クロミネと異界の木
いくつも連なる山のひとつに過ぎなかった。
霊山でもなく人里からも遠い。
だが崖もなく水場の多い山だった。
山の民は良い狩場であると知っていた。
『クロミネ』
彼らはその山のことをそう呼んだ。
山の主はその名を受け入れた。
*
ある日クロミネは異変を感じた。
世界は歪み何かが変わった。
月のない春の夜だった。
山のことならすべてわかるはずだった。
長く生きた獣が知恵を得ることも、古い樹木に木霊が湧くことも。
なのにそれが何かわからない。
クロミネは人の姿を真似ると、それのもとへ向かった。
若葉の美しいブナの森だった、
降り積もった枯葉はふかふかと柔らかい。
鹿もイノシシも、それを食う狼も人もすべてを養う豊かな森だった。
クロミネは音を立てずに歩き、屈んだ。
あれほどの歪みであったのに、そこにあったのは親指ほどの芽だった。
見たことのない芽だった。
気配はあれどもう力は感じない。
抜いてしまえばそれで終わる。
明らかに異物であったが、クロミネはその健気さに心惹かれた。
よそから紛れ込んだ異物であっても、ここに根を張り育とうとしている。
クロミネは周囲の樹木を少しづつ動かし、芽に日差しが当たるようにしてやった。
*
芽は無事に育った。
だが三百年が過ぎてもまだ若木のままだった。
せいぜい人の背丈ほどの大きさだった。
若木は大人の手のひらほどの薄い緑の葉をつけた。
秋になれば他の木よりも早く黄色く色づいて真っ先に葉を落とした。
春には他の木よりも遅く輝くような若芽をだした。
けれどまだ花は咲かなかった。
クロミネはゆっくり育つ異界の木を見守るのが楽しみとなっていた。
さらに年月が経った。
山の民が訪れることはなくなった。
自然発生するあやかしも姿を消した。
このままクロミネという山の神もひっそり消えるのだろう
それもいいとクロミネは思う。
ただ、あの若木がどんな花を咲かせるのか見れぬのは少し心残りだった。
珍しく、人が訪れた。
かつての民とは全く異なる衣服に身を包んだ男たちだった。
かれらは、轟音をたてる絡繰りで大木を切り倒した。
あの木も切られてしまうかもしれない。
クロミネは彼らのやりとりを理解しようと注意を向けた。
*
「おまえはここのものではない。私の力を使ってもとの場所へ戻ることはできぬか?」
クロミネは再び人の姿をとっていた。
背中まで伸びた髪を一つに編んだ大男だ。
木の繊維で織った生成りの上下の上から肩と腰に毛皮を巻いている。
「ここにだむという大きな水溜をつくるそうだ。このままではおまえも水に沈んでしまうぞ」
色の薄い幹に手をぺたりと当てて話しかける。
いずれ消える山の神の力を惜しいとはおもわない。
消えるのは早まるだろうが、せっかく育ってきた若い木を助けることに比べれば、些細なことだ。
触れた場所から、すうっと力が抜けていく。
若木がクロミネの声に応えようとしている。
クロミネは微笑んだ。
なかなか成長しなかった若木はぐんとその梢を伸ばし、たった一つの白いつぼみをつけた。
「おお!」
唯一の心残りだった花を見ることができる。
クロミネは歓喜の声をあげた。
白く輝くような分厚い花弁をもつ花だった。
強いて言えばモクレンに似ている。
白く輝くような、いや、本当に花は輝いていた。
花が輝きを増すほどに、クロミネの力は失われた。
これほど美しく輝かせているのが自分であることクロミネは誇りに思った。
*
不思議な一本の木と、山の神は消えた。
そのことに気づいたものはいなかった。




