9 月影に舞う蝶2
「悠里?」
呼びかけてもいらえはなく、悠里の眠っていたあたりに手をあてると、まだほんのりと温かい。ここを出て、それほど時は経っていないということ。
急いで扉に向かい、次の間に控えている侍女を呼ぶ。すぐに扉が細く開き侍女が顔を覗かせこちらを見る。
「悠里がいないの!」
侍女はすっと目を細めた。
「あの旅の楽士なら、つい先ほど兵士たちに連れられていきました」
兵士? 何故? 月華は首を傾げた。と、同時に胸に広がる不安という名の黒い影。
「何故とお聞きになりますか? あの男はこの国の王女である陽の姫様に逆らった。陽の姫様があの男を処刑するよう命じたのです」
「処刑、そんな……っ!」
「ばかな男。素直に陽の姫様に従っていれば命を縮めることもなかったでしょうに」
侍女は、もはやそれ以上語る必要もないとばかりに扉を閉ざしてしまった。
「お願い開けて! 私をここから出して!」
悠里の元へ行かせて!
「開けて……開けなさい!」
手が赤くなるほどに何度も扉を叩き叫んだが、扉が開かれることはなかった。
くるりと振り返り鉄格子のはめられた窓に走り寄る。
夜が明け離れようとしている東の天は白々とした色に染まり始め、取り残された月が未だ白い影をともなって天にかかっている。
かすかに霧たつ辺りの気配。
目を凝らすと白くけむる朝靄の中、数人の兵士たちに両脇を固められ、連れられていく悠里の姿が映った。
いや!
悠里が殺されてしまう。
窓にはめられた鉄格子を、両手でつかんで揺すったが、当然のごとくびくともしない。
腕一本通すことがやっとの狭い鉄格子の隙間から、愛する人の背に手を伸ばし月華は何度も彼の名を叫ぶ。
月華の声が届いたのか、悠里が一度だけこちらを振り返り、いつもの優しい笑みを浮かべたのは気のせいか。
月華、あなたの願いが叶いますように。
幸せを願ってください。
と、彼がそう言ったかのように思えたのも気のせい。
悠里と過ごしたのはたった数日。
それでも彼の優しさに触れ、人を愛する喜びを知ることができた。
あなたの元に飛んでいけたなら。
あの人の命を救えるのなら私は他に何も望まない。
それが私の願い。
だからどうか月蒼蝶、私の願いを叶えてくれるというならば、お願い。
「私を悠里の元へ連れていって!」
突如、月華の身体が淡い光に包まれた。
肩にかけていた夜着がぱさりと足元に落ちる。
淡い光の中、月華の身体が徐々に形を崩し一羽の蝶へと転じた。
薄い羽を羽ばたかせ、鉄格子を抜けたその蝶は頼りない羽ばたきで浮き沈みを繰り返し、ひたすら悠里の元へと飛んでいく。
そこへ、横合いの茂みから一人の男が飛び出してきた。
男は抜き身の太刀を振り上げ、背後から悠里を斬りつけようとする。
「おまえがここに来なければ! 死ね、死ねっ!」
悠里後ろ。
気づいて!
男はかかげた剣を悠里めがけて振りおろす。
悠里!
