買う側、買われる側(前編)
コンビニで私が言った、『週末、休みを合わせて何処かに行かない?』という申し出は、推し店員ちゃんから了承されて。その後、連絡先を交換して土曜日、私と推しちゃんはオフィス街と接している隣の区へと出かけることになった。都内で女子がイケていると評判の区だ。
デート、と言ってしまうが、そのコース内容は「あたしに任せテ! お姉さんをエスコートするヨ」という推しちゃんに一任された。若い彼女が行きたい所へ行けば良いのだ、そう思ったので特に問題はない。
今は七月で、デート当日に晴れたのは良かったが暑い。お昼前、待ち合わせ場所で合流した推しちゃん(ショートパンツとTシャツ姿なのが新鮮だった)が、「飲みもの、持ってきたヨ。熱中症になるから水分は大事ネ」とビニール袋を差し出してくれた。ありがたく貰って中身を見ると、スポーツドリンクと、何かの瓶がある。
「ねぇ、この瓶って……」
「あー、ジンだヨ。デート前の景気づけに飲んでヨ、あたしも飲むかラ。ドリンクで流し込めば簡単に飲めるヨ、ウィスキーより飲みやすいから問題ないネ」
いや、そんなに言うほど簡単なお酒じゃないけど。度数が四十度だし。ためらう私に、推しちゃんは蠱惑的な笑みを向けた。
「お姉さん、デートってのは非日常の空間だヨ。あたしを信じて、飛び込んでみてヨ」
言われて、そうかもしれないと決心がついた。私は日常にウンザリしていたのだ、だから推しちゃんにデートを申し込んだ。ならば彼女に従おう。ラッパ飲みで瓶に口を付けてジンを飲み、言われた通りにスポーツドリンクで流し込む。元々、お酒は好きなので苦労はなかった。
「うん、いい飲みっぷりだヨ! あたしも貰うネ」
瓶を推しちゃんが取って、私と同じように口を付けて飲む。いわゆる間接キスで、酔いが回ってないのに私の頬が熱くなる。ドリンクで水分も補給した彼女に、「じゃあ行こうカ、付いてきテ!」と手を引かれて、思えばデートの最初から私は彼女に翻弄されていたのだった。
そこからは夢を見ているようで、現実感がなかった。おしゃれなカフェ&スイーツ店に入って、まるで王侯貴族が食べるような、見たこともない小さな可愛らしいケーキの数々を平らげていく。推しちゃんは、この店を何度も利用しているようで、会計は彼女が支払ってくれた。あれ、おかしいな? 何で私は年下の彼女から奢られてるのだろう?
「次は服、買うヨ! 今日は動きやすい服をお姉さんに着てもらうネ」
私が入ったことすらない高級店で、上から下まで服を揃えられる。全身が黒で、こんなファッションはお葬式か夜遊びでしか着ないと思われた。ネックレスや靴の料金まで、当然のように彼女が支払っている。着替えさせられて、それまでの服は、いつの間にか傍にいた見知らぬ女性が預かってくれていた。店員ではない。夏なのに全身を黒ずくめの長袖スーツに包んでいる。
「お嬢さま、店の前にリムジンが到着しました。そろそろ出発しましょう」
「うん、今行くヨ! さあ、お姉さん。デートはこれからが本番だヨ!」
黒スーツの女性が、推しちゃんを『お嬢さま』と呼んでいて、訳が分からないまま私は外へ連れ出される。そこには藍色というのか、黒っぽい高級車が停まっていて、車体は前後に長い。長いと言ってもハリウッド映画に出てくるようなサイズじゃないけど、七人は座れるだろうか。
私と推しちゃんは座席が二つ並んでいる中央部へ座って、助手席と後部座席には三人の黒スーツ女性が乗り込んだ。うん、こういうシーン、映画で観たことがある。アメリカの大統領がシークレット・サービスという護衛に囲まれて、車で移動する場面だ。
「この車って、貴女のものなの? 周りの方々はボディガード?」
「ううん。リムジンはお母さんので、運転手も借りたヨ。彼女たちは、昔からあたしの家で働いてて、デートに付いてきてもらっただけネ。あたしのお母さんが押し付けてきた、お目付け役だヨ」
私が聞いて、ちょっと不満そうに推しちゃんが言う。「恐縮です」、「我々のことは、お気になさらず」、「お連れさまは、お嬢さまとのデートをお楽しみください」と黒スーツの方々に言われて、(ああ、推しちゃんの親にも、もうデートとして認識されているんだなぁ)と思った。
