76.兆(ぜんちょう③)
ロフルト教皇国も「国」である以上、政治を執り行わなければならない。女神だけを信奉していても腹は膨れない。国民がいる以上、その長である教皇には彼らを庇護する義務がある。代わりに人々は信仰と、そして労働の対価である金を教会に寄付をするのだ。
ロフルトの政治、俗世の部分を采配するのは、教皇と長老会であった。
長老会は大老を長として、元枢機卿や神兵の軍人、今はいないが元教皇も長老会の一人として名を連ねていたこともある。彼らは教会においてひとかどの成功を収めた者たちからなる集団であった。建前上、何の権限もないとされ、俗世に疎い教皇の相談役を務めとする。しかし、実態はロフルト教を信奉する国々の交渉窓口となっているため俗世での影響力は強く、その国々から受け取った寄付を盾にロフルト教皇国でも派閥を形勢、枢機卿や神兵軍に影響を及ぼしている。
長老会との会議は疲れる。精神的にも、肉体的にも。玉座にしどけなく座るビジーノは嘆息した。前教皇もそうであった。この時間を倦み嫌っていた。
玉座は円卓を見渡せる段の上に据えられていた。10人がそれぞれの意見を出し合っているが、ビジーノからすればただの罵り合いだ。
「秘術の法陣が未だに反応を見せないのはどういうわけか」
一人がそう言えば、対面から不満の声、批判の声が上がる。
「此度の聖女様はとても幼い。聖女としての務めも理解できていないのだ」
「それを言って聞かせるのが、秘蹟省の役目じゃないか」
「大体、あの3人の娘は何なのだ!我が物顔で宿舎を歩き回り、派手な服を着て、法典の一遍も諳んじられないというではないか。聖女様の世話が終わったならとっとと追い返せばいいものを」
「聖女様がそれを望んでおられない。もし3人を無理にでも帰国させたら、今度こそ本当にどうしようもなくなるぞ」
喧々囂々とはこのことを言うのだろう。会議の推移を黙って見守っているのは、ビジーノ以外では大老のフェネルだけであった。
フェネル。先々代から大老の地位にあった老人だ。一言で言えば老獪。ライバルを含めた敵に対し、彼は神職者とは思えない残忍な手で始末してきた。真っ白な髭も真っ白な頭髪も、そして真っ白な法服も彼には相応しくない色だ。
(黒だ。こいつは真っ黒が似合いだ・・・・・・)
普段は飄々としていたスフォンも、フェネルの前では借りてきた猫よりも大人しかった。いや、怯えていた。恐怖を抱いていた。
「そもそもアカネ様の召喚と秘術発現には、3年を要している。焦ることはないだろう」
「しかし、アカネ様の場合は、3ヶ月後には法陣が力を溜めていた」
この場に、アカネとビジーノが同一人物であることを知る者はフェネルだけだ。他はスフォンが亡くなったときに一新された。旧長老会のメンバーがどうなったかは、フェネルしか知らないし、ビジーノも問うつもりはない。
(ラティエースだったか・・・・・・)
先日、寝所にまで忍び込んできた世話係の娘の一人。ビジーノの本当の目的を言い当て、本当にそれでいいのか、と問うた。あの真っ直ぐな目はビジーノの心を穿った。そのためだけに生きてきたビジーノをアカネに戻し、決意を揺さぶった。途中、フィンが飛び込んできたが、ビジーノは突き出すようなことはせずに、庇った。あれは咄嗟の行動だった。何とかフィンを追い返せば、ラティエースは腰が抜けたという。
ビジーノはその場面を思い出して、軽く苦笑した。
大胆な行動に出たと思えば、腰を抜かしたと言う。さすがはレンの友人と言うべきか。しばらく腰をさすってやると、ラティエースは一つ提案をしてきた。
――――――わたしも別の世界から来ました。わたしをユリの代わりに贄に出来ませんかね?
