57 それはとても簡単な話
牧草地帯に風が吹く。
辺りの霧はどんどん晴れ、きらきらとした日差しが街道を照らし、足元に濃い影を作り出していく。
「君の気持ちは分かった。ただ、もう一つ追加で、僕は君に言いたい」
一気に気温が上がった気がする……と思ったら、背後にあったルーデンス殿下の威圧感がいつの間にか消えていた。
「リッド。君は優しすぎだ。そして難しく考えすぎ」
気が付くと、リッドの両足は何事もなかったように影の拘束から解放されていた。
リッドは呆気にとられた顔をして殿下を見ている。わたくしの首を掴む手も、ほとんど添えているだけのような力加減だった。
「そんなに強く想っているんなら、そう、直接言ってやればいいんだ。最初から簡単なことだったんだよ」
後ろからつかつかと殿下が近付いてくる足音がする。
「でももしそんな自分が想像つかないって言うんなら、今から僕がお手本を見せてあげる。ほら、いい加減この手を放して」
わたくしの隣まできた殿下は、首を掴むリッドの腕を気安くぺしぺしと叩いた。
毒気を抜かれ呆けたままのリッドは大人しく言われたとおりにする。
殿下は、リッドから解放されたわたくしの両肩をしっかり捕まえると、力強く自分のほうに向かい合わせた。
心配そうな表情でわたくしの首筋を優しく撫でて様子を確かめた後、その瞳が真っ直ぐにわたくしを覗き込んで捉えた。お、お顔が、近い……。
「カレッタ、君が好きだ」
この世の常識を語るような、何の疑問も差し挟む余地のない口調で彼はそう言った。
言葉の意味を理解した途端、状況も経緯も何もかも頭から吹き飛んで、わたくしの心臓は喜びではち切れそうになった。
「初めて会った時から、いや、一目見た時から好きだった。遊んでいる時の嬉しそうな顔が好き。みんなと話す時の楽しそうな顔も好き。もちろん普段のすましている顔も好き。冗談を言って和ませてくれるのも、ちょっと意地っ張りなところも可愛くて好き。友達のために一生懸命なのも、びっくりするような無茶をするのも、心配になるほど好き。あの暗くて狭い部屋から僕を連れ出して、どこへでも行けると言ってくれた、自由な君が、大好き」
次々と積み上げられる殿下の気持ちに、わたくしの顔はどんどん温度が上がっていく。
なのに殿下は、殿下のくせに、涼しいお顔でまだまだおかわりを出してくる。
「今の僕はほとんど君でできてるよ。君と出会わなければ、僕はこんな生き方できなかった。僕はもう君が居ないと生きていけない。僕も君を奪われたくない。失いたくない。ずっとそばで守りたい。君がくれた未来を、僕は君と一緒に歩いていきたい」
ああ、なんて簡単な話だったのだろう。
わたくしにとって彼が特別なように、彼にとってのわたくしももう特別だったのだ。
彼が彼であることが、わたくしがわたくしであることが、二人の価値だ。
変わってしまうことを恐れる必要もない。どう変わってもわたくしたちであることに変わりはないから。
今までずっと一緒に居たのだから、これからもずっと一緒に居ればいいだけなのだ。
「だから僕も、僕がこれから作る未来を、まるごと全部君にあげたいんだ。どんな未来になるか、僕にもまだ分からないけど……それでも、受け取ってくれる?」
額が付きそうなほど近い距離で見つめる柔らかい瞳。囁く声が耳を溶かすような気がした。
とてつもなく大きくて尊いものを差し出されたわたくしは、受け止めるのに精いっぱいだ。
……あの日の彼も、こんな気持ちだったのだろうか。
そんなものを貰ってしまったら、今度こそ本当に、何でもできる気がする。
けれど裏腹にわたくしの口は押し寄せる気持ちが溢れてうまく回らず、呆れるほど不格好な返事しか返せなかった。
「えっと、その、では……いただきます」
そこでようやく、ルーデンス殿下は頬を赤らめて笑った。
感極まったようにさらに距離を詰め、次の瞬間にはしっかりと強く抱きしめられた。
幸せで頭がくらくらし、胸がぎゅっとなる。首を絞められていた時よりも息が苦しい。
わたくしも抱き返そうと腕を持ち上げた……ところで、二人同時に硬直した。
「うっ……!」
「いっ……!」
ビキリ、と全身に痛みが走る。お互いにさっきの死闘で無茶をしすぎたのだ。
余計な刺激をしないようにそろそろと体を離す。ホッとしたけれど名残惜しかった。
殿下はものすごく恨みがましい顔で、傍らで黙っていたリッドを睨んでいた。
「す、すまなかった」
無言の圧にリッドはたどたどしく謝罪を口にした。たぶん雰囲気で謝ってますわこの人。
というかリッドに特等席で見られていたんですわよね今の流れ……恥ずかしすぎてわたくしも影に沈めてほしい。
気を取り直して、優しい手つきでわたくしの髪を撫でて整えながら、殿下は少し申し訳なさそうに付け足した。
「君の気持ちを待ってやれない男でごめんね」
んん? なんだか覚えのある違和感。
むしろ十分すぎるほど待っていただいた気がするのだけれど。
「その、待つというのはいったい何のことでしょうか?」
「え? だってカレッタ、随分前に言ってたじゃないか。昔気になっていた人が居て、もう二度と会えないけどまだ忘れられないんだって……」
なんですと?
