっきり言った。
「トーマは、私たちが壊すか、私たちを越えるかしなければならない。あんな残骸に喰われて終わるのは許さない」
ルークは短く頷く。
「そっか」
セイレンは赤い裂け目を開く。
「行くの?」
「近くまで」
ルークは大剣を持って立ち上がる。
「守る?」
セイレンは一瞬、嫌そうな顔をした。
「違うわ」
「違う?」
「見張るだけ」
ルークは少し考えた。
「守るみたい」
「違う」
「そっか」
ルークはそれ以上言わなかった。
セイレンは紅い旗を掲げ、裂け目の向こうへ歩く。
「記録喰いの残滓……まだ残っていたなんて」
その声には、憎しみとは別の警戒が混ざっていた。
「母上。あなた、どこまで知っていて隠しているの」
紅い裂け目が閉じる。
荒野には、消えかけの焚き火だけが残った。
⸻
シェイン王城。
夜半。
城全体に新たな結界が張られていく。
テリア女王が青白い魔法陣を組み、ロイドがそれを確認し、シェイン側の結界と噛み合わせる。
アリスは魔力の過剰干渉が起こらないよう調整し、ロイは影の中を巡回する。
ソルはトーマのいる結界室の前に立っていた。
レナは廊下の端で目を光らせている。
「眠くないのか?」
トーマが扉越しに聞く。
レナはすぐに答えた。
「眠くない!」
ロイドの声が遠くから飛ぶ。
「少し眠そうでした」
「眠くない!」
ソルが静かに言う。
「眠いなら交代しろ」
「眠くない!」
「同じ返事しかしていない」
トーマは少し笑った。
こんな状況なのに、笑えた。
それがありがたかった。
結界室の中は簡素だった。
ベッドと机。
小さな灯り。
そして、机の上に置かれた忘却の剣。
ただし、今は剣の周囲にも小さな結界が張られている。
完全に封じるものではない。
外からの干渉を防ぐための薄い膜。
テリア女王が言うには、剣そのものを強く封じようとすると、逆に中の記憶が暴れる可能性があるらしい。
トーマは椅子に座り、剣を見ていた。
「俺が何を殺したのか……」
言葉にすると、胸が重くなる。
その時、窓の外に黒い影が降り立った。
トーマは身構える。
だが、すぐに気づいた。
ロイだった。
窓を軽く叩く。
「入る?」
トーマは少し迷う。
「扉から来い」
ロイは数秒黙った。
そして姿を消す。
しばらくして、扉の外からソルの声がした。
「ロイ、窓から入るなと言っただろう」
「言われた」
「だから扉から来たのか」
「うん」
トーマは扉を開ける。
ロイが立っていた。
ソルも横にいる。
「何かあったのか」
トーマが聞くと、ロイは首を振る。
「まだ」
「まだ?」
「来るかもしれない」
「黒い影が?」
「うん」
ロイは部屋の中の剣を見る。
「剣、起きてる」
「分かるのか」
「少し」
ソルが問う。
「何をしに来た」
ロイはトーマを見る。
「忠告、二つ目」
「二つ目?」
「一つ目は、剣を抜くな」
「ああ」
「二つ目」
ロイは短く言った。
「思い出す時、名前を呼べ」
トーマは眉を寄せる。
「名前?」
「自分の名前。仲間の名前。今の名前」
「どういう意味だ」
ロイは少し考える。
「記憶に引っ張られると、今が薄くなる。過去に沈む。だから名前で繋ぐ」
ソルが静かに頷いた。
「理にかなっている」
ロイは続ける。
「トーマ。ノア。ミア。ユナ。レナ。ロイド。ソル」
「お前の名前は?」
トーマが聞く。
ロイは一瞬、少しだけ目を開いた。
「ロイ」
「なら、それも覚えておく」
ロイは何も言わなかった。
だが、ほんのわずかに口元が動いた気がした。
ソルが横目で見る。
「嬉しいのか」
「別に」
「そうか」
トーマは剣を見る。
「過去に沈まないために、今の名前を呼ぶ」
「うん」
ロイは頷いた。
「それと、もう一つ」
「二つ目じゃなかったのか」
「増えた」
「自由だな」
ロイは気にせず言った。
「黒い影は、たぶん隙間から入る」
「隙間?」
「記憶の隙間。心の隙間。結界の隙間」
ソルが言う。
「精神干渉に近いのか」
「近い。でも、もっと古い」
ロイはトーマを見た。
「怖いと思ったら、隠さない方がいい」
「なぜ」
「隠した怖さが、隙間になる」
その言葉に、トーマは黙った。
怖い。
自分は怖い。
過去を知ることも。
自分が何をしたのか知ることも。
誰かを失ったのかもしれないことも。
その怖さをなかったことにすれば、影はそこから入ってくるのかもしれない。
「分かった」
