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Reincarnation -Record of memories-  作者: 斗真
第二章 忘却の彼方

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第十七話 自分で決める力

──そうだ。


その声が、トーマの奥底で静かに響いた。


今まで聞こえてきた声とは違っていた。


思い出すな。

まだ、来るな。

一人で行くな。


それらは警告のようで、拒絶のようで、どこか遠くから響く鐘のようだった。


だが今の声は違う。


肯定。


ノアが自分の意思で前に進んだ瞬間、それを認めるように、忘却の剣が小さく震えた。


トーマは剣に触れた。


「今のは……」


隣のソルがすぐに気づく。


「また声か」


「ああ。でも、今までとは違う」


「何と言った」


「そうだ、と」


ソルはわずかに目を細めた。


ロイドも記録を取る手を止める。


「肯定の言葉……。ノアさんの意思表示に反応した可能性がありますね」


テリア女王もトーマの剣を見ていた。


先ほどまでセイレンの言葉に揺れていた瞳が、研究者のものに戻りかける。


だが、彼女は一度目を閉じた。


そして、自分を抑えるように息を吐いた。


「……今は剣ではなく、ノアじゃ」


アリスが小さく頷く。


「そうよ」


そのやり取りを、トーマは見ていた。


テリア女王は確かに興味を持っている。


忘却の剣にも、ノアの魔力にも。


けれど、今は踏みとどまっている。


セイレンが見ているからではない。

アリスに止められたからだけでもない。


おそらく、自分で止まろうとしている。


そのことが、トーマには少しだけ分かった。


ノアは部屋の中央に立っていた。


赤い亀裂は消えた。

セイレンの声も、ルークの影ももうない。


だが、空気にはまだ鋭い余韻が残っている。


自分の力の名前は、自分で決めます。


そう言った自分の声が、ノア自身の胸の中にも残っていた。


怖い。


でも、不思議と足は震えていなかった。


テリア女王が静かに問う。


「本当に続けるか?」


ノアは頷いた。


「はい」


「なら、次は三つの魔法灯を同時に光らせる」


テリア女王は机の上に三つの水晶灯を並べた。


「ただし、全部を同じ明るさにする必要はない」


ノアは少し首を傾げる。


「同じじゃなくていいんですか?」


「うむ。実戦では、すべてを均等にする必要などない。硬い盾、受け流す盾、足場にする盾。それぞれ役割が違うなら、魔力の流し方も違ってよい」


ノアは昨日の戦いを思い出す。


ミアの背中を押した防御。

ユナの横に置いた防御。

自分の足元に置いた防御。


全部、同じものではなかった。


「大事なのは、何のために光らせるかじゃ」


テリア女王は水晶灯を一つずつ指差した。


「一つ目は、守るため」


次に、二つ目。


「二つ目は、流すため」


最後に、三つ目。


「三つ目は、支えるため」


ノアはゆっくり頷いた。


「守る。流す。支える」


「そうじゃ。まずはその三つを、別々の意味で光らせてみよ」


ミアが小声でユナに聞く。


「意味で光らせるってどういうことだ?」


ユナも少し考えてから答える。


「たぶん、魔力の性質を変えるってこと」


「難しいな!」


「難しい」


レナも外側で腕を組んでいた。


「つまり、気持ちを込めるんだな!」


ロイドが少し考えてから言う。


「大雑把ですが、完全に間違いではありません」


「やった!」


ノアは三つの水晶灯の前に立つ。


手をかざす。


胸の奥にある大きな魔力を、無理に押さえつけない。


まずは感じる。


怖いほど大きい力。


でも、自分の力。


一つ目。


守るため。


ミアが前に出る姿を思い浮かべる。


危なっかしくて、まっすぐで、何度転んでも笑う少女。


彼女の前に置く盾。


一つ目の水晶灯が、強く、安定した白い光を灯した。