確かにできなくもない。未完成の法陣の上で秘術を行使し、しかも本来の贄ではない者を使えば、失敗は確定的だろう。それはビジーノの目的とも一致する。
しかし、だ。何故、そうまでして聖女を守ろうとする。自分の妹でもなかろうに。尋ねたかったが、レンがラティエースを迎えに来たため、此処で話は終わった。
ビジーノはふと視線を円卓に戻した。相変わらず堂々巡りの議論に終始している。聖女を廃し、新たな聖女を召喚しろだとか、試しに秘術行使をしてみてはどうだ、と言い出す者もいた。此処に居る者たちの中に、召喚も秘術も発言している者ではなくビジーノが行うということを分かっていっているのだろうか。
(こいつらは、ずっとこうなのだな・・・・・・)
魔法障壁を消し、女神を取り戻すというが取り戻してどうするのだろうか。女神の奪い合いは、つまりは戦争をするということだ。ならば、召喚も秘術も失敗し続けた方が、平和は維持されるのではないか。スフォンにも、何故、取り返す必要があるのかと問えば首を傾げた。最終的には「元々、この国の女神だから」と自分を納得させるかのように言っていた。
歴代の教皇はこの玉座から円卓の議論を聞き続け、こいつらを満足させるために召喚と秘術を行ってきたのかと思うと哀れに思えた。
「もうよい」
ビジーノはそう言い捨てて、玉座を降りた。静まりかえった議場を一顧だにせず、退出した。
夜半。ラティエースは微かな衣擦れの音に気がついた。闇に目を慣らすために何度か瞬きを繰り返し、息を詰めて辺りをうかがう。
最近、ラティエースは出入り口近くのソファーをベッド代わりにしていた。物音ですぐに飛び起きて対応できる。寝室にもレンの結界が張ってあるので、万が一のことが起こっても、ラティエース一人で時間稼ぎくらいはできるはずだ。もちろん、聖女の居室の出入り口には神兵軍が守ってくれているが、いつ敵に変わるか分からないのだ。
「ラティエースさん、起きていますか?」
気配がゆっくりと近づいてくる。
「ウェルチカ?どうした?」
大抵、ウェルチカは、ユリの寝支度を終えると私室に下がる。今日も「お疲れ様」と言って別れたはずだ。どうして、此処に居るのか。しかもこんな時間に。
「護衛の方に入れてもらいました」
ラティエースの疑問を悟ってか、ウェルチカは言った。
「―――――長老会の一部が聖女様を亡き者にしようと動いているのはご存じですよね?先日も暗殺未遂がありましたから」
ああ、とラティエースは微かに頷いた。
「長老会の中でも過激派と呼ばれる一派が聖女様の襲撃しようと動いています」
だから、とウェルチカは言葉を切り、雑嚢を差し出した。
「聖女様とエレノア様、アマリア様を連れて逃げて下さい」
「ちょっと・・・・・・」
「これは教皇聖下の思し召しです」
「聖下の?」
はい、とウェルチカは頷いた。
「たとえ聖下でも老獪な大老率いる長老会を御することは難しいのです。こういう手段でしかお助けできないことを詫びておられました。部屋を出て突き当たりを左へ。庭園へ出る廊下の手前にトイレがありますよね。そこの一番奥のドアは鍵が掛かっていますが、その袋にドアの鍵が入っています。そこは地下道へ続く隠し扉になっています。そこを抜けて道なりに行けば地下水道に続いています。地下へ地下へ行けば、やがて街へ出られます。通行書は人数分入っていますので、これですぐに出国できます」
「・・・・・・ウェルチカはどうするの?」
「わたしは聖下の庇護がありますので。皆さんが出発したらすぐに聖下の元へ避難します」
ラティエースは雑嚢とウェルチカを交互に見つめ、ウェルチカに向き直った。
「ユリたちの支度を調えて出発するまで時間は稼げるか?」
「はい。扉の見張りには眠ってもらいます。差し入れの飲み物と菓子に薬を入れます。効果は少なくとも朝方までは続くはずです。それまで交代の見張りはありませんし、聖女様の部屋を行き来する修道女たちもいません」
「・・・・・・。ウェルチカ、差し入れは今から半刻後にしてくれ。それまでにユリたちを説得して連れ出す」
「分かりました」
「ウェルチカは差し入れを渡したらすぐに逃げるんだ。いいね?絶対にこの建物に戻ってきたりしちゃだめだ」
「はい」
「聖下に礼を伝えてくれ」
「分かりました」
ウェルチカは頷いた。
「じゃあ、さっそく行動開始だ」




