終章:未来 ――みらい――
かつての通学路は景色を変えないままであった。そこに立つ未来だけが、もうあの頃の少女ではない。
日曜日夕方の上り坂道に、子供達の姿は無かった。未来一人がそこにいる。ここを使わなくなってどれだけ時間が流れただろうか。未来は思い返す。
十年。
死と隣り合わせですらあった日々からそれだけの時間が過ぎて、未来を取り巻く環境も変わった。
黒い瞳になった当初は、やはり、カラーコンタクトでも入れたのかとクラスメイト達は勘ぐったし、担任にも幾度と無く職員室へ呼び出された。しかし、高校を卒業して大学で新しい友人ができる頃には、金の瞳の頃の未来を知る者の方が少なくなっていた。未来はごく普通の少女としての生活を送り、ごく普通の女性として就職して、幾つかの恋もした。しかし、折につけて脳裏に蘇る印象的な紫の瞳は、未来に決して本気の恋愛をさせ得なかったのだ。
あれから十年。その間に、ここに来て、オレンジの鈴を手にフォルティアに想いを馳せる事は、幾度あっただろうか。
忘れるように願った。自分も忘れて、別々の人生を歩むはずだった。しかし、誰よりも愛しく想う気持ちは、十年経った今もあの髪と瞳のように鮮やかで、色褪せずに心の奥に確かに在る。だが、それも今日までにしよう。未来はそう決意して、今日この通学路に立った。区切りをつけるには最適の、特別な日だった。
「ファル、元気ですか」
相手に届くはずがないとわかっていながら、語りかける。
「あのね、ファル。利久と芙美香さんが結婚したんだよ」
あの戦いの後、利久は己の意志で進学先を未来と同じ高校に決め、サッカー部に入って、充実した三年間を過ごした。
弟の、表向きの性格は決して変わらなかったが、己が異世界で犯した業に、時折酷く暗い表情を見せるようになってしまった。そんな彼を叱咤し励ましたのは、こちらの世界で再会した芙美香であった。彼女は利久の全てを受け止め、支えるだけの度量を持つ女性だった。
二人の関係は良好だった。それでも、姉より先に幸せになる事に利久が気後れしていた為、利久が一人前になってから更に数年という時間が流れてしまったのだが、双方の両親、そして未来自身が後押しをして、今日、結婚の運びになったのだ。
「利久はあたしがしっかり面倒見るから任せてね、義姉さん」
純白のウェディングドレスに身を包んだ芙美香は、出会った頃と変わらない明るさで未来に笑いかけた。
「芙美香さん、綺麗だったなあ。ファルにも見せたかったよ」
ちりん、と手の中でオレンジの鈴が鳴く。十年という歳月、肌身離さず持ち歩いたおかげで、塗装ははげかけて、無くさないように通した紐もすっかりくたびれてはいたが、三国一の手法で作られた逸品の音は今も冴えている。軽く揺らすと、ちりん、ちりりんと、フェーブルの城下街で聴いた時と全く変わりない音色が耳に届いた。
「ここに来るのも、今日で終わりにするね」
あの世界で自分の言葉が人知を超えた力を持っていたように、自分自身の心に言い聞かせて、けじめをつけよう。未来は一言一言を大切に紡ぐ。
「ファル。あなたが好き」
あの日言えなかったその台詞を、音に出す。
「あなたが好き」
震える唇を叱咤して、最後の菓子ひとつを味わうように舌の上で転がす。
「大好きでした」
零れ落ちそうな感情を過去形にして、そして終わりにしようと決意する。
少しの間、静かに泣いた後、未来は晴れ晴れとした表情を作った顔を前に向けた。
「それじゃあね」
そうして踵を返して歩き出そうとした、その時。
ちりん、と。
未来の手にしたものではない鈴の音が聞こえた。
はっとして振り返ると、周囲の景色が流れるように変わってゆく。見覚えのある庭。咲き乱れる花々。その向こうに立つ人影を見とめた瞬間、未来の心臓はそのまま止まるのではないかというほどに跳ねた。
相変わらずの黒い騎士服。背でひとつにまとめた長い赤の髪。記憶よりずっと背が伸びて遙かに逞しくなった身体つき。その手にあるのは、銀色の鈴。心音がどくどくと鼓膜に響く中、彼が振り返る。紫の瞳が未来を映し、大きく見開かれる。もしこちらと同じくらいの歳月が流れていたら、きっとこんな青年に成長しているだろうという、想像そのままの彼がそこにいた。
「……未来」
記憶より少しだけ落ち着いて低くなった声が、自分の名前を呼ぶ。
「これは夢か?」
「どうだろう」
お互いにぎこちない笑みが交わされる。
「お前の事を考えていた」
少しだけ照れ臭そうにはにかみながら、彼は言った。
「忘れろと言われても忘れられなかった。お前の事を想わない日は無かった」
その手が、こちらに向けて差し出される。
「もう一度会えたら言おうと思っていた事があるんだ。あの時、言えなかった事が」
もうそれで、未来の胸に満ちた感情は溢れ、涙腺は崩壊した。
「私も」
涙の入り交じった笑顔で未来は告げる。
「私もあるよ。ファルに言いたい事」
地を蹴って、未来は駆け出した。
『矢田未来。おぬしの願いをかなえるのをすっかり忘れておったわ』
不意に、アリスタリアの声が脳裏に響いた。
『願いの変更なら、一度だけ聞いてやるぞ?』
どこか飄々ととぼけさえした女神の問いに、未来は大きく頷く。そして心の中で願った。真の望みを。
届けとばかりに手を伸ばす。指先が触れ合った瞬間、これが夢ではないと確信を与えてくれる。
最初に彼が彼女をフォルティアに呼んだ、あの日のように。
二人はしっかりと手を取り合い、自分達の未来がひとつに交わるだろう事を予感するのであった。