テリア女王が静かに頷く。


「よい」


二つ目。


流すため。


ユナを思い浮かべる。


糸を張り、相手の力を受け止め、逸らし、仲間へ繋げる少女。


ぶつかった力を正面から受けず、横へ流す膜。


二つ目の水晶灯が、少し淡く、滑らかな光を灯す。


光の表面が水のように揺れた。


ロイドが目を細める。


「性質変化が出ています」


三つ目。


支えるため。


トーマが見ていた。


ノアは一瞬だけ、彼の顔を見た。


自分の力を怖がっていた時、彼は言った。


怖くても逃げていないから強い、と。


昨日も、今日も、自分の力の名前は自分で決めていいと言ってくれた。


誰かを押し出す足場。


誰かが前へ進むための支え。


三つ目の水晶灯に、柔らかな光が灯る。


強すぎない。

弱すぎない。

けれど、確かにそこにある光。


三つの水晶灯が、それぞれ違う光を放った。


守る光。

流す光。

支える光。


ノアは息を止める。


できた。


三つ同時に、違う意味で。


テリア女王はしばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「見事じゃ」


ノアの目が大きく開く。


「本当に……?」


「うむ。お主は今、自分の魔力に役割を与えた。これは大きい」


アリスも少し驚いたように水晶灯を見ている。


「想像以上ね」


ロイは短く言った。


「綺麗」


その一言に、ノアは少しだけ顔を赤くした。


ミアは我慢できずに叫んだ。


「すごいぞ、ノア!」


ユナも小さく頷く。


「うん。すごい」


レナも拳を握る。


「やったな!」


ロイドは記録を取りながら言った。


「これは今後の訓練方針を大きく変えられます。ノア、今の感覚を忘れないでください」


ノアは三つの光を見つめながら頷いた。


「はい」


だが、テリア女王はそこで手を上げた。


「今日はここまでじゃ」


ノアは少し驚く。


「え? でも、まだ……」


「続ければ伸びる。じゃが、続けすぎれば壊れる」


その言葉に、部屋が少し静かになった。


テリア女王はノアをまっすぐに見た。


「力を扱う訓練で最も危険なのは、できた直後じゃ。もっとできる、まだできる、そう思った時に無理をする」


ノアは黙る。


テリア女王の声は、優しかった。


「今日は成功で終わらせよ。成功した感覚を、壊さず持ち帰るのじゃ」


アリスはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。


トーマも気づいた。


きっとこれは、テリア女王自身が昔できなかったことなのだ。


伸びるから続ける。

できるから試す。

可能性があるから限界まで使う。


その先に、セイレンがいたのかもしれない。


ノアはゆっくり頷いた。


「分かりました」


テリア女王は水晶灯の光を消した。


「よい子じゃ」


その言い方に、ノアは少し照れたように俯く。


そして、少し迷ってから言った。


「あの……ありがとうございました」


テリア女王の表情が止まった。


ほんの一瞬。


その言葉が、彼女の胸の奥深くに触れたようだった。


「……礼を言われるほどのことはしておらぬ」


「でも、少し分かった気がします。自分の魔力の使い方」


「そうか」


テリア女王は小さく頷いた。


「なら、よかった」


その声は、女王というより、ただの一人の大人の声だった。


⸻


測定室を出ると、廊下の空気は少し冷たかった。


ノアはミアとユナに挟まれて歩いている。


ミアは興奮が収まらない様子だった。


「三つ光ったな! しかも全部違う感じだった!」


「うん」


「次は四つか!?」


ユナが即座に言う。


「今日は終わり」


「でも見たい!」


「壊れる」


「それはダメだ!」


ミアは素直に引いた。


ノアは笑う。


「私も、今日はもう休む」


「それがいい」


ユナが頷く。


その少し後ろを、トーマとテリア女王が歩いていた。


