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サンデルマンの屋敷を引き揚げたときには、ジグリットも意識がしっかりしていた。しかし腕の疵は深かったらしく、出血のせいで脚は多少ふらついていた。王宮からの援軍など来るはずもなく、ファン・ダルタは彼の計画に噛んでいたのは、自分ではなく炎帝騎士団の騎士ドリスティだったことを聞かされ無表情な顔を僅かにしかめた。
「ドリスティに頼んでおいたんだ。仔兎座の第二星が賢者の弦楽器の折れた棹にある一等星と重なった時、城壁の巡視路に並べた松明を燃やし、南の天に向かって火矢を放ってくれと」
ジグリットの説明を聞いたファン・ダルタは、除け者にされた子供のように仏頂面で抗議した。
「なぜわたしに言わなかったのです」
ジグリットは騎士の機嫌を損ねたことに気づかず、サンデルマンの屋敷から連れ出した従者用の乗用馬の背で、後部に座った彼に凭れたまま上向いた。
「必要なかっただろう。それに、知らない方が全力で戦いやすい」
顎の先にジグリットの額が触れると、騎士はまったく理解していない錆色の眸を間近で見つめ返した。
「あなたは時に残酷ですよ」
ジグリットは前を向き直り、見えてきたチョザの街の常夜灯の明かりに「そうかもしれない」と呟いた。しかしそれはファン・ダルタが意図したことにではなく、今夜自分が行った所業についての言葉だった。
サンデルマンが死んだのは、いわば自業自得で、ジグリットには誤算があったものの、非情だったとは思えない。だが、その後に彼が指示したことに、冬将の騎士さえ眉をしかめたのだ。
「ぼくのやり方が間違っていると思うか?」
騎士はまだ先ほどのやり取りのせいで不機嫌だったが、ジグリットの声に弱々しさを感じて真面目に答えた。
「いいえ、そうは思いません。最良の手だと思いますよ」
「確かにおまえは反対しなかったが、嫌な仕事をさせた。すまない」
騎士はほうっと息を吐き、手綱を引いて馬の肢を緩めた。そしてちょうど真下にある少年の錆色の髪にこつんと顎を乗せた。
「おい、何をしている! 重いぞ!!」ジグリットが不平を漏らす。
しかし騎士はその体勢のまま、徐々に近づきつつある巨大な石造りの南門を眺めながら言った。
「これより先は、わたしにお任せ下さい。あなたが言った通り、十家に確実に送りつけ、やつらが震撼し押し黙るまで、信頼できる人間にそれとなく見張らせましょう」
ジグリットはファン・ダルタが自分に覆い被さっているせいで、外衣のない薄着の躰がほんの少し温かかった。気を失っている間に、騎士が外衣を引き裂いたので、もう着れなくなってしまったのだ。しかし今はそんなことはどうでもよかった。
サンデルマンが死に、ジグリットが騎士の平手打ちによって眸を覚ますと、屋敷の中にいた警備兵も近衛隊員達も一人残らず逃げ出した後だった。もぬけのからになった屋敷の庭で、ジグリットは最初に考えていた通りに事を運ぼうとした。彼はサンデルマンの指を切り取り、一本ずつ残った十の貴族に送りつけるつもりだったのだ。
冬将の騎士はそれを聞いた瞬間、確かに狼狽した眸でジグリットを見た。だからジグリットはサンデルマンが自分を殺そうとした短剣を拾い上げた。彼に頼まず自分でやろうとしたのだ。最初からそのつもりだった。それが残忍な手口でも、十家と戦わずして黙らせるためなら、ジグリットは断行する気でいた。
騎士はサンデルマンの切断された両腕をジグリットが見つけて、そこにしゃがみ込むと、彼の肩越しに短剣を取り上げた。
「王子、わたしがやりましょう。あなたは出血しています。その左腕はできれば使わない方がいい」
ジグリットは短剣を持っていた右手でサンデルマンの腕を押さえた。
「じゃあぼくは、こいつの腕が逃げ出さないように押さえていよう」
騎士は少年の無邪気を装った苦痛の眸に答えるよう、すぐに仕事を始めた。二人はサンデルマンの太い指をすべて根元から切り取ると、男の着ていた上等の絹の上衣を脱がせてそれで巻いた。
その後すぐに屋敷を去ったのだ。ファン・ダルタはジグリットの頭から顎を浮かせると、背後を振り返った。アンバー湖に沿った暗い街道の先に、貴族達の静かな住まいが横たわっている。それはまだ上流階級の十一家の一貴族が滅んだことを知らず、長い静穏な夜気の中、澄んだ朝を待っていた。
騎士はジグリットが見せしめにサンデルマンを選んだことを、そしてその選別の基準が正しかったことを思い返した。他の貴族にまで手を出す必要はない。これは戦わずにして相手に勝つ、最良の方法だ。この指を王族の証である黒き炎の紋章の入った焼印をつけて、十家に送ることで、彼らは誰がこれを為したのか、そしてその意味するところに畏怖するだろう。
――事態は沈静化する。それは確かだ。王子の戴冠式は滞りなく行われ、彼はこの国の王となる。
――もしこれが外に洩れても、悪どい高利貸しを王子が討ったとなれば、民衆は嫌悪するどころか、王子を支持し、彼への評価が上がるだけだ。上流階級は口を噤む。
そこまで考えて騎士は、冷たい風に吹かれて自分の腕の中で震えている少年を見下ろした。
――ジグリットもそこまで考えていたのだとしたら・・・・・・。
騎士は戦慄し、恐ろしさに粟立った。しかしジグリットはあどけない様子で独り言を呟いていた。
「後味が悪いな。良いことをしたとはとても思えない」
ふっとファン・ダルタは苦笑した。
「仕方ありません。あなたは次代の王となる御方、優しいだけでは国を維持し守ることはできません。悪徳もまた必要です」
ジグリットは即座に答えた。それは心を決めた者の声だった。
「わかっている。だからこそ、断行したんだ。大事なら、ぼくだって人を殺すことができるさ。そしてそれを利用することもな」
その口調に、騎士は確信を持って微笑んだ。王たる機知と才覚は、彼の内にあり、それはすでに目覚めているのだ。




