第一話 空から落ちた名前
空は、戦場に似ていた。
雲の切れ間から差す光は、剣の刃のように白く鋭く、草原の上を走る少女たちの影を細く伸ばしていた。
そこはシェイン王国、ベイル王国、テリア王国の三国が共同で管理する広大な演習場。
森がある。
丘がある。
崩れかけた石造りの砦がある。
乾いた川底と、身を隠すには十分な岩場がある。
その中央に置かれた赤い旗を奪うこと。
あるいは敵陣の簡易拠点を制圧すること。
それが、リトルヴァルキリートーナメントの勝利条件だった。
「ミア!右の岩場、敵影二つ!」
澄んだ声が飛ぶ。
声の主はユナ。
シェイン王国所属のリトルヴァルキリーである。
薄い銀色の髪を後ろで結び、細剣を片手に構える少女だった。その瞳は、戦場のあらゆる動きを拾おうとするように静かに揺れている。
【ミア】
「了解っ!」
返事をしたミアは、考えるより先に足を動かす少女だった。
小さな体を低く沈め、短槍を構え、草を蹴る。
その動きは獣に近い。
まっすぐで、速くて、危うい。
【ミア】
「ノア!後ろお願い!」
【ノア】
「う、うん……!」
二人の少し後ろで、ノアが小さな杖を握りしめた。
彼女はまだ、この戦場の空気に慣れていなかった。
敵を見つける。
狙う。
倒す。
戦闘不能にする。
それがこの大会の決まりだと聞いている。
殺してはいけない。
必要以上に傷つけてもいけない。
これは国同士が滅ぼし合わないための、誇りある競技なのだと説明された。
けれど、ノアにはまだ分からなかった。
誰かに杖を向けること。
魔力を練ること。
その先に、倒れる誰かがいること。
それがどうしても、胸の奥に小さな棘を残す。
【ミア】
「ノア、怖かったら防御だけでいい!」
ミアが叫ぶ。
【ノア】
「うん……!」
ノアは頷き、両手を前に出した。
瞬間、淡い光の膜が三人の周囲に広がる。
それは子どもの魔法とは思えないほど分厚く、澄んでいた。
戦場の空気が一瞬だけ静まり、遠くで見ていた審判役のヴァルキリーが目を細める。
「……やはり、ノアの魔力量は異常です」
演習場の外周。
高台に設けられた観覧席で、一人の女性が呟いた。
眼鏡をかけ、背筋を伸ばした硬質な雰囲気の女。
シェイン王国のヴァルキリー、ロイドである。
彼女の隣では、赤毛のヴァルキリーが身を乗り出していた。
「おおっ! ノア、すごいぞ! 今の防御、めちゃくちゃ綺麗だった!」
【ロイド】
「レナ。声が大きいです」
【レナ】
「だってすごいだろ!褒めて伸ばすの大事だぞ、ロイド!」
【ロイド】
「試合中に外から応援を飛ばすなと言っています」
【レナ】
「うっ……分かった……」
レナは大型犬が叱られた時のように、しゅんと肩を落とした。
そのさらに奥。
青みがかった長い髪を風に揺らしながら、一人の女性が静かに演習場を見下ろしていた。
ソル。
シェイン王国最高戦力と呼ばれるヴァルキリー。
彼女は何も言わない。
ただ、ノアの光を見つめていた。
まるでその輝きの奥に、別の誰かの影を見ているように。
【ソル】
「……似ているな」
小さな声だった。
【ロイド】
「何がですか?」
ロイドが聞き返す。
ソルは少しだけ目を伏せた。
【ソル】
「いや。なんでもない」
その時だった。
空が鳴った。
最初は雷かと思った。
だが、雲はなかった。
風もない。
それなのに、空の一点が白く裂けた。
リトルヴァルキリーたちは全員、同時に上を見た。
【ノア】
「なに、あれ……?」
ノアが呟く。
空の裂け目から、光る何かが落ちてくる。
星ではない。
炎でもない。
それは尾を引きながら、真っ直ぐに演習場の中央へ落下していた。
【ロイド】
「全員、退避!」
ロイドの声が響いた。
同時に、審判役のヴァルキリーたちも動く。
【ロイド】
「試合中断! 全リトルヴァルキリーは即座にフィールド外へ!」
けれど、その声よりも早く、少女たちは動いていた。
ミアがノアの手を引く。
ユナが周囲を確認しながら、三人の退路を作る。
【ミア】