が、男が斬りつけたのは悠里の背中を舞う一羽の蝶。
二つに裂かれた蝶がふわりと落ち、悠里の腕の中で月華の姿に戻る。
「な、何だよ……何なんだよ。いきなり姿を現しやがって。ははっ……うっかり女の方を斬っちまったじゃないか……はは……」
乱れた髪に着崩れ汚れた着物。
男は昨日庭園で陽の姫に従者の任を解かれた哀れな男であった。
「貴様っ!」
悠里の鋭い目が男を射貫く。
「はひっ! お、俺は少しも悪くはないぜ。悪いのは全部おまえじゃないか……おまえのせいで俺は陽火様に……」
血に濡れた太刀を引きずりながら男は顔を強張らせ、一歩二歩と悠里から距離をとるように後ずさる。
今にも男に飛びかからんばかりの勢いの悠里を止めたのは、腕の中の月華の声であった。
「悠里……」
「月華……どうして! 月華!」
悠里の呼びかけに月華は唇を震わせ微笑む。
「私、悠里の元に駆けつけることができたのね。悠里は無事……」
「月華! 喋ってはいけない」
「悠里……私……」
「もう何も……」
「悠里を、守りたくて……ただそれだけを願って……」
血の気を失っていく月華の唇から苦しげな息がこぼれる。
それでも、月華は最後まで悠里に笑顔をみせようと微笑んでいた。
月華の身体をかき抱く悠里の唇から、ああ、と悲痛な声がもれる。
「悠里、愛してる……ずっと、あなたと一緒にいたかった。悠里と旅をしたかった」
月華の手をきつく握りしめ、悠里は己の頬にあてた。
「行きましょう。一緒に旅を! あなたにお見せしたい景色はたくさん……あなたを連れて行きますから! だから……」
月華は嬉しそうに笑う。
「でも、ごめんなさい……」
けれど、それはもはや叶わぬ願い。
月華のまなじりに涙の粒が浮かぶ。
「私、悠里に出会えてよかった……とても、幸せでし、た……」
ありがとう、悠里。
悠里の腕に抱かれ、月華は弱々しい笑みを浮かべたまま──。
静かにまぶたを閉ざした。
「月華……月華! 月華!」
どんなに激しく揺さぶっても、名を叫んでも月華のまぶたは二度と開くことはなかった。
ふと、どこからともなく現れた漆黒の蝶が悠里の目の前で儚げに舞う。
悠里はふっと、口許に微笑みを刻んだ。
「月蒼蝶……死神の遣い。ああ……再びわたしを迎えにきてくれたのですね」
力を失った月華の指に己の指を絡ませそっと口づけをする。その指に悠里の涙がこぼれ落ちる。
そして、悠里は懐から取り出した短剣を鞘から抜くと、己の首筋にあてた。
──悠里。ずっと、あなたと一緒にいたかった。
「月華。あなたの願いが私の願いと申し上げました。わたしもすぐにあなたの元へ参ります」
『わたしと一緒に旅をしませんか?』
『ほんとうですか? 私を連れていってくださるのですか?』
『あなたをお守りいたします。一生』
『一生……?』
『はい。一生、あなたを大切にすると、約束いたします』
「あの世で二人、幸せになりましょう。永遠に、ずっと──」
短剣を握る悠里の手に躊躇いはなかった。
互いの指を強く絡め、折り重なって倒れる二人の頭上を二羽の漆黒の蝶が仲睦まじく、まるで寄り添うように飛び、やがて、天にかかる白い月へと昇り消えていく。
月蒼蝶。
またの名を月葬蝶。
死期を迎える者の魂をあの世へと導く死の遣いの蝶。
死にゆく者の願いを一つだけ叶える蝶。
二度と開くことのない月華の目の縁から、たまっていた涙が一つこぼれ落ちた。
「悠里? 悠里はどこ!」
遠くから聞こえる陽火の声。
その時であった。
生ぬるい風が吹き抜けた。
見上げた空に緩やかな速度で灰色の雲が押しよせ地上に影を落としていく。
重くたれ込めた雲が空をおおい大粒の雨が一つ二つと落ちた。
ぱたぱたと降る雨が、やがて豪雨へと変わる。
「これでわかったでしょう? 私に逆らえばどうなるか。今なら許してあげてもよくてよ。悠里……? 悠里!」
悠里を探しに駆けつけた陽火が目にしたのは、血塗られた太刀を手に茫然と立ち尽くす男と数名の兵士たち。そして、地に折り重なって倒れる月華と悠里の姿。
「どうして、悠里……いやーっ!」
激しく降る雨音に混じって聞こえる、陽火の叫び声。
この日を境に、陽の姫の表情から笑顔が消えた。
朱珂の国に雨が降り続ける──。 (了)