「えーっと……それ、いつの話ですの?」
「確か三年生の後半頃かな。ほら、アローナのお見合い話が続いてた頃で、作業しながらプリステラと恋愛話してたじゃないか。僕も横でついつい聞いちゃってて……」
言われて記憶が蘇ってきた。婚約うんぬんは置いておいて、理想の結婚相手像や恋愛像の話を確かにプリステラ嬢としていた。
その時、記憶に残っていた前世の夫をベースに考えて話していたら、やけに具体的な内容になってしまい、プリステラ嬢に好きな人がいると勘違いされたのだ。
それをなんとか誤魔化すために、そんな言い訳に持って行った気がする。でも忘れられないとまで言ったつもりはないので、これは殿下の独自解釈だろう。
なんと、わたくしだけでなく殿下まで勘違いしていたようだ。
「相手は幼い頃に領地で会った人かと思っていたけど……この前の話で納得がいったよ。カレッタ、君もテトラ嬢と同じで、別な世界に居た頃の記憶があるんでしょ?」
「何?」
やり取りを聞いていたリッドもひっそりと反応した。
「別な世界で、忘れられないほど愛していた人が居たってことだよね……」
ほんのり落ち込んだ様子になる殿下に、わたくしはしっかり釈明することにした。
「確かにわたくしにも別な世界の記憶があります。正直に申しますと、結婚して孫まで居ましたわ。おばあさんになるまで幸せに生き抜きました。けれどわたくしの場合、その記憶の人間のままで今も生きているわけではありません」
「そうなの?」
非常に主観的で感覚的なことなので、口に出して説明するのが難しい。
ピチピチ趣味以外は前世に囚われないように令嬢らしく生きてきたつもりだけれど、人格に対するその趣味の割合がそもそも大きすぎたので、影響は甚大だった。
マイペースな大人と意地っ張りな子供が同居していて、たまに自分でもちぐはぐだと思う時がある。
まっさらなカレッタ・ラミレージではないけれど、でも前世の『私』とも違うのは確かなことだった。
「ええ、わたくしの感覚では、頭の中に彼女の人生を纏めた本があって、いつでも読み返せるというだけです。もちろん主人公の彼女には共感を覚えますわ。たまに勝手に感覚が蘇ることもありますし、性格などもかなり影響を受けているとは思いますけれど、あくまでこの世界のわたくしはわたくしのつもりです。わたくしがプリステラさんに話していたのは彼女の夫のことですわ。それも……」
これは自分でも少し寂しく思ってしまっていたことなので、つい声が湿っぽくなってしまう。
けれどその記憶も含めてのわたくしなのだから、これくらいの感傷は許してほしい。殿下にも、前世の夫にも。
「実は、その夫について、もうほとんど思い出せないのです。優しくていい人だったなどの記号的な情報は覚えているのですけれど、どんな顔だったとか、声だったとか、話し方の癖だとか。たとえ想っていたとしても、それは本の中の登場人物に憧れるようなものですわ」
わたくしは胸を張ってルーデンス殿下に宣言した。
「ですから、わたくしカレッタ・ラミレージの初恋は正真正銘ルディ様のものですわ!」
それを聞いた殿下はなぜか真顔になって、わずかに身を乗り出してわたくしに確認した。
「じゃあ、じゃあ……さっきのはやっぱり、そういう意味で僕のこと……?」
さっきの……リッドとの戦いの時に叫んだ、わたくしの本心と決意。当たり前だけれど殿下にもばっちり聞かれていた。
ちょっと恥ずかしくなりつつも深く頷いて見せると、ルーデンス殿下はまたぶわりと一気に頬を染めた。
「うわ、うわ……嬉しい……」
と、ご自分の胸のあたりを鷲掴みながら喜んでくださる。わたくしまで嬉しくなってしまいつつ、そこを差し置いてでもさっきの怒涛の大告白をしてくださったのかと思うと、ますます愛おしさが込み上げて胸がきゅんと鳴いてしまう。この方の前で、わたくしはやっぱり無力だ。
しかし、不意にむっとした表情になる殿下。
「って、じゃあなんであの時テトラ嬢に僕をおすすめしてたの?」
「ルディ様がテトラ様に片思いなさっていると、わたくしが勘違いしていたからですわ」
「なんで!?」
「乙女の秘密ですわ」
盗み聞きした医務室での正確な会話内容が気になるところだけれど、これはロージーも一緒に居るところで改めて訊いてみましょう。何をどんな妄想していらしたのかしら。