「ノア、走って!」
【ノア】
「う、うん!」
光はどんどん大きくなる。
空気が震える。
草が倒れる。
石が跳ねる。
次の瞬間。
演習場の中央に、白い光が落ちた。
轟音。
地面が波打ち、土と石が空へ弾ける。
リトルヴァルキリーたちは伏せ、ヴァルキリーたちは防御魔法を展開した。
舞い上がった土煙が、演習場を丸ごと飲み込む。
数秒。
誰も動かなかった。
やがて、煙の向こうから風が吹いた。
中央の地面には、大きな穴が空いていた。
【ミア】
「……隕石?」
ミアが恐る恐る顔を上げる。
【ユナ】
「隕石にしては、熱が少なすぎる」
ノアは何も言わず、穴の方を見ていた。
胸の奥がざわざわしていた。
怖い。
でも、それだけではない。
呼ばれているような気がした。
【ユナ】
「ノア?」
【ノア】
「……あそこに、誰かいる」
三人は顔を見合わせた。
【ミア】
「誰かって……人?」
ミアの声が少し震える。
ノアは頷いた。
その直後、穴の中で何かが動いた。
リトルヴァルキリーたちは、武器を構えながらゆっくりと近づいた。
本来なら大人のヴァルキリーを待つべきだった。
だが、最初に見たのは彼女たちだった。
そして、そこに倒れていたものが敵意を持っているようには見えなかった。
穴の底。
砕けた土と石の中に、一人の男が横たわっていた。
年は若い。
少年と青年の間くらい。
黒い髪は土にまみれ、服は見たことのない材質でできている。
そして、その右手のそばには一本の剣があった。
鞘に収まっているにもかかわらず、妙な存在感を放つ剣だった。
古びているわけではない。
美しいわけでもない。
だが、そこにあるだけで空気が重くなる。
まるで世界そのものが、その剣を見て息を止めているようだった。
【ミア】
「……生きてる?」
ミアが小声で言った。
ユナが男の口元に手を近づける。
【ユナ】
「息はある」
【ミア】
「でも、空から落ちてきたんだぞ? 普通、ぺしゃんこだろ……」
【ユナ】
「ミア。言い方」
【ミア】
「ご、ごめん」
ノアは男の顔を見つめていた。
知らない顔。
見たことがない。
それなのに、不思議と胸が落ち着かなかった。
男の指が、ぴくりと動く。
三人が身構える。
ゆっくりと、男のまぶたが開いた。
黒い瞳。
何も映していないようで、何かを探しているような目だった。
男はしばらく空を見上げていた。
それから、掠れた声で言った。
「……ここは、どこだ?」
誰も答えられなかった。
男はゆっくりと上体を起こそうとして、痛みに顔をしかめる。
ノアが思わず手を伸ばした。
【ノア】
「だ、大丈夫……?」
男はノアを見る。
その目に、困惑が浮かんだ。
「君は……誰だ?」
【ノア】
「ノア。シェイン王国の、リトルヴァルキリー……です」
「シェイン……?」
男はその言葉を繰り返す。
まるで初めて聞いた言葉を、舌の上で確かめているようだった。
ユナが警戒を解かずに問う。
【ユナ】
「あなたの名前は?」
男は口を開きかけた。
だが、言葉が出てこない。
自分の胸元に手を当てる。
眉を寄せる。
何かを思い出そうとする。
けれど、何も掴めない。
空白。
真っ白な霧の中に、たった一つだけ残っているものがあった。
「……トーマ」
男は呟いた。
【トーマ】
「俺の名前は……トーマ」
【ユナ】
「他には?」
「どこの国の人? なぜ空から落ちてきたの? その剣は?」
トーマは足元の剣を見た。
初めて見るはずなのに、手に馴染む気がした。
彼は自然にそれを掴んだ。
瞬間、周囲の空気が微かに震える。
ユナが一歩下がる。
ミアが短槍を構える。
ノアの魔力が反射的に膨らむ。
だが、トーマ自身が一番驚いていた。
【トーマ】
「……分からない」
彼は小さく首を振った。
【トーマ】
「何も、分からない」
そこへ、ヴァルキリーたちが駆けつけた。
先頭にいたレナが、トーマの前でぴたりと止まる。
命令がなければ動かない大型犬のように、しかし目だけはきらきらと警戒している。
【レナ】
