第十七話 自分で決める力
──そうだ。
その声が、トーマの奥底で静かに響いた。
今まで聞こえてきた声とは違っていた。
思い出すな。
まだ、来るな。
一人で行くな。
それらは警告のようで、拒絶のようで、どこか遠くから響く鐘のようだった。
だが今の声は違う。
肯定。
ノアが自分の意思で前に進んだ瞬間、それを認めるように、忘却の剣が小さく震えた。
トーマは剣に触れた。
「今のは……」
隣のソルがすぐに気づく。
「また声か」
「ああ。でも、今までとは違う」
「何と言った」
「そうだ、と」
ソルはわずかに目を細めた。
ロイドも記録を取る手を止める。
「肯定の言葉……。ノアさんの意思表示に反応した可能性がありますね」
テリア女王もトーマの剣を見ていた。
先ほどまでセイレンの言葉に揺れていた瞳が、研究者のものに戻りかける。
だが、彼女は一度目を閉じた。
そして、自分を抑えるように息を吐いた。
「……今は剣ではなく、ノアじゃ」
アリスが小さく頷く。
「そうよ」
そのやり取りを、トーマは見ていた。
テリア女王は確かに興味を持っている。
忘却の剣にも、ノアの魔力にも。
けれど、今は踏みとどまっている。
セイレンが見ているからではない。
アリスに止められたからだけでもない。
おそらく、自分で止まろうとしている。
そのことが、トーマには少しだけ分かった。
ノアは部屋の中央に立っていた。
赤い亀裂は消えた。
セイレンの声も、ルークの影ももうない。
だが、空気にはまだ鋭い余韻が残っている。
自分の力の名前は、自分で決めます。
そう言った自分の声が、ノア自身の胸の中にも残っていた。
怖い。
でも、不思議と足は震えていなかった。
テリア女王が静かに問う。
「本当に続けるか?」
ノアは頷いた。
「はい」
「なら、次は三つの魔法灯を同時に光らせる」
テリア女王は机の上に三つの水晶灯を並べた。
「ただし、全部を同じ明るさにする必要はない」
ノアは少し首を傾げる。
「同じじゃなくていいんですか?」
「うむ。実戦では、すべてを均等にする必要などない。硬い盾、受け流す盾、足場にする盾。それぞれ役割が違うなら、魔力の流し方も違ってよい」
ノアは昨日の戦いを思い出す。
ミアの背中を押した防御。
ユナの横に置いた防御。
自分の足元に置いた防御。
全部、同じものではなかった。
「大事なのは、何のために光らせるかじゃ」
テリア女王は水晶灯を一つずつ指差した。
「一つ目は、守るため」
次に、二つ目。
「二つ目は、流すため」
最後に、三つ目。
「三つ目は、支えるため」
ノアはゆっくり頷いた。
「守る。流す。支える」
「そうじゃ。まずはその三つを、別々の意味で光らせてみよ」
ミアが小声でユナに聞く。
「意味で光らせるってどういうことだ?」
ユナも少し考えてから答える。
「たぶん、魔力の性質を変えるってこと」
「難しいな!」
「難しい」
レナも外側で腕を組んでいた。
「つまり、気持ちを込めるんだな!」
ロイドが少し考えてから言う。
「大雑把ですが、完全に間違いではありません」
「やった!」
ノアは三つの水晶灯の前に立つ。
手をかざす。
胸の奥にある大きな魔力を、無理に押さえつけない。
まずは感じる。
怖いほど大きい力。
でも、自分の力。
一つ目。
守るため。
ミアが前に出る姿を思い浮かべる。
危なっかしくて、まっすぐで、何度転んでも笑う少女。
彼女の前に置く盾。
一つ目の水晶灯が、強く、安定した白い光を灯した。
テリア女王が静かに頷く。
「よい」
二つ目。
流すため。
ユナを思い浮かべる。
糸を張り、相手の力を受け止め、逸らし、仲間へ繋げる少女。
ぶつかった力を正面から受けず、横へ流す膜。