「ささ、お姉さん、もっとジンを飲んでネ。これから行く所は頭を空っぽにしないと楽しめないヨ」
車は走り出して、推しちゃんから飲みかけだったジンの小瓶とスポーツドリンクを手渡される。もっと聞きたいことはあったけど、黒スーツの女性たちに囲まれての会話は、何というか辛い。私と推しちゃんは車内で呑んで、現実感は更に無くなっていった。
音の洪水、という感覚を知った。私たちは、いわゆるクラブにいる。皆がお酒を飲んで、重低音が響く会場内で、音楽に合わせて声を上げて熱狂しながら踊る場所だ。もちろん私は、これまで来たことがなかった。
入場する前、リムジンの車内で推しちゃんが「お姉さん、これ使っテ」と、サングラスを渡してくれる。洋服と一緒に買っていたようで、推しちゃんは胸元が開いた赤のトップスに着替えた、戦闘態勢だ。自らもカラフルな飾りのサングラスを掛けて、私たちは車から出る。
尻込みをしていた私の手を推しちゃんが引いて、黒スーツの三人が後から続く。クラブの入り口で、それぞれ身分証となるものを提示し、入場した。地下へと続く階段があって、もう音楽というか音が漏れ聞こえてくる。オレンジ色の照明が、壊れかけのランプみたいに点滅しながら階段全体を照らしていて、地下迷宮という言葉が思い浮かんだ。
階段から出た先には酒場がある。男女の客が多く居て、その中の一人が推しちゃんを見て歓声をあげた。
「キャー、みんな見て! 『港区の女王』よ! 港区の女王がクラブに帰ってきたわ!」
推しちゃんが取り囲まれそうになって、黒スーツ女性の三人が、さっと制止する。呆然としている私の前で、推しちゃんは酔客に向かって笑顔で話しかけた。
「その呼び名は過去のものだヨ。女王だったあたしは、今はコンビニ店員に過ぎないネ」
「またまたぁ! もー、冗談ばっかり! 連れの方は紹介してもらえないのかしら?」
客は誰も、推しちゃんの言葉を信じていない。連れの方、というのは私のことだろう。
「いいヨ、ここで宣言するヨ。彼女はあたしの、大切な人だヨ。だから手を出さないでネ、出したらタダじゃ済ませないかラ」
推しちゃんが言って、皆の注目が私に集まる。何と言っていいか分からず、とりあえず軽く手を振っておいた。
「おお、ミステリアス……彼女が『港区の女王』の知り合い……」
「背が高い……かっこいい……サングラスがクール……」
周囲から、過度に美化されている感が凄い。サングラスも合わせて、私の上下は黒ずくめで下はスカートで、映画のマトリックスみたいなキャラクター扱いをされていた。推しちゃんに手を引かれて、私たちは音が大きく鳴っている先の方へと進んでいく。
「やっぱり、お姉さんは流石だヨ! 背が高いから何を着ても似合うネ。クラブでは目立ちにくい、黒の服を着せておいて良かったヨ! 誰かにお姉さんを奪られる心配があるからネ」
会場内の音は大きくなっていって、私たちは自然と身を寄せ合うように話す形となっていた。彼女の体温が感じられる。クラブというのは、人と仲良くなるには良い場所なのだろう。
「ねぇ、港区の女王って何? 歌舞伎町の女王とは違って、陽キャの象徴だとは思うけど」
「その話は後、アト! クラブに来たら踊るのが流儀だヨ。その場で跳ねて、手を挙げて振るだけネ。簡単だヨ!」
階段を下りて、施設の最下層に到着する。そこは最も騒がしく、賑やかで光り輝く空間だった。曲名は知らないけれど日本語の歌詞が流れて、物凄くテンポが早い音楽で体が勝手に動く。楽しい、すっごく楽しい! お酒を飲んで、ご機嫌な曲が流れて、傍には可愛い推しちゃんがいるのだ。気分が上がるのは当然で、「フォー!」と推しちゃんがマイケル・ジャクソンみたいな声をあげた。
三人の黒スーツ女性が警護してくれて、お陰でナンパなどに遭うこともなく、私と推しちゃんは快適に楽しむことができた。ひと仕切り踊った後、私たちは一階上のVIPルームへ移動する。予約しないと利用できないらしいけど、もちろん推しちゃんは事前予約をしていた。