「ロイド!男がいるぞ!空から男が落ちてきた!」
【ロイド】
「見れば分かります」
ロイドは眼鏡の位置を直し、トーマを見下ろした。
【ロイド】
「あなたを保護します。抵抗するなら拘束します」
【トーマ】
「保護……?」
【ロイド】
「ここは三国管轄の演習場です。身元不明者を放置するわけにはいきません」
【トーマ】
「俺は……」
トーマは何かを言おうとした。
だが、言葉は続かなかった。
本当に何も分からなかった。
どこから来たのか。
なぜ落ちてきたのか。
この剣は何なのか。
なぜ、自分は生きているのか。
分かるのは、名前だけ。
トーマ。
ただ、それだけだった。
ソルが静かに歩み寄る。
彼女はトーマではなく、トーマの手にある剣を見た。
ほんの一瞬、彼女の表情が揺れる。
【ソル】
「……その剣を抜くな」
【トーマ】
「え?」
【ソル】
「今は、抜くな」
その声には、命令ではない何かがあった。
警告。
あるいは、願い。
トーマは黙って頷いた。
ロイドは周囲を見渡し、すぐに判断を下した。
【ロイド】
「試合は中止。彼を王城へ運びます。ノア、ミア、ユナ。あなたたちも同行しなさい。最初に接触した者として、事情確認が必要です」
【ミア】
「えっ、私たちも?」
ミアが目を丸くする。
【ロイド】
「当然です」
【ミア】
「やった! 空から落ちてきた人の事情聴取だ!」
【ユナ】
「喜ぶとこじゃないよ…」
ユナが冷静に突っ込む。
ノアだけは、トーマをじっと見ていた。
トーマもまた、ノアを見返していた。
なぜか、その少女の瞳が気になった。
自分の空白の記憶の奥で、ほんの小さな光が揺れた気がした。
けれど、それもすぐに消える。
【トーマ】
「……シェイン王国」
トーマは、ロイドの言葉を思い出すように呟いた。
【トーマ】
「そこに行けば、俺が何者か分かるのか?」
ロイドは少しだけ沈黙した。
そして、淡々と答える。
【ロイド】
「分かるとは限りません」
トーマの表情が曇る。
だが、ロイドは続けた。
【ロイド】
「ですが、分からないままでいるよりは前に進めます」
それは冷たい言い方だった。
けれど、嘘ではなかった。
トーマは頷いた。
【トーマ】
「なら、行く」
こうして、リトルヴァルキリートーナメントは中止となった。
勝者はなし。
ただ一人
空から落ちてきた記憶なき男だけが
三国の運命の中心に置かれた──────
シェイン王国の王城は、白い石で造られていた。
高くそびえる城壁。
風に揺れる青と銀の旗。
復興中の世界にありながら、そこにはまだ人々の活気があった。
馬車の窓から外を見て、トーマは呟いた。
【トーマ】
「……大きいな」
隣に座っていたミアが胸を張る。
【ミア】
「シェイン王国だからな!」
【トーマ】
「すごい国なのか?」
【ミア】
「うん!たぶん!」
【トーマ】
「たぶん?」
ユナがため息をついた。
【ユナ】
「ミアに説明させると、国が三つくらい増えるから私が話す」
【ミア】
「なんでだよ!」
【ユナ】
「前にベイル王国のことを『たぶん砂漠の奥にある筋肉の国』って説明してた」
【ミア】
「あながち間違いじゃないだろ!」
【ユナ】
「かなり間違い」
トーマは二人のやり取りを見て、少しだけ表情を緩めた。
ノアは向かい側で、膝の上に手を置いて座っている。
彼女は時々、ちらちらとトーマを見た。
だが、目が合うとすぐに逸らした。
【ノア】
「えっと……トーマさん」
【トーマ】
「トーマでいい」
【ノア】
「じゃあ、トーマ……本当に何も覚えてないの?」
【トーマ】
「ああ。自分の名前以外は何も」
【ノア】
「怖くないの?」
その問いに、トーマはすぐには答えなかった。
怖い。
そう言えば、きっと怖いのだと思う。
自分が誰か分からない。
ここがどこか分からない。
持っている剣の意味も分からない。
なのに、不思議と足は震えていなかった。
【トーマ】
「怖いより先に、知りたい」
トーマは言った。
【トーマ】
「俺が何者なのか。どうしてここに来たのか。あの剣は何なのか」
