89.触手①
グリーニッジ家が繁栄した要因の一つは、決して皇帝の子を産まなかったことだ。大抵の貴族は、娘を愛妾や側室に送り出すとき、子を産むことで正妻を超えろ、正妻の座を奪えと言い含める。しかし、グリーニッジの方針は違った。決して、子は産むな、と言った。
子を宿せば、その間、別の女が皇帝の寝室に侍る。子を産むことを期待されている家柄ならば、出産後も寵愛を受け続ける可能性はある。しかし、グリーニッジはそれには中途半端な家柄であった。敵もいないが味方もいない。そんな中で子を、特に男子を出産することはどう転ぶか分からない。下手をすればお家断絶ということになりかねない。ならば、若々しさを保ち、一時でも皇帝の傍に寄り添い、耳元で睦言の合間にグリーニッジに有益なことを囁く。その方がグリーニッジにとっては良い。身の程を知った小さな願い事しか言わないのだから。必死に跡継ぎを産まねばならぬという正妻たちに対しても、「こいつは敵にはなりえない」と思われた方が動きやすい。そして、寵愛が過ぎれば、一族の中でも一番美しい未婚の娘と挿げ替える。そうすることでグリーニッジ家はのし上がり、一介の士爵から伯爵位まで手にした。
だが、現当主ムロウダ・グリーニッジは、歴代当主とは異なる考えを持っていた。彼の姉は、侯爵家の後妻、妹はとある国の第三夫人などという座に収まり、まずまずの立場を築いていた。彼女らは、婚姻前は、サロンと称して貴族を邸宅に集め、娼婦と変わらぬ行いをしていた。その縁で、グリーニッジ家の女たちの嫁ぎ先が決まるのだ。これが、グリーニッジに生まれた女たちの宿命であった。
彼女らの使命は、その血を婚家に流すことではなく、婚家を踏み台にして情報収集を行い、それをグリーニッジ家に報告すること。そして、その報告を元にグリーニッジ本家は権力を拡大する。これが、この家で脈々と受け継がれるものだった。
ムロウダの姉は大変美しい人だった。世が世ならば、皇帝の側室として寵愛を受けていたはずだ。だが数代前の皇帝の時代から、側室や愛妾は嫌煙され、帝室も表立ってその存在を認めなかった。ただ、歴代皇帝には、皇妃以外にも数人の愛人がいるのが公然の秘密となっていた。珍しく愛人がいなかったのは、ケイオス一世くらいのものだった。ムロウダの姉は、結局、皇城で栄華を極めることはできず、さびれた侯爵家の後妻になったのだった。本人は特に気にしてはいなかったが。
そんな中、風向きが変わりそうな出来事が起こった。ケイオス一世の唯一の子、マクシミリアン皇子が、婚約者のエレノア・ダルウィン公爵令嬢を疎んじ、カンゲル男爵令嬢を寵愛しているという噂。彼女は側室か愛人になるのでは、三〇〇年あまり公妾や側室といった存在が認められなかった中、ついに復活かなどと日に日にその声が大きくなる。ほとんどの貴族が眉をひそめたが、ムロウダにとって、その噂は朗報としか言いようがなかった。ムロウダの娘は三人。どの娘も美しく、教養もあり、性格も穏やかだ。対し、カンゲル男爵令嬢の評判は酷いものだった。ムロウダも、デビュタントの式典の際に目の当たりにし、「こりゃだめだ」と思った。
マクシミリアンの女の趣味の悪さに呆れる一方で、久方ぶりに、グリーニッジ家の娘が帝室に侍ることができるのでは、と考えた。無論、大貴族であるダルウィン公爵家の令嬢を蔑ろにするつもりはない。むしろ、手を携え、愚かな皇子を二人で支えればいいと思ったのだ。
その後、風はコロコロと向きを変えた。皇子の失態は続き、カンゲル男爵令嬢の評判も皇子と共に地の底まで突き進む。ムロウダは、何度かダルウィン公爵とコンタクトを取ろうと試みたが、公爵は明らかに娘と皇子の婚姻を破断の方向へ進めようとしていた。これでは協力しあえない。しかし、ダルウィン公爵も手詰まりの状態であった。エレノア公爵令嬢に比肩する皇子の次の婚約者など思い浮かぶはずもなく、月日は流れていく。
そうこうするうちに風は嵐に変じた。皇子は軍まで編成し、あわやクーデター寸前となった。いや、あれは明らかに謀反だった。メブロというミルドゥナ大公領で軍事衝突があったものの、マクシミリアンの乱と呼称されることになった事件は何とか収束した。