二つ目の水晶灯が、少し淡く、滑らかな光を灯す。
光の表面が水のように揺れた。
ロイドが目を細める。
「性質変化が出ています」
三つ目。
支えるため。
トーマが見ていた。
ノアは一瞬だけ、彼の顔を見た。
自分の力を怖がっていた時、彼は言った。
怖くても逃げていないから強い、と。
昨日も、今日も、自分の力の名前は自分で決めていいと言ってくれた。
誰かを押し出す足場。
誰かが前へ進むための支え。
三つ目の水晶灯に、柔らかな光が灯る。
強すぎない。
弱すぎない。
けれど、確かにそこにある光。
三つの水晶灯が、それぞれ違う光を放った。
守る光。
流す光。
支える光。
ノアは息を止める。
できた。
三つ同時に、違う意味で。
テリア女王はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「見事じゃ」
ノアの目が大きく開く。
「本当に……?」
「うむ。お主は今、自分の魔力に役割を与えた。これは大きい」
アリスも少し驚いたように水晶灯を見ている。
「想像以上ね」
ロイは短く言った。
「綺麗」
その一言に、ノアは少しだけ顔を赤くした。
ミアは我慢できずに叫んだ。
「すごいぞ、ノア!」
ユナも小さく頷く。
「うん。すごい」
レナも拳を握る。
「やったな!」
ロイドは記録を取りながら言った。
「これは今後の訓練方針を大きく変えられます。ノア、今の感覚を忘れないでください」
ノアは三つの光を見つめながら頷いた。
「はい」
だが、テリア女王はそこで手を上げた。
「今日はここまでじゃ」
ノアは少し驚く。
「え? でも、まだ……」
「続ければ伸びる。じゃが、続けすぎれば壊れる」
その言葉に、部屋が少し静かになった。
テリア女王はノアをまっすぐに見た。
「力を扱う訓練で最も危険なのは、できた直後じゃ。もっとできる、まだできる、そう思った時に無理をする」
ノアは黙る。
テリア女王の声は、優しかった。
「今日は成功で終わらせよ。成功した感覚を、壊さず持ち帰るのじゃ」
アリスはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
トーマも気づいた。
きっとこれは、テリア女王自身が昔できなかったことなのだ。
伸びるから続ける。
できるから試す。
可能性があるから限界まで使う。
その先に、セイレンがいたのかもしれない。
ノアはゆっくり頷いた。
「分かりました」
テリア女王は水晶灯の光を消した。
「よい子じゃ」
その言い方に、ノアは少し照れたように俯く。
そして、少し迷ってから言った。
「あの……ありがとうございました」
テリア女王の表情が止まった。
ほんの一瞬。
その言葉が、彼女の胸の奥深くに触れたようだった。
「……礼を言われるほどのことはしておらぬ」
「でも、少し分かった気がします。自分の魔力の使い方」
「そうか」
テリア女王は小さく頷いた。
「なら、よかった」
その声は、女王というより、ただの一人の大人の声だった。
⸻
測定室を出ると、廊下の空気は少し冷たかった。
ノアはミアとユナに挟まれて歩いている。
ミアは興奮が収まらない様子だった。
「三つ光ったな! しかも全部違う感じだった!」
「うん」
「次は四つか!?」
ユナが即座に言う。
「今日は終わり」
「でも見たい!」
「壊れる」
「それはダメだ!」
ミアは素直に引いた。
ノアは笑う。
「私も、今日はもう休む」
「それがいい」
ユナが頷く。
その少し後ろを、トーマとテリア女王が歩いていた。
ソルとロイド、アリス、ロイも近くにいる。
レナは廊下の先で警備しながら、ちらちらこちらを見ていた。
トーマはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「さっきは、止まったんだな」
テリア女王は横目で見る。
「何の話じゃ」
「ノアの魔力を見て、前のめりになりかけた時」
アリスが少しだけ反応する。
テリア女王は小さく息を吐いた。
「止められた、が正しい」
「それでも止まった」
「……そうじゃな」
テリア女王は歩きながら、窓の外を見る。
「ワシは研究者じゃ。未知の力を見ると、知りたくなる。構造を見たくなる。限界を試したくなる」
その声には、隠しようのない本音があった。
「セイレンの時も、そうじゃった」
トーマは黙って聞く。
「最初は、あの子を守るためじゃった。あの子の魔力は不安定で、放置すれば危険だった。だから調べた。制御する方法を探した」
テリア女王の手が、わずかに握られる。
「だが、いつからか目的が混ざった。守るための研究か、研究のためにあの子を見ているのか。ワシ自身、分からなくなっておった」
アリスは何も言わない。
ロイも黙っている。
「気づいた時には、あの子はもうワシを見ておらなんだ」
テリア女王は自嘲気味に笑った。
「いや、違うな。あの子はずっと見ておった。ワシが見ていなかっただけじゃ」
トーマは胸の奥が重くなるのを感じた。
セイレンの言葉。
私が話したかった時、あなたは研究記録を見ていた。
私が泣いていた時、あなたは結界式を見ていた。
それは、ただの憎しみではない。
見てほしかった子どもの叫びだった。
「ノアには、同じことをしたくない」
テリア女王は言った。
「そう思っておる。じゃが、思うだけでは足りぬ。だから、アリスにもロイにも止めてもらう。お主らにも見ていてもらう」
トーマは少し驚いた。
「俺にも?」
「お主は顔に出るからの」
「またそれか」
「便利じゃぞ。警戒心が顔に出る者は、時に鏡になる」
トーマは少しだけ苦笑した。
「褒められてる気がしない」
「半分は褒めておる」
「半分か」
「十分じゃろ」
ソルが静かに言った。
「今日は悪くなかった」
テリア女王はソルを見る。
「お主にそう言われるとはの」
「ノアを研究対象として扱わなかった」
「危うかったがな」
アリスが横から言う。
「危うかったわ」
テリア女王は苦笑する。
「分かっておる」
ロイが短く言った。
「でも、止まった」
テリア女王はロイを見る。
ロイの表情はいつも通り読めない。
だが、その短い言葉は、否定ではなかった。
テリア女王は小さく頷いた。
「うむ」
その時、廊下の窓の外で、何かが赤く揺れた。
トーマが立ち止まる。
ソルも即座に気づく。
レナが遠くから走ってくる。
「何か見えたか!?」
窓の外。
王城の外壁の向こう。
遠くの屋根の上に、赤い布が一瞬だけ見えた。
紅い旗。
だが、すぐに消えた。
テリア女王は窓へ近づき、外を見つめる。
「セイレン……」
その声は、小さかった。
トーマは問う。
「追うのか?」
テリア女王はしばらく黙っていた。
それから、首を振った。
「追わぬ」
アリスが少し驚いた顔をする。
「いいの?」
「今追っても、あの子は逃げる。あるいは戦う。それでは何も変わらぬ」
テリア女王は窓の外を見たまま言う。
「今日、あの子は見に来たのじゃ。ワシがどうするかを」
「試されたのか」
トーマが言う。
「そうじゃろうな」
「結果は?」
テリア女王は少しだけ笑った。
「不合格ではない、と信じたいのう」
その声は、少しだけ弱かった。
⸻
王城の屋根の上。
セイレンは紅い旗を肩に担ぎ、遠くから測定室のある塔を見ていた。
隣にはルークがしゃがんでいる。
「終わった?」
「ええ」
「戦わなかった」
「そうね」
ルークは首を傾げる。
