前書き
親愛なる読者諸賢。私の手記をお開きくださり、感謝申し上げる。これは今から語られる物語の前書きにあたるものである。読み飛ばしていただいても構わない。しかし、もし悪筆にご辛抱いただければ、続く私のつたない語りが、多少はお目に負担なくご覧いただけるものになるかもしれないと期待している。
私はこの手記をこちらの言葉で書き記すことにする。本当は日本語にできればよかったのだが、この世界に生まれ落ちて成長するうちに、辞書なしに思い出すことのできる漢字の総量はずいぶんと少なくなってしまった。しかしまだ口語としての日本語は十分にあやつれるから、日本語の言い回しを思い浮かべつつ、できるだけ翻訳しやすい、意味の幅が少ない語彙を用いようと思う。解釈の必要が少ない文章の参考としてこちらで入手可能なのは歴史書や行政文書のたぐいだった。私の年ごろの令嬢が書くにしては堅苦しい文体になってしまったのはそのためである。お詫び申し上げる。しかしいつかこの手記に有能な翻訳者が現れるとしたら——そのとき、私の選択は翻訳者氏の作業効率に大いに寄与するものと信じている。
一般的に、乙女ゲームの世界の転生者というのはあるとき突然前世の記憶を思い出すようだ。たとえばゲーム開始直前のヒロイン。たとえば断罪直後の悪役令嬢。たとえばゲーム開始よりずっと若い時代のモブ令嬢。でも、私の場合はちょっと違った。生まれつき記憶を持っていたのだ。
生まれつきというのはあまり正確ではないかもしれない。赤ん坊のころのことは覚えていない。よちよち歩きを始めたころは、「ばあやじゃない男の人と女の人(前世の両親だ)が面倒を見てくれる」記憶を不思議に思っていた。今世の自分が実際に経験したことなのかどうか乳幼児の頭では測りかねていたのだ。しかも当時の私は両親を知らなかった。今世の母は私の出産で命を落としていたし(これはあとになってから知った)、本館に住む父にはいまだ会ったことがなかったから。
もう少し大きくなると「たくさんの子どもたちと一緒に毎朝集められて、お弁当を食べて帰る」記憶が私を悩ませた。五歳くらいでそれが「幼稚園」と呼ばれるものだったことを思い出した。家庭教師がつけられると、しばらくの間は「小学校で経験した勉強」とこっちの世界のそれが混乱をもたらした。しばらく家庭教師は私のことを「何を教えてもぼんやりしているできの悪い子ども」だと思っていたようだ。そして妾の子だからそれもしかたなかろう、とある意味で哀れみの気持ちを持って接していた、らしい。
とはいえ私のほうも七つを数えるころには「どうやら私はほかの人たちの知らないことを知っているようだ」ということを理解しはじめていたので、記憶にある前世(そのころはまだ前世という言葉は知らなかったので「むかしのこと」と言っていた)をあまり気にしないように努めるようになった。今世と前世を両方頭に入れていると、ふと脳裏に浮かぶ記憶がどちらのものなのかで毎度混乱するし、ついうっかりばあやや家庭教師やほかの使用人たちに前世の話をすると気味悪がられたからだ。
つまりこういうことなのだろう。私の前世の記憶は出生時にはすでに脳内に詰め込まれていたが、今世の私の成長にあわせてはっきりとした輪郭を持つようになっていった。たとえば六歳の私には、小学校高学年のときにあった女子グループ間の分裂や裏切りを伴うもめごとが理解できなかった。その情緒は思春期に手に入り、私の学園一年目に大いに活躍した(この話はまた後ほどすることになるだろう)。九歳のころには恋愛というのがどういうものなのかをおぼろげには把握していたが、なぜ前世、大学生の私がどう見てもクズな男に二年間も振り回されていたのかはまったくわからなかった。正直に言うと今でもそれはよくわからない。十二になった時分では労働ということもおおまかには理解できていたから、働いていたころの記憶もある程度自分の言葉で説明できた。こちらの世界と違い、前世で職業選択の自由があった。「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。すばらしいことだ。しかし前世の私はなぜ、上司や先輩のあんな理不尽な要求に唯々諾々と従っていたのだろうか。それだけは理解に苦しむ。