ソルとロイド、アリス、ロイも近くにいる。


レナは廊下の先で警備しながら、ちらちらこちらを見ていた。


トーマはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「さっきは、止まったんだな」


テリア女王は横目で見る。


「何の話じゃ」


「ノアの魔力を見て、前のめりになりかけた時」


アリスが少しだけ反応する。


テリア女王は小さく息を吐いた。


「止められた、が正しい」


「それでも止まった」


「……そうじゃな」


テリア女王は歩きながら、窓の外を見る。


「ワシは研究者じゃ。未知の力を見ると、知りたくなる。構造を見たくなる。限界を試したくなる」


その声には、隠しようのない本音があった。


「セイレンの時も、そうじゃった」


トーマは黙って聞く。


「最初は、あの子を守るためじゃった。あの子の魔力は不安定で、放置すれば危険だった。だから調べた。制御する方法を探した」


テリア女王の手が、わずかに握られる。


「だが、いつからか目的が混ざった。守るための研究か、研究のためにあの子を見ているのか。ワシ自身、分からなくなっておった」


アリスは何も言わない。


ロイも黙っている。


「気づいた時には、あの子はもうワシを見ておらなんだ」


テリア女王は自嘲気味に笑った。


「いや、違うな。あの子はずっと見ておった。ワシが見ていなかっただけじゃ」


トーマは胸の奥が重くなるのを感じた。


セイレンの言葉。


私が話したかった時、あなたは研究記録を見ていた。

私が泣いていた時、あなたは結界式を見ていた。


それは、ただの憎しみではない。


見てほしかった子どもの叫びだった。


「ノアには、同じことをしたくない」


テリア女王は言った。


「そう思っておる。じゃが、思うだけでは足りぬ。だから、アリスにもロイにも止めてもらう。お主らにも見ていてもらう」


トーマは少し驚いた。


「俺にも?」


「お主は顔に出るからの」


「またそれか」


「便利じゃぞ。警戒心が顔に出る者は、時に鏡になる」


トーマは少しだけ苦笑した。


「褒められてる気がしない」


「半分は褒めておる」


「半分か」


「十分じゃろ」


ソルが静かに言った。


「今日は悪くなかった」


テリア女王はソルを見る。


「お主にそう言われるとはの」


「ノアを研究対象として扱わなかった」


「危うかったがな」


アリスが横から言う。


「危うかったわ」


テリア女王は苦笑する。


「分かっておる」


ロイが短く言った。


「でも、止まった」


テリア女王はロイを見る。


ロイの表情はいつも通り読めない。


だが、その短い言葉は、否定ではなかった。


テリア女王は小さく頷いた。


「うむ」


その時、廊下の窓の外で、何かが赤く揺れた。


トーマが立ち止まる。


ソルも即座に気づく。


レナが遠くから走ってくる。


「何か見えたか!?」


窓の外。


王城の外壁の向こう。


遠くの屋根の上に、赤い布が一瞬だけ見えた。


紅い旗。


だが、すぐに消えた。


テリア女王は窓へ近づき、外を見つめる。


「セイレン……」


その声は、小さかった。


トーマは問う。


「追うのか?」


テリア女王はしばらく黙っていた。


それから、首を振った。


「追わぬ」


アリスが少し驚いた顔をする。


「いいの?」


「今追っても、あの子は逃げる。あるいは戦う。それでは何も変わらぬ」


テリア女王は窓の外を見たまま言う。


「今日、あの子は見に来たのじゃ。ワシがどうするかを」


「試されたのか」


トーマが言う。


「そうじゃろうな」


「結果は?」


テリア女王は少しだけ笑った。


「不合格ではない、と信じたいのう」


その声は、少しだけ弱かった。


⸻


王城の屋根の上。


セイレンは紅い旗を肩に担ぎ、遠くから測定室のある塔を見ていた。


隣にはルークがしゃがんでいる。


「終わった?」


「ええ」


「戦わなかった」


「そうね」