「よかった?」
セイレンはすぐには答えなかった。
風が吹く。
紅い旗が揺れる。
「母上は、止まった」
「うん」
「昔は止まらなかった」
「うん」
「でも、それだけよ」
セイレンの声が少し冷える。
「一度止まったからといって、何もかも許されるわけじゃない」
ルークは短く頷く。
「うん」
「ノアは強くなるわ」
「うん」
「トーマも」
「うん」
セイレンは遠くの窓を見た。
そこには、テリア女王の姿が小さく見える。
母と娘。
遠すぎる距離。
近づけば刺さる。
離れれば冷える。
セイレンは自分の胸に生まれた小さな揺れを、すぐに押し潰した。
「行くわ」
ルークが立ち上がる。
「どこ?」
「次の準備」
「戦う?」
セイレンは紅い旗を握った。
「まだ。でも、近いうちに」
ルークの目が静かに変わる。
普段のぼんやりした色が消え、底知れない戦闘者の光が宿る。
「誰と?」
「まずは、トーマを試す」
「殺す?」
セイレンは少しだけ黙った。
「殺す気で行く。でも、死ぬかどうかは彼次第」
ルークは短く答えた。
「うん」
その一言で、屋根の上の空気が重くなる。
セイレンは遠くの城を見る。
「大会ごっこで得た繋がりが、本物の死線でどこまで残るか」
紅い旗が風に鳴った。
「見せてもらうわ」
赤い裂け目が開く。
二人の姿は、その中へ消えた。
⸻
その日の午後。
テリア女王は忘却の剣の調査に入った。
場所はシェイン王城の地下にある封印室。
厚い石壁。
二重の結界。
魔力遮断のための黒水晶。
中央の台に、トーマの剣が置かれる。
ただし、トーマ自身もすぐそばに立っていた。
剣を手放すことにはまだ抵抗がある。
だが、完全に離れるわけではない。
手を伸ばせば届く距離。
それが条件だった。
テリア女王は台の前に立つ。
「抜かぬ。触れぬ。外側だけを見る」
トーマは頷く。
「頼む」
「うむ」
テリア女王は魔法陣を展開した。
青白い光が、剣の周囲をゆっくり巡る。
忘却の剣は沈黙している。
いや、沈黙しているように見える。
だが、トーマには分かった。
剣は眠っているのではない。
見ている。
こちらを。
テリア女王を。
「妙じゃな」
テリア女王が呟く。
「何が」
「この剣、封じているというより……隠しておる」
ロイドが記録しながら問う。
「記憶をですか?」
「それだけではない」
テリア女王の表情が険しくなる。
「存在そのものを、じゃ」
トーマの胸が鳴る。
「存在?」
「トーマ。お主はこの世界の記録から抜け落ちている可能性がある」
「どういう意味だ」
「普通、人が生きていれば、どこかに痕跡が残る。魔力の残響、血筋の記録、土地との繋がり。じゃが、この剣の周囲には、それらを断ち切るような術式がある」
テリア女王は剣を見つめる。
「まるで、お主という存在を世界から隠すための鞘じゃ」
封印室の空気が重くなる。
トーマは剣を見る。
自分の記憶がないだけではない。
世界が自分を忘れたがっている。
セイレンの言葉が蘇る。
「それは、誰がやったんだ」
トーマの声は低かった。
テリア女王は首を振る。
「分からぬ。じゃが、この術式は古い。神代に近い形式を含んでおる」
「神……」
ゼロが倒した、世界を崩壊させた存在。
その言葉が、この場にまた影を落とす。
ソルの表情が険しくなる。
「ゼロたちの戦いと関係があるのか」
「可能性は高い」
テリア女王は魔法陣をさらに細かく展開する。
その瞬間。
剣の紋様が光った。
黒い光。
光なのに、周囲を暗くするような色。
トーマの頭に痛みが走る。
「っ……!」
視界が揺れた。
崩れた塔。
血。
倒れている誰か。
そして、今度ははっきりと聞こえた。
──トーマ、行かないで!