ノアはその言葉を聞いて、小さく頷いた。
【ノア】
「……私も、分からないことが多い」
【トーマ】
「ノアも?」
【ノア】
「うん。私はシェインに来る前のことは覚えてるけど……自分の力のことは、よく分からない」
【トーマ】
「力?」
【ノア】
「魔力が多いって、みんな言う。でも、私はまだ上手く使えない。戦うのも、少し怖い」
ミアが勢いよく身を乗り出す。
【ミア】
「でもノアはすごいぞ! さっきの防御なんて、ロイドも目を丸くしてた!」
【ユナ】
「ロイドさん、目は丸くしてなかったと思う」
【ミア】
「心の中では丸くしてた!」
【ユナ】
「心の中は見えない」
馬車の中に、小さな笑いが生まれた。
トーマはそれを聞きながら、窓の外を見る。
街の人々がいた。
商人。
子ども。
復興作業をする兵士たち。
崩れた建物の跡に、新しい柱を立てる大工。
世界は、傷ついていた。
だが、終わってはいなかった。
【トーマ】
「この世界は……一度、壊れたのか?」
トーマが呟く。
その瞬間、馬車の中の空気が少し変わった。
ミアの顔から笑みが消える。
ユナも目を伏せる。
ノアは黙った。
代わりに、向かいに座っていたロイドが口を開いた。
【ロイド】
「ええ。かつて、この世界は神によって崩壊寸前まで追い込まれました」
【トーマ】
「神……?」
【ロイド】
「正確には、世界を壊そうとした存在です。そして、その神と、神に連なる者を倒した英雄がいます」
トーマはロイドを見る。
【トーマ】
「英雄?」
ロイドは静かに頷いた。
【ロイド】
「ゼロ。今の世界で、その名を知らない者はいません」
ゼロ。
その名前を聞いた瞬間。
トーマの胸の奥が、わずかに痛んだ。
ほんの一瞬だけ、誰かの背中が見えた気がした。
黒く、遠く、決して追いつけない背中。
だが、次の瞬間には消えていた。
【トーマ】
「……ゼロ」
トーマはその名を繰り返す。
ロイドは続ける。
【ロイド】
「ゼロとその仲間たちは、世界を救いました。今は世界各地を回り、復興に力を貸しています。シェイン、ベイル、テリアの三国も、彼らに強い影響を受けています」
【トーマ】
「影響?」
【ロイド】
「強くなりたい者が増えた、ということです」
レナが馬車の外から声をかけた。
【レナ】
「ゼロみたいに強く! 誰かを守れるように! そう思ったやつが、いっぱいいるんだ!」
どうやら馬車の横を走っているらしい。
【ロイド】
「レナ。普通に乗ってください」
【レナ】
「外の警戒を命じられた!」
【ロイド】
「命じてません」
【レナ】
「じゃあ今から命じてくれ!」
【ロイド】
「嫌です」
トーマは少しだけ笑った。
その笑みに、ノアが気づく。
【ノア】
「トーマ、笑った」
【トーマ】
「ああ……なんか、変な人だなと思って」
【ノア】
「レナさんは変だけど、いい人だよ」
【レナ】
「聞こえてるぞ! ノア!」
馬車は王城の門をくぐる。
その先には、広い訓練場が見えた。
槍を振るう兵。
魔法を練るヴァルキリー。
戦術盤を囲む指揮官たち。
そして、その全員がトーマを見た。
空から落ちてきた謎の男。
記憶を持たず、謎の剣を持つ者。
好奇心。
警戒。
恐怖。
期待。
いくつもの視線が、トーマに突き刺さる。
だが、トーマは逃げなかった。
馬車を降り、剣を手に、白い王城を見上げた。
ロイドが彼の隣に立つ。
【ロイド】
「ここがシェイン王国です」
トーマは深く息を吸った。
【トーマ】
「ここから始まるのか」
【ロイド】
「あなたがそう望むなら」
ロイドの言葉に、トーマは頷いた。
【トーマ】
「なら、始める」
空白だらけの自分。
知らない世界。
知らない国。
知らない英雄。
けれど、一つだけ分かることがある。
立ち止まっていても、何も戻らない。
トーマは王城の門をくぐった。
その背後で、ノアが小さく呟く。
【ノア】
「……トーマ」
彼の名を呼んだ時、ノアの胸の奥でもまた、説明のつかない光が揺れていた。