ルークは首を傾げる。


「よかった?」


セイレンはすぐには答えなかった。


風が吹く。


紅い旗が揺れる。


「母上は、止まった」


「うん」


「昔は止まらなかった」


「うん」


「でも、それだけよ」


セイレンの声が少し冷える。


「一度止まったからといって、何もかも許されるわけじゃない」


ルークは短く頷く。


「うん」


「ノアは強くなるわ」


「うん」


「トーマも」


「うん」


セイレンは遠くの窓を見た。


そこには、テリア女王の姿が小さく見える。


母と娘。


遠すぎる距離。


近づけば刺さる。

離れれば冷える。


セイレンは自分の胸に生まれた小さな揺れを、すぐに押し潰した。


「行くわ」


ルークが立ち上がる。


「どこ?」


「次の準備」


「戦う?」


セイレンは紅い旗を握った。


「まだ。でも、近いうちに」


ルークの目が静かに変わる。


普段のぼんやりした色が消え、底知れない戦闘者の光が宿る。


「誰と?」


「まずは、トーマを試す」


「殺す?」


セイレンは少しだけ黙った。


「殺す気で行く。でも、死ぬかどうかは彼次第」


ルークは短く答えた。


「うん」


その一言で、屋根の上の空気が重くなる。


セイレンは遠くの城を見る。


「大会ごっこで得た繋がりが、本物の死線でどこまで残るか」


紅い旗が風に鳴った。


「見せてもらうわ」


赤い裂け目が開く。


二人の姿は、その中へ消えた。


⸻


その日の午後。


テリア女王は忘却の剣の調査に入った。


場所はシェイン王城の地下にある封印室。


厚い石壁。

二重の結界。

魔力遮断のための黒水晶。


中央の台に、トーマの剣が置かれる。


ただし、トーマ自身もすぐそばに立っていた。


剣を手放すことにはまだ抵抗がある。


だが、完全に離れるわけではない。


手を伸ばせば届く距離。


それが条件だった。


テリア女王は台の前に立つ。


「抜かぬ。触れぬ。外側だけを見る」


トーマは頷く。


「頼む」


「うむ」


テリア女王は魔法陣を展開した。


青白い光が、剣の周囲をゆっくり巡る。


忘却の剣は沈黙している。


いや、沈黙しているように見える。


だが、トーマには分かった。


剣は眠っているのではない。


見ている。


こちらを。


テリア女王を。


「妙じゃな」


テリア女王が呟く。


「何が」


「この剣、封じているというより……隠しておる」


ロイドが記録しながら問う。


「記憶をですか?」


「それだけではない」


テリア女王の表情が険しくなる。


「存在そのものを、じゃ」


トーマの胸が鳴る。


「存在?」


「トーマ。お主はこの世界の記録から抜け落ちている可能性がある」


「どういう意味だ」


「普通、人が生きていれば、どこかに痕跡が残る。魔力の残響、血筋の記録、土地との繋がり。じゃが、この剣の周囲には、それらを断ち切るような術式がある」


テリア女王は剣を見つめる。


「まるで、お主という存在を世界から隠すための鞘じゃ」


封印室の空気が重くなる。


トーマは剣を見る。


自分の記憶がないだけではない。


世界が自分を忘れたがっている。


セイレンの言葉が蘇る。


「それは、誰がやったんだ」


トーマの声は低かった。


テリア女王は首を振る。


「分からぬ。じゃが、この術式は古い。神代に近い形式を含んでおる」


「神……」


ゼロが倒した、世界を崩壊させた存在。


その言葉が、この場にまた影を落とす。


ソルの表情が険しくなる。


「ゼロたちの戦いと関係があるのか」


「可能性は高い」


テリア女王は魔法陣をさらに細かく展開する。


その瞬間。


剣の紋様が光った。


黒い光。


光なのに、周囲を暗くするような色。


トーマの頭に痛みが走る。


「っ……!」


視界が揺れた。


崩れた塔。


血。


倒れている誰か。


そして、今度ははっきりと聞こえた。


──トーマ、行かないで!