声の主は、少女だった。
顔はまだ見えない。
だが、その声に胸が裂けそうになる。
トーマは膝をつく。
ソルが支える。
「トーマ!」
ロイドが叫ぶ。
「調査中断!」
テリア女王は即座に魔法陣を消した。
黒い光も消える。
封印室に静寂が戻る。
トーマは荒い息を吐いていた。
「今の……」
ソルが問う。
「何を見た」
トーマは震える手で剣を見る。
「誰かが……俺を止めてた」
「誰か?」
「女の子の声だった」
トーマは胸を押さえる。
痛い。
記憶ではない。
傷が戻ってきたような痛み。
「俺は……どこかへ行こうとしていた」
テリア女王は沈黙していた。
その顔は、ひどく険しい。
「トーマ」
「何だ」
「この剣は、お主を守っておるのかもしれぬ」
トーマは顔を上げる。
「守っている?」
「記憶を奪っているのではなく、お主が耐えられぬものを一時的に遠ざけている可能性がある」
ロイドが言う。
「では、剣を無理に解析するのは危険ですね」
「危険じゃ」
テリア女王ははっきり言った。
「今日の調査はここまでにする」
トーマは剣を見つめた。
自分を隠す鞘。
存在を世界から断ち切る術式。
神代に近い形式。
そして、少女の声。
行かないで。
トーマはゆっくり剣を手に取った。
手に馴染む。
恐ろしくなるほどに。
「俺は、誰を置いていったんだ……?」
誰も答えられなかった。
封印室の黒水晶だけが、静かに光を吸っていた。
⸻
その夜。
テリア女王たちはシェイン王城に一泊することになった。
表向きは、長距離移動による疲労と、調査結果の整理のため。
だが、実際は違う。
セイレンが接触したこと。
忘却の剣が強く反応したこと。
そして、トーマの記憶がまた一つ動いたこと。
その全てが、すぐに帰れる状況ではないと告げていた。
トーマは自室に戻り、剣を机に置いた。
今日は触れるのが少し怖かった。
この剣は、自分を守っているのかもしれない。
だが、守るとは何だ。
記憶を隠すことが、本当に守ることなのか。
それとも、真実から逃がしているだけなのか。
「行かないで……」
トーマは小さく呟く。
あの声は誰だったのか。
なぜ、自分を止めたのか。
自分は、どこへ行こうとしていたのか。
その時、扉が叩かれた。
「トーマ」
ノアの声だった。
トーマは顔を上げる。
「入っていいぞ」
扉が開き、ノアが入ってくる。
手には小さなランプを持っていた。
「眠れないのか?」
トーマが聞くと、ノアは少し困ったように笑った。
「うん。色々ありすぎて」
「そうだな」
ノアは机の上の剣を見る。
「剣、大丈夫?」
「分からない」
トーマは正直に答えた。
「でも、少し思い出した。いや、見えただけかもしれない」
「怖かった?」
「ああ」
ノアは少しだけ近づいた。
「私も今日、怖かった」
「テリア女王が?」
「うん。でも、途中から少し違った」
ノアはランプを机に置く。
「怖いけど、ちゃんと私を見てくれてる気がした。魔力じゃなくて、私を」
トーマは静かに聞いていた。
「それでも、セイレンさんの言葉も分かる気がする。許せない気持ちも、怖い気持ちも」
「どっちも本物なんだろうな」
「うん」
ノアは剣を見つめる。
「トーマの記憶も、きっと怖いだけじゃないと思う」
「そうか?」
「うん。だって、誰かがトーマに『行かないで』って言ったんでしょ?」
トーマは息を止める。
ノアは続ける。
「それは、トーマを大事に思っていた人がいたってことだと思う」
その言葉は、静かに胸へ入ってきた。
行かないで。
それは確かに、拒絶ではなかった。
引き止める声。
失いたくないという声。
「俺を、大事に思っていた人……」
トーマは机の上の剣を見る。
自分には何もないと思っていた。
名前しかないと思っていた。
けれど、過去には誰かがいたのかもしれない。
自分を呼び、自分を止め、自分に行かないでと言った誰かが。
「思い出すのは怖い」
ノアは言った。
「でも、その中には、トーマを待ってるものもあるかもしれない」
トーマはノアを見る。
