クロミネは街を目指す
クロミネは目を覚ました。
瞼が重い、というのは奇妙な感覚だった。
空が眩しい、と初めて思った。
長い年月で蓄積した力を若木にやって、消えたはずだった。
なのに、前よりもっとずっと世界を生々しく感じている。
ゆっくり体を起こす。
背中に潰した草の茎がちくちくする。
立ち上がってあたりを見渡す。
今いる草原の一方は森になりその向こうには高い山がみえた。
森のないほうに下った先にの遠くには壁があり、いくつかの物見台が見えた。
人の集落があるのか、とクロミネは思った。
クロミネの知る人は移動を繰り返す山の民とだむを造りに来た奇妙な集団だけだった。
クロミネは自分の身に何が起こったのか気づいていた。
ここは若木が渡ろうとした世界なのだろう。
若木は無事に新しい土地に根付いたに違いない。
触れていたせいでともに来てしまったのだ。
大きく息を吸う。
取るに足らぬとはいえ神の一柱であった力はもうない。
ここは異なる理の世界だ。
クロミネは自分が紛れ込んだ異物であるとわかっている。
だがこの世界の神は排除する気はないようだ。
「まれびととして受け入れられたこと、感謝する」
クロミネは見知らぬ神に向けて大きく声を張った。
低く深い声だった。
そして笑った。
大きくとどろくような笑いだった。
長い長い年月を山の神として過ごした。
その存在の消えた先で、人として命を得るなんてなんと面白いことだろう。
「よし。まずは、人の里へいってみよう」
クロミネは膝丈ほどの草を分けて歩き出した。
だがその足はすぐに止まった。
人が倒れていた。
仰向けに眠るように手足を投げ出していた。
青年だった。
白っぽいシャツに薄茶のズボンと靴。
髪は輝くような白だった。
あの花と同じ白だった。
クロミネはそばにしゃがみこみ、その髪に触れた。
微かに自分の神力の名残を感じる。
「若木?」
なぜ人の姿に?
青年は目を開けた。
淡い緑の瞳は、若木の葉のようだ。
「あるじさま。申し訳ございません」
ふわりと香ったのは最後にみた花の香だった
クロミネは膝をつこうとする若木の腕をとり立たせた。
若木だった青年はクロミネの顎ほどの丈だった。
「あやまることはない。異界の木よ。おぬしと過ごした年月は幸福であった」
「偉大な山の御方のお慈悲で私は根付き育つことができました。恩を仇で返す真似をしたこと恥じ入るばかりです」
「よい。私はこの結果を喜んでいる」
「私はあの地に落ちた世界樹の種子でした。あなたさまの力を使って再び世界を渡りました」
「ここに、生まれ故郷に戻れたのだな」
「いいえ。ここは知らぬ世界です」
「なんと!」
当てもなく飛び込んだのか。
クロミネは若木の大胆さに呆れた。
「あるじさまのように人の姿を望み叶えられました。この世界の神は寛大です」
「そのようだな」
クロミネは再びここの神に感謝した。
ぐう。
奇妙な音がした。
若木は驚いた顔をして手で腹を押さえていた。
人の生活について、学ぶべきことはおおそうだ。
*
クロミネはシロハナと緩やかな坂を下っていた。
シロハナというのは若木の名前だ。
若木はクロミネに名前を付けてほしいと願った。
「この世界らしい名を知ってから決めればいい」
クロミネはそう諭したが、若木は引かなかった。
だがクロミネは人の名づけを知らない。
自分をクロミネと呼んだ山の民の名も知ることはなかった。
「シロハナ」
クロミネはとうとう口にした。
最後に目にした花の美しさはクロミネの心に強く残っていた。
*
「うわあっ」
シロハナが驚きの声を上げた。
彼の踏んだ草のそばから小動物が飛び出したのだ。
クロミネはその手の中に小さな礫を作り出した。
なぜかできるとわかっていた。
そして逃げる動物に投げつける。
後ろから頭を砕かれ、それは絶命した。