声の主は、少女だった。


顔はまだ見えない。


だが、その声に胸が裂けそうになる。


トーマは膝をつく。


ソルが支える。


「トーマ!」


ロイドが叫ぶ。


「調査中断!」


テリア女王は即座に魔法陣を消した。


黒い光も消える。


封印室に静寂が戻る。


トーマは荒い息を吐いていた。


「今の……」


ソルが問う。


「何を見た」


トーマは震える手で剣を見る。


「誰かが……俺を止めてた」


「誰か?」


「女の子の声だった」


トーマは胸を押さえる。


痛い。


記憶ではない。


傷が戻ってきたような痛み。


「俺は……どこかへ行こうとしていた」


テリア女王は沈黙していた。


その顔は、ひどく険しい。


「トーマ」


「何だ」


「この剣は、お主を守っておるのかもしれぬ」


トーマは顔を上げる。


「守っている?」


「記憶を奪っているのではなく、お主が耐えられぬものを一時的に遠ざけている可能性がある」


ロイドが言う。


「では、剣を無理に解析するのは危険ですね」


「危険じゃ」


テリア女王ははっきり言った。


「今日の調査はここまでにする」


トーマは剣を見つめた。


自分を隠す鞘。


存在を世界から断ち切る術式。


神代に近い形式。


そして、少女の声。


行かないで。


トーマはゆっくり剣を手に取った。


手に馴染む。


恐ろしくなるほどに。


「俺は、誰を置いていったんだ……?」


誰も答えられなかった。


封印室の黒水晶だけが、静かに光を吸っていた。


⸻


その夜。


テリア女王たちはシェイン王城に一泊することになった。


表向きは、長距離移動による疲労と、調査結果の整理のため。


だが、実際は違う。


セイレンが接触したこと。

忘却の剣が強く反応したこと。

そして、トーマの記憶がまた一つ動いたこと。


その全てが、すぐに帰れる状況ではないと告げていた。


トーマは自室に戻り、剣を机に置いた。


今日は触れるのが少し怖かった。


この剣は、自分を守っているのかもしれない。


だが、守るとは何だ。


記憶を隠すことが、本当に守ることなのか。


それとも、真実から逃がしているだけなのか。


「行かないで……」


トーマは小さく呟く。


あの声は誰だったのか。


なぜ、自分を止めたのか。


自分は、どこへ行こうとしていたのか。


その時、扉が叩かれた。


「トーマ」


ノアの声だった。


トーマは顔を上げる。


「入っていいぞ」


扉が開き、ノアが入ってくる。


手には小さなランプを持っていた。


「眠れないのか?」


トーマが聞くと、ノアは少し困ったように笑った。


「うん。色々ありすぎて」


「そうだな」


ノアは机の上の剣を見る。


「剣、大丈夫?」


「分からない」


トーマは正直に答えた。


「でも、少し思い出した。いや、見えただけかもしれない」


「怖かった?」


「ああ」


ノアは少しだけ近づいた。


「私も今日、怖かった」


「テリア女王が?」


「うん。でも、途中から少し違った」


ノアはランプを机に置く。


「怖いけど、ちゃんと私を見てくれてる気がした。魔力じゃなくて、私を」


トーマは静かに聞いていた。


「それでも、セイレンさんの言葉も分かる気がする。許せない気持ちも、怖い気持ちも」


「どっちも本物なんだろうな」


「うん」


ノアは剣を見つめる。


「トーマの記憶も、きっと怖いだけじゃないと思う」


「そうか?」


「うん。だって、誰かがトーマに『行かないで』って言ったんでしょ?」


トーマは息を止める。


ノアは続ける。


「それは、トーマを大事に思っていた人がいたってことだと思う」


その言葉は、静かに胸へ入ってきた。


行かないで。


それは確かに、拒絶ではなかった。


引き止める声。


失いたくないという声。


「俺を、大事に思っていた人……」


トーマは机の上の剣を見る。


自分には何もないと思っていた。


名前しかないと思っていた。


けれど、過去には誰かがいたのかもしれない。


自分を呼び、自分を止め、自分に行かないでと言った誰かが。


「思い出すのは怖い」


ノアは言った。


「でも、その中には、トーマを待ってるものもあるかもしれない」


トーマはノアを見る。