乱に関わった者たちが次々と処罰される中、なんとエレノア・ダルウィン公爵令嬢たちにも国外追放の沙汰が降りた。彼女らはその後、ラドナ王国に落ち着いたと聞く。もちろん、マクシミリアン皇子も皇族籍から外され、命は助かったものの、僻地へ押しやられた。新たに立太子したのは、リート・ロザ・クラーク・アークロッド皇子であった。
リート皇太子に娘を送り込むことはできない。彼は未婚だが、それはとある噂が囁かれていたからだ。
(わたしの代でグリーニッジ家が再び栄華を取り戻すことはできそうにもない……)
議会の出席を終えたムロウダは、帝都の紳士クラブで蒸留酒を片手に溜息をついた。家ではサロンを采配する身内の要望やら文句やらを聞き続けねばらないし、妻も三人の娘たちの将来のことで煩い。此処は、ムロウダの数少ない逃亡先であった。
「お隣、よろしいか?」
そう声を掛けてきたのは、ロイド・ファネー伯爵であった。髭を蓄えた三白眼の老人で、彼は最後までマクシミリアンの擁護者であった。が、ファネー伯爵家は意見を通せるほどの家柄ではない。小さな穀倉地帯の領地を所有している至って普通の伯爵家だ。
「どうぞ」
ムロウダとロイドは今まで言葉を交わしたことはない。いくつか紳士クラブがあるが、彼がムロウダと同じところに所属していることも、今、初めて知ったくらいだ。ここは、商人や他国の外交官も出入りできるクラブだ。もっと高尚なところになると、出自の審査だけでなく、厳しい規則と高額な会費を納め続けなければならない。
「いやはや。陛下のご容体が気になるところですなぁ。陛下がいらっしゃらないと議会も進まない」
「そうですね」
ムロウダは適当に相槌を打った。確かにケイオス一世の容体は気になるが、議会進行にそう影響はないだろう。問題は、法案認可の際に御名御璽が必要なことだろう。議会は始まったばかりだ。議論を出し尽くして決済するのは、少なくとも1ヶ月先だ。
「そもそも当代皇帝が襲撃されるなどあってはならぬこと。護衛や儀仗兵は何をしていたのか」
「命を落した者もいると聞きますが」
それこそ命がけで皇帝を守ったのではないか。確かに襲撃を未然に防げなかった落ち度はあるだろうが。その場合は責任はどこにあるのだろうか。
「ふんっ。そもそもゲーゲン陛下の御代は皇帝は神にも近い存在であった。御幸もそれはそれは神々しく、民はひれ伏していたよ。それをケイオスの一族が曲げてしまった」
「・・・・・・。再び、ゲーゲン陛下の血筋であるクラーク朝に戻るのであれば良いでは?」
ムロウダにとっては、正直、興味が湧かない話題だ。
ゲーゲンは安定した政治を執り行ったが、権力闘争も激しく、貴族たちは常に水面下で争っていたという。あの頃は、公爵だろうと一歩間違えれば、爵位はく奪の上、平民になることだってあり得た。命があるならまだいい方で、政変の敗北者たちの末路は悲惨であった。だからこそ、グリーニッジ家は表の政治で戦っては負けるため、生き残るために一族の女性を使ったのだ。決して男が簡単に立ち入ることのできない後宮という場で。
あのレオナルド大公が、皇帝になれなかったのはその結果でもある。
「そう、それは確かにそうだ。クラーク朝は、アークロッド王朝の中でも主流の一派であり、ロザを最も繁栄に導いた皇帝の多くは、クラークの血を引いている。ならば、できる限りクラーク朝に戻さなければならないだろう」
この老人は何が言いたいのだろう。ただ話を聞いて欲しいだけで、運悪くムロウダは目を付けられてしまったのだろうか。もしそうなら、グラスに残った蒸留酒を飲み干してさっさと立ち去った方がいいのだろうか。
「ゲーゲン陛下の時代、皇妃はセスティア皇女。ゲーゲン陛下の父上の姉の三番目の姫君。もちろんクラークの血を色濃く受け継いだ生粋の皇女。そして、寵姫はネーナ・グリーニッジ伯爵令嬢だったね。あの頃は皇城には後宮の名残が存在し、華やかな時代だった。・・・・・・ネーナ様は元気でいらっしゃるだろうか?」
「ええ、まあ・・・・・・」
今もサロンの女主人として君臨している。一族の見目麗しい女たちを手元に置き、自ら淑女教育を施し、サロンでデビューさせている。