トーマは静かに言った。
「怖い時は、怖いと言う」
ロイは頷いた。
「いい」
その時、廊下の奥からノアの声がした。
「トーマ?」
ソルが振り返る。
「ノア。寝ていろと言われたはずだ」
ノアは少し肩を縮める。
「ごめんなさい。でも、眠れなくて」
後ろにはユナとミアもいた。
ミアは眠そうに目をこすっている。
「ノアが行くって言ったから、私も来た」
ユナが言う。
「止めたけど、止まらなかった。だから一緒に来た」
レナが廊下の端から叫ぶ。
「私が通した!」
ロイドの声が飛ぶ。
「通す前に報告してください!」
「今した!」
「事後報告です!」
この状況でも、やはり少し騒がしい。
トーマは思わず笑った。
ノアが部屋の前に立つ。
「大丈夫?」
「ああ。今は」
「怖い?」
ロイの忠告を思い出す。
怖いなら、隠さない。
トーマは少し息を吸った。
「怖い」
ノアは頷いた。
「私も」
ミアが拳を握る。
「私も怖いぞ! でも、みんなでいればちょっとマシだ!」
ユナも静かに言う。
「一人でいるよりは」
レナが大きく頷く。
「そうだ! 一人でいるな!」
ソルは廊下に集まった面々を見て、わずかに息を吐いた。
「結界室の意味が薄れるな」
ロイドが遅れてやってくる。
「ですが、精神的安定には有効かもしれません。人数を制限したうえで、短時間の同席を許可します」
ミアがぱっと顔を輝かせる。
「泊まっていいのか!?」
「短時間と言いました」
「短い!」
ユナがミアを引っ張る。
「騒ぐなら追い出される」
「静かにする!」
その声がすでに少し大きかった。
ノアはトーマの部屋に入り、椅子に座った。
ミアとユナも近くにいる。
ソルは扉のそば。
ロイは窓際。
レナは廊下。
ロイドは記録を持って立っている。
不思議な光景だった。
厳重警戒の夜。
いつ襲われるか分からない状況。
それなのに、トーマの部屋は少しだけ温かかった。
トーマは思った。
一人で行くな。
その声は、今なら分かる気がする。
一人で抱えた記憶は、きっと人を沈める。
でも、誰かが名前を呼んでくれるなら。
今の自分を繋ぎ止めてくれるなら。
過去に沈まずにいられるかもしれない。
忘却の剣が、机の上で淡く光った。
黒ではない。
白でもない。
どこか夜明け前の空に似た、淡い灰色の光。
ロイが小さく言った。
「落ち着いた」
ソルも頷く。
「今は大丈夫そうだ」
ノアは剣を見て、静かに言う。
「トーマ」
「何だ?」
「もしまた怖い記憶が来たら、名前を呼んで」
「名前?」
「うん。私たちの名前でも、トーマ自身の名前でも」
ロイの言葉と同じだった。
トーマは頷く。
「分かった」
ミアが胸を張る。
「私の名前も呼んでいいぞ!」
「それは助かる」
ユナが言う。
「呼ぶ順番で喧嘩しないように」
「しない!」
レナが廊下から言う。
「私も入れていいぞ!」
ロイドが続く。
「私も必要なら」
ソルは少し黙ってから言った。
「私もだ」
ロイも短く。
「私も」
トーマは全員を見る。
おかしな夜だった。
危険の真ん中で、こんなふうに名前を並べている。
でも、その一つ一つが、確かに自分を今に繋いでいた。
「ありがとう」
トーマは言った。
その声に、忘却の剣の光がほんの少しだけ強くなる。
そしてその夜、黒い影は再び現れなかった。
だが、王城の外。
遠い屋根の上で、セイレンとルークがその光を見ていた。
セイレンは紅い旗を握る。
「……繋がったわね」
ルークが首を傾げる。
「いいこと?」
セイレンは少しだけ目を伏せる。
「トーマにとっては」
「セイレンにとっては?」
セイレンは答えなかった。
紅い旗が夜風に揺れる。
その色は、月明かりの中で深く沈んでいた。
「記録喰いまで動き出した。もう、のんびり試す時間はないかもしれない」
ルークが大剣を担ぐ。
「戦う?」
セイレンの瞳が、王城を見据える。
「近いうちに」
その声には、いつもの冷たさだけではない焦りが混ざっていた。
「トーマが喰われる前に、私たちが彼の強さを確かめる」
ルークは短く頷いた。
「うん」
シェイン王国の夜は、静かに明けようとしていた。
だが、夜明けの先に待つものは、安らぎではない。
忘却の剣。
記録喰いの黒い羽根。
テリア女王の後悔。
セイレンの憎しみ。
ルークの純粋な戦意。
そして、トーマの失われた記憶。
すべてが、少しずつ同じ場所へ引き寄せられていた。