「ノアは、強くなったな」


ノアは目を丸くする。


「え?」


「今日、そう思った」


ノアは顔を赤くして俯く。


「まだだよ」


「まだでも、前より強い」


ノアは少し笑った。


「じゃあ、トーマも少し強くなってる」


「俺も?」


「うん。前より、一人で抱えようとしてない」


そう言われて、トーマは少しだけ驚いた。


自覚はなかった。


でも、確かにそうかもしれない。


ソルに話し、ロイドに相談し、ノアと考え、レナに助けられた。


一人で行くな。


その声に、少しずつ従えているのかもしれない。


「ありがとう、ノア」


「うん」


ノアは小さく頷いた。


窓の外には、静かな夜が広がっている。


だが、その夜のどこかで、紅い旗が揺れていることを、二人は知っていた。


そして、忘却の剣の奥で眠る記憶が、また少しだけ目を覚まし始めていることも。


⸻


王城の客室。


テリア女王は一人、窓辺に立っていた。


月明かりが、彼女の青白い髪を照らしている。


机の上には、忘却の剣の簡易記録。


だが、彼女はそれを見ていなかった。


思い出していたのは、セイレンの声。


私が話したかった時、あなたは研究記録を見ていた。


「……セイレン」


小さく呟く。


その声は、夜に溶ける。


扉の外からアリスの声がした。


「入るわよ」


返事を待たずにアリスが入ってくる。


「寝てないと思った」


「眠れぬ」


「でしょうね」


アリスは机の資料を見る。


「また記録を見てるの?」


「見ておらぬ」


「珍しい」


テリア女王は苦笑する。


「今日は、見るのが怖い」


アリスは少し驚いたように目を細めた。


「あなたが?」


「うむ」


テリア女王は窓の外を見る。


「ワシはずっと、見ることが正しいと思っておった。知ること、調べること、解き明かすこと。それが守ることに繋がると信じておった」


「間違いではないわ」


「そうじゃな。間違いではない」


テリア女王の声は静かだった。


「じゃが、それだけでは足りぬ。見るべきものを間違えれば、知識は刃になる」


アリスは黙っていた。


「ノアは、ワシを見て礼を言った。怖かっただろうに」


「そうね」


「セイレンは、ワシを見て憎しみを向けた。怖かっただろうに」


テリア女王は目を伏せる。


「どちらも、ワシが向き合うべきものじゃ」


アリスはゆっくり息を吐いた。


「明日、シェインを出る前にノアにもう一度話したら?」


「何を」


「今日の続きを。研究の話じゃなくて、大人として」


テリア女王は少し黙った。


「……できるかのう」


「やりなさい」


アリスの声は厳しかった。


「あなたは女王でしょ。研究者でしょ。母親でもあるんでしょ。だったら逃げないで」


テリア女王はアリスを見る。


そして、ほんの少し笑った。


「お主は容赦がないのう」


「誰かさんが容赦なく育てたからね」


「それはワシの功績か?」


「半分くらいは」


「半分か」


二人の間に、少しだけ柔らかい空気が流れた。


だが、その外。


王城の屋根の上に、黒い影が立っていた。


ロイだった。


彼女は遠くの夜空を見つめている。


その視線の先。


ほんの一瞬だけ、赤い裂け目が光った。


セイレンではない。


もっと小さな、歪な裂け目。


ロイの目が鋭くなる。


「別の反応」


彼女はすぐに屋根を蹴った。


音もなく夜を駆ける。


王城の外れ。


古い塔の跡地。


そこに、黒い魔力の染みが生まれていた。


忘却の剣の反応に似ている。


だが、違う。


もっと濁っている。


もっと空腹のような気配。


ロイは短剣を抜く。


黒い染みの中心から、小さな声が漏れた。


──見つけた。


それはセイレンの声ではなかった。


トーマが聞いた声でもない。


もっと古く、もっと冷たい声。


ロイは眉を寄せる。


「……神代の残滓?」


黒い染みはすぐに消えた。


だが、そこには一つだけ残されていた。


古びた黒い羽根。


ロイはそれを拾わず、ただ見つめる。


「面倒」


彼女は短く呟いた。


その頃、トーマの部屋では、忘却の剣が誰にも触れられていないのに、静かに震えていた。

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