「わたしはね、あの時代を取り戻したいんだよ。ロザ帝国が世界一の大国であり、皇帝を絶対君主として据えたあの時代。あの頃は大貴族といえども皇帝の意向に逆らう者などいなかった。皇帝を支える皇妃や側室、愛妾たちも己の立場をわきまえ、陛下に尽くした。今回のことも、マクシミリアン皇子殿下のことも、陛下の威光が弱まってしまったが故の不幸だ」
「・・・・・・一族の娘を、リート皇太子の愛妾に差し出せとおっしゃっているので?」
「いいや。リート皇太子は即位してもすぐに退位されるつもりだ。その次のアレックス・リース公爵令息に準備させる時間を与えるだけの存在だ」
「ならば?」
「わたしは、マクシミリアン様に再度、たっていただきたいと思っている」
「矛盾していませんか?マクシミリアン様は、あなたの嫌悪するケイオスの血を色濃く受け継いでいらっしゃいますよ?」
「分かっているとも。だから、マクシミリアン様との間に男子を誕生させ、クラークの血を引く娘と婚姻させるんだ」
随分と長期的な計画だ。仮に成功しても、ロイドは年齢的に見届けることはできまい。
「・・・・・・クラークの血筋の皇女はいるにはいますが、年齢的にも適当な人はいないのでは?」
「ふんっ。今、最もクラークの血が濃い娘は誰か分かるか?」
「・・・・・・。それは・・・・・・」
誰だろう。帝室の人間もだいぶ少なくなった。臣籍降下した皇子も多いし、嫁いでいった皇女も多い。彼らは元皇族として一部の公務に携わるものの、皇族籍から除外され、扱いは貴族だ。ケイオス一世は子を一人しか授からなかったし、リートを除けば、あとは年老いた者たちばかりだ。
「ラティエース・ミルドゥナだよ」
「ああ、確かに・・・・・・」
ラティエース・ミルドゥナ。元侯爵令嬢だが、ミルドゥナ大公の孫女としての地位は保有したままだ。祖父のレオナルドはもちろんクラークの血族筆頭であるし、大公妃であったラティエースの祖母も、二代遡ればクラークに行き着く。
「アレックス・リース公爵令息は皇太子即位の交換条件に、ラティエース・ミルドゥナを皇妃にと要望しているらしい」
「元々、婚約していましたよね」
「ああ。そういうことで、アレックスの皇妃に関しては、今回の議会で議題にかけられる。わしは反対するつもりはない。むしろ大歓迎だ」
「・・・・・・つまり、そのお二人の子と、マクシミリアン様のお子を婚姻させる、と?」
「ああ。さしあたってはマクシミリアン様の地位を向上しなければならない。そのために力を貸してくれんか?」
「わたしがですか?お力になれることはないと思いますが・・・・・・」
「あんたのところ次男坊には未だ婚約者はいなかったな?」
「ええ、まあ・・・・・・」
次男ということもあり、跡継ぎの長男よりは自由にさせている。今は学園の中等部に在籍している。本人はそのまま専科に進む気でいるようだった。次男には専科までの学費は保証すると告げてある。
「マクシミリアン様には今、娘がいる。アーシア様という」
「えっと、おいくつですか?」
「確か、五か六くらいだったかな」
「うちのは、15歳ですよ?」
「10歳差など許容範囲だ」
「ええ・・・・・・」
とにかく即答はできない。
「一度、家に持ち帰り、家内にも相談してみます」
「構わんが・・・・・・。此処は分岐点だぞ?かつての栄光を、グリーニッジの女たちがかつて「ロザの華」として栄華を極めた時代を取り戻せるかどうか。それは当主であるあんたにかかっているんだからな」
はあ、とムロウダは煮え切らない返事をする。ロイドは不満げに片眉を上げたが、黙ったままだ。内ポケットから紙片を取り出し、それをムロウダに受け取らせた。
「わしだけが考える夢想ではない。この計画には他の貴族の賛同もある。決まったら、そこに連絡をしろ」
しばらくして、ムロウダはその紙片をネーナに手渡した。ネーナは一言「わたしに任せなさい」と言ったきり、この話題は霧散した。
ほどなくしてムロウダの次男とアーシア・アークロッド伯爵令嬢は婚約が整えられ、ロザはリート派とマクシミリアン派の対立が表面化していくのであった。