クロミネは近寄って、その後ろ脚の片方をつかんで持ち上げた。
ウサギに似ているけれど、クロミネの知るウサギより何倍も大きい。
「持っていこう」
ウサギは食べることも毛皮を使うこともできる。
狼も人も好んで狩っていた。
きっとここでも役に立つはずだ。
腹を鳴らしていたシロハナに食べさせてもいい。
高い空で鳥が鳴いている。
風が汗ばんだ額に涼しく感じられる。
不自由で、だけど心地よい。
クロミネは手の甲で額を拭った。
シロハナも懸命に足を運んでいる。
肩ほどの白い髪が汗で首筋に張り付いている。
「大丈夫か?」
「はい、あるじさま。歩くのは楽しいです」
「あるじではない。クロミネだ」
クロミネはいい気分だった。
思いがけず人としての命を得て、仲間もいる。
シロハナも幸福だった。
鳥のように飛ぶことはできないが、鹿のように駆けることはできる。
敬愛する山の神様はシロハナを怒らなかった。
ついになるような美しい名をつけてくれた。
このままともにいられるのだ。
人里に近づくと、草原のなかにある踏み固められた道があった。
街から草原を通り森へむかう道だ。
まだ昼には早い時間で、人影は少ない。
狩りや採取に行くものたちはもっと早くに出て、遅く戻るからだ。
だが、人影はゼロではない。
ウサギをぶら下げ、肩と腰に毛皮を巻いたクロミネに老いた狩人は警戒の目を向けた。
彫の深い顔と黒い眉、黒い瞳を持つクロミネはこのあたりでは珍しい容姿だった。
そしていかにも強そうだった。
だがその後ろを歩くのはすらりとした若者で、荒事に縁のない御曹司にみえる。
裕福な若者と護衛の戦士か。
老人はそんなふうに納得し、そのまま通り過ぎた。
その様子をみた他の連中も同じように通り過ぎた。
そういう彼らは若く、革の胸当てに弓矢や槍を持ち刃物を下げている。
丸腰のクロミネとシロハナよりずっと物々しい。
大げさに騒ぎ立てて臆病と笑われるのを恐れたのかもしれない。
クロミネとシロハナは誰にとがめられることなく、街へとついた。
「何者だ?身分証は?」
顔見知りと雑談に興じていた兵士のひとりがぎょっとしたように槍を向けた。
「私はクロミネ、こっちがシロハナ。身分証とやらは持たない。遠い国から来た。これを売りたい」
兵士はずっしりと重いウサギを軽々と持ち上げてみせるクロミネに驚いた。
すごい力だ。
迫力もあるが落ち着き払っている。
きっと名のある戦士に違いない。
ウサギの頭は鋭いもので殴られたようにつぶれている。
「見たところ丸腰だが、どうやって仕留めたんだ?」
クロミネは空いているほうの手のひらを兵士の前に突き出した。
ちょっと集中すると掌には石が載った。
「これをぶつけた」
「土魔法?!魔法使いなのか?絶対戦士だとおもったのに!」
兵士は仲間に門を任せて、ふたりに詳しく説明してくれた。
本当は街へ入るには金がいるから自分が立て替えておくこと。
仮の入門証を渡すからウサギを金に換えて支払いに来ること。
住民登録がなくとも、ギルドと呼ばれる仲介所に登録すれば入門料はかからないこと。
ちなみに入門料は五銀貨、ふたりで十銀貨だ。
「このウサギは幾らぐらいになる?」
「三十銀貨前後ってところだ。二十以下だったら違う店に行くといい」
クロミネとシロハナは丁寧に礼を言って、街に入った。
人の世の仕組みに疎いが、兵士が親切にしてくれたことに気づいていた。
兵士は彼らが金を踏み倒すとはおもわなかった。
門番をしていれば人を見る目は養われる。
彼らはズルをして得をしようとか、嘘をついて儲けようとか、きっと考えたこともないに違いない。
精悍な戦士風の土魔法使いと、やけにキラキラした優しげな青年は、そういう点では同じ空気を纏っていた。
「戻ってきたら、いい宿を教えてやろう」
この街にとどまってくれれば楽しくなりそうだ。
兵士ヘンリーはにやっと笑った。