自己紹介が遅れた。私はアン・ヒーバー。ヒーバー男爵家の次女であり庶子である。ヒーバー家本宅の敷地内にある離れで出生、直後に当代ヒーバー男爵の実子として認知された。現在に至るまで住まいは離れのまま、本妻の子とは別に育てられた。母はヒーバー家に仕える女中であったそうだ。典型的な妾の子である。境遇からすると正道から足を踏み外してもおかしくない生い立ちであるが、幸いそうはならなかった。読者諸賢にはすでにここまでの文章からお分かりいただけているかと思うが、私は勉強が好きで真面目な性格である。見た目に反して。
そう、見た目が問題なのだ。母が父に引っかけられたのも見た目が原因であった。気の毒なことだ。ばあやによると、私と母はうり二つであるらしい。象牙色の肌。ピンク色の、ほどよくカールした柔らかい髪。長いまつげにふちどられた水色の瞳。私の瞳はやや赤みがかった水色だが、母のそれはどちらかというと灰色に近かったらしい。そこが特筆すべき相違点で、私の外見のうち残りの特徴的な部分、つまり小ぶりだが薄くはないくちびる、つんととがってはいるが高すぎない鼻、弓形を描く眉、細く小さい鎖骨、甲の薄い足、同世代の中で高すぎもせず低すぎもしない身長などはすべて母譲りであるということだ。簡単にまとめると、私はかわいらしい外見をしている。かわいらしいというのは、いかにも手込めにできそうと思わせる外見、ということでもある。
私が離れで育てられたのは、おもにそういった懸念があったからだという。当代男爵——つまり私の父である——男爵は悪人ではないかもしれないが使用人に対しては無体を働きうる男であった。私の存在自体が男爵の軽率で身勝手な行為の結果である。母が私の命と引き換えにはかなくなったとき、男爵は自らの行いをずいぶんと悔いたそうである。そして妾の子である私が本宅で育てられることで日常的に劣った扱いを受け、自尊心を損なうのを恐れた。自尊心を損なった人間は支配されやすい。つまり男爵は母を支配しておきながら、母の生き写しである娘の私がほかの男に支配されることを恐れたのである。
そんなようなわけで、私は庶子としてはずいぶんと恵まれた環境で育った。私の心身に危害を加える恐れがある人物は回りにいなかった。もちろん衣食住に不足はなかったし、家庭教育も本妻の子たちと変わらず受けることができた。月に一度ほど、本宅で家族と過ごす機会があるが、そのときも特に嫌がらせを受けるわけではなく、どちらかというと丁重に扱われている。外見に加えて私の真面目もまた母譲りであるそうで、本妻も使用人としての母のことはそれなりに気に入っていたということであった。本妻の子どもたちも私のことを嫌ってはいなかった。すでに妾としての私の母がいないなか、彼らは私のことを脅威に思う必要がなかったのだ。
本妻の子はふたり。生まれ年は同じで、わずか半年ばかり年上の姉が長女メアリ。そしてメアリと私の六歳年下に生まれたのが長男のジョージである。メアリ、私、ジョージの年の差を見ていただければ、私と私の母の存在が男爵と本妻の間にどのような亀裂をもたらした(もしくはもたらしえた)のかはお分かりいただけるのではないかと思う。そういう意味では、私に危害を加えようとしなかった本妻は大変立派な人物であると思う。
話がずいぶんと脱線してしまった。乙女ゲームの話をしよう。 その前に、この手記に題名をつけることとしよう。こちらで最近とみに流行っている奇譚集に倣うのであれば、題名は『新興男爵家の次女アン・ヒーバーの生涯と奇妙で驚くべき冒険、もしくは庶子として前世の記憶を持って生まれ、定められた運命に不可抗力によって抗いながら過ごした令嬢の六年にわたる学生時代と成長譚』とでもなるべきところだ。しかし諸賢はもっと簡潔で親しみやすい題のほうがお好みかもしれない。たとえば以下のような。
『乙女ゲームの転生ヒロインですが、本編ストーリーは始まる前から終わっていました。』




