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人買いと勇者

 天界に住む者達の中で、大天使長ミューゼルを知らない者はいなかった。そして天界に住む者達の中で、ミューゼルを侮蔑する者もいなかった。それだけ統治者としての彼女の手腕は評価され、天使としての彼女の人格は愛されていたのだ。

 天界を治める仁君。正義と慈愛の象徴。全ての天使の精神的支柱。「始原の光」を継ぐ高貴なるもの。彼女を讃える言葉は百をくだらず、今も増え続けている。そして天使達は言葉だけでなく、心の底からミューゼルを敬愛し尊敬していた。

 そんな何よりも素晴らしい才覚を持つ天界の長が、こんな魔界の一角に堂々と姿を現している。そして今、自分の目の前に悠然と立っている。それがアドメレクには信じられなかった。自分ごときでは手の届かない、遙か高みに君臨しているはずの光の女王が、すぐ眼前に現れているのだ。


「じょ、女王陛下、何故このようなところにおられるのですか?」


 アドメレクはすぐさま疑念を口にした。しかしそれと同時に、彼はミューゼルに対して片膝をついて頭を垂れていた。まったく無意識のうちに、彼は大天使長に向かって忠誠のポーズを取っていたのだ。


「あなたのような貴き御方が、このような闇の巣窟に御自ら出向かれるなど。いったい何が起きているのですか?」


 アドメレクは全く困惑したまま、ミューゼルに向かって問いかけた。頭は下げたまま、それでも言葉が通るよう、彼は腹から声を出し大きな声で尋ねた。

 そんな光景を見て、真樹とホープは共に驚いていた。この天使がここまでへりくだった態度を取るのはこれが初めてだったからだ。しかしその一方で、ミューゼルはにこやかに笑いながらアドメレクに声をかけた。


「顔を上げなさい、天使アドメレク。ここは天界ではありません。そう畏まる必要はありませんよ」

「し、しかし……」

「構いません。今の私は、買い物にきた普通の天使。天界の長ではありませんから」


 ミューゼルは天界に住む天使の顔と名前を全て覚えていた。そして同時に、自分の地位を笠に着て威張り散らすこともしなかった。そこがミューゼルの人気の一つであった。

 当然彼女はアドメレクのことも知っていた。そしてアドメレクは、敬愛する長から名前で呼ばれたことを嬉しく思った。

 しかし同時に、一つの疑問も抱いた。


「ミューゼル様、買い物とは?」

「言った通りです。ここには買い物をしに来たのですよ。私的(プライベート)な買い物です」

「ここは会議場です。それ以前に統治者の私室です。こんな所で何を」


 そこまで言って、アドメレクは一つの推論を思いついた。あまりに恐ろしい推測であったが、聞かずにはいられなかった。

 彼は背後のシリンダーに視線をやりながら、ミューゼルに尋ねた。


「買い物と言うのは、その、あれなのですか?」

「ええ。ここにマキを買いに来たのです」


 即答だった。ミューゼルは恥を見せることもなく、平然と言ってのけた。

 アドメレクの頭の中は真っ白になった。


「私もマキのことを側近に置きたいと、常々思っていたのです。でもマキに無理強いする訳にはいかないし、他の勢力に無断でマキを独占する訳にもいかないでしょう?」

「だから、ここでマキを買い取っているということなのですか?」

「そういうことです。もちろん、ここのマキは本物と違って何の能力も持ってない、ただの真人間なんですけどね。本物のマキの代用が利くというようなことは、決して無いのです」

「じゃあなんで買ってるんですか」

「可愛いマキを側に置いて愛でたいからに決まってるじゃないですか」


 ミューゼルは慈愛に満ちた笑みを湛えながら言った。その笑みと言葉の間にどうしようもないギャップを感じ、アドメレクはただ困惑した。なぜその笑顔でそんなことが言えるのか。しかもホープもマキも、そんな彼女を窘める気配は微塵も見せない。

 アドメレクは自分の感性が狂っているのではないかとすら思い始めた。


「天使も人の子ってことね」

「私は有りだと思いますよ。人間くさい天使がいてもいいんじゃないですか?」


 それどころか、二人してミューゼルを擁護すら始めていた。それからホープはシリンダーの一つに近づき、それの前で腰を下ろして何かをいじり始めた。

 真樹と天使二人がそちらに目を向ける。彼女達が視線を向けた時には既にシリンダーの蓋が開き始めていた。空気の抜ける音と共に蓋が開かれ、中から煙と青色の液体が漏れだしていく。

 シリンダーの中に納められていた真樹は全裸だった。凹凸のない貧相な裸体は水気に濡れ、肉体には生気が満ちていた。

 ホープはその体を両手で、優しく抱き抱えた。それから彼女は踵を返し、真樹を抱えたままミューゼルの元へ向かった。


「はい。注文の品ね」


 そしてホープは剥き出しのまま、真樹をミューゼルに差し出した。ミューゼルはそれを笑顔で受け取り、そして天使長の手に渡った偽物の真樹は、暢気に寝息を立てていた。


「ありがとうございます。お金はいつもの方法で支払っておきますね」

「ええ。よろしくお願いするわね」


 天使長と魔王の妹が親しげに会話する。真樹はその二人の間に入り、そのもう一人の真樹の頭を慈しむように撫でていた。


「いつ見ても可愛いですね」

「妹みたいでしょう?」

「ディテールにはこだわってるからね。デザイナーとして、本物に負けないくらいの魅力を持っていると自負しているわ」

「何を言っているんだあなた達は」


 アドメレクだけがその場に取り残されていた。一人疎外感を味わっていた彼は、目の前で行われている光景を理解できなかった。


「いくら何でも異常だ。どうしてそんなことが出来るんです? 他人の偽物を作ってそれを売りさばくなんて、明らかな人身売買だ。平然とやっていい事じゃない」

「マキ本人がいいって言ってるから、別にいいのよ。それにこれ、この国のメインの収入源になってるんだから。止めようと思っても止められないわ」

「は?」


 今、とても凄まじい言葉を聞いたような気がする。アドメレクは自分の耳を疑った。

 そこに追い打ちをかけたのは真樹だった。


「私の偽物、結構売れているみたいなんですよ。だからここは、他の大陸に比べてずっと裕福なんです。ぱっと見ではわからないんですけどね」

「どうしてそこまで平然としていられるんです。あなたの複製が出回ってるんですよ?」

「でもまだ私が迷惑している訳じゃないし、特に何とも思ってないです」

「バカな」


 真樹は嫌がっているようには見えなかった。アドメレクはますます混乱した。それから彼は続けざまにホープを見た。


「マキには本当に助かってるわ。色々な意味でね」


 ああ、これは駄目だ。アドメレクは直感的に理解した。そして同時に、全身から力が抜け落ちていくのも感じた。

 気にするだけ時間の無駄だ。

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