「ノアは、強くなったな」
ノアは目を丸くする。
「え?」
「今日、そう思った」
ノアは顔を赤くして俯く。
「まだだよ」
「まだでも、前より強い」
ノアは少し笑った。
「じゃあ、トーマも少し強くなってる」
「俺も?」
「うん。前より、一人で抱えようとしてない」
そう言われて、トーマは少しだけ驚いた。
自覚はなかった。
でも、確かにそうかもしれない。
ソルに話し、ロイドに相談し、ノアと考え、レナに助けられた。
一人で行くな。
その声に、少しずつ従えているのかもしれない。
「ありがとう、ノア」
「うん」
ノアは小さく頷いた。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
だが、その夜のどこかで、紅い旗が揺れていることを、二人は知っていた。
そして、忘却の剣の奥で眠る記憶が、また少しだけ目を覚まし始めていることも。
⸻
王城の客室。
テリア女王は一人、窓辺に立っていた。
月明かりが、彼女の青白い髪を照らしている。
机の上には、忘却の剣の簡易記録。
だが、彼女はそれを見ていなかった。
思い出していたのは、セイレンの声。
私が話したかった時、あなたは研究記録を見ていた。
「……セイレン」
小さく呟く。
その声は、夜に溶ける。
扉の外からアリスの声がした。
「入るわよ」
返事を待たずにアリスが入ってくる。
「寝てないと思った」
「眠れぬ」
「でしょうね」
アリスは机の資料を見る。
「また記録を見てるの?」
「見ておらぬ」
「珍しい」
テリア女王は苦笑する。
「今日は、見るのが怖い」
アリスは少し驚いたように目を細めた。
「あなたが?」
「うむ」
テリア女王は窓の外を見る。
「ワシはずっと、見ることが正しいと思っておった。知ること、調べること、解き明かすこと。それが守ることに繋がると信じておった」
「間違いではないわ」
「そうじゃな。間違いではない」
テリア女王の声は静かだった。
「じゃが、それだけでは足りぬ。見るべきものを間違えれば、知識は刃になる」
アリスは黙っていた。
「ノアは、ワシを見て礼を言った。怖かっただろうに」
「そうね」
「セイレンは、ワシを見て憎しみを向けた。怖かっただろうに」
テリア女王は目を伏せる。
「どちらも、ワシが向き合うべきものじゃ」
アリスはゆっくり息を吐いた。
「明日、シェインを出る前にノアにもう一度話したら?」
「何を」
「今日の続きを。研究の話じゃなくて、大人として」
テリア女王は少し黙った。
「……できるかのう」
「やりなさい」
アリスの声は厳しかった。
「あなたは女王でしょ。研究者でしょ。母親でもあるんでしょ。だったら逃げないで」
テリア女王はアリスを見る。
そして、ほんの少し笑った。
「お主は容赦がないのう」
「誰かさんが容赦なく育てたからね」
「それはワシの功績か?」
「半分くらいは」
「半分か」
二人の間に、少しだけ柔らかい空気が流れた。
だが、その外。
王城の屋根の上に、黒い影が立っていた。
ロイだった。
彼女は遠くの夜空を見つめている。
その視線の先。
ほんの一瞬だけ、赤い裂け目が光った。
セイレンではない。
もっと小さな、歪な裂け目。
ロイの目が鋭くなる。
「別の反応」
彼女はすぐに屋根を蹴った。
音もなく夜を駆ける。
王城の外れ。
古い塔の跡地。
そこに、黒い魔力の染みが生まれていた。
忘却の剣の反応に似ている。
だが、違う。
もっと濁っている。
もっと空腹のような気配。
ロイは短剣を抜く。
黒い染みの中心から、小さな声が漏れた。
──見つけた。
それはセイレンの声ではなかった。
トーマが聞いた声でもない。
もっと古く、もっと冷たい声。
ロイは眉を寄せる。
「……神代の残滓?」
黒い染みはすぐに消えた。
だが、そこには一つだけ残されていた。
古びた黒い羽根。
ロイはそれを拾わず、ただ見つめる。
「面倒」
彼女は短く呟いた。
その頃、トーマの部屋では、忘却の剣が誰にも触れられていないのに、静かに震えていた。




