68.現(いま)
マクシミリアンは、慣れ親しんでいたはずの皇城の廊下を、新鮮な思いで歩いていた。3年前は、毎日のようにこの廊下を歩き、行きたい場所に向っていた。最後にこの廊下を渡ったのは、兵士に引きずられ、バーネットと挙式をした時だった。
明日、マクシミリアンはこの城を発つ。マクシミリアン・アークロッド伯爵として、新たに与えられた領地に向うのだ。監視付き、領地外に出ることは基本的に禁止だが、それでも随分と自由を与えられたものだ。極刑は覚悟していたし、それほどのことを自分は犯したのだ、と自覚している。
自覚の切っ掛けは、やはり娘の誕生だろうか。無垢な赤ん坊に、恐る恐る自身の人差し指を近づけ、その指を娘のアーシアが握ったとき、その力強さに驚くと同時に、気づいたのだ。己が何をやったのかを。その側では、娘を抱こうとも、見ようともしないバーネットの姿もあった。
アーシアとは引き離されると思っていたが、意外にも養育を許された。部屋も牢から自分が使っていた私室に移され、その部屋を改装して三人で暮らすようになった。しかし、バーネットはずっと塞ぎ込み、マクシミリアンとアーシアを無視し続けた。
乳母や侍女の手伝いを借りながら、必死にアーシアを育てた。生まれて初めて、頭を下げた。助けてくれ、教えてくれ、と。娘のためならば、土下座でも何でもするつもりであった。その誠意を認めてくれた侍女や乳母たちが、丁寧に子どもの世話の仕方を教えてくれた。アーシアが熱を出したときは、交代で面倒を見てくれた。少しは寝た方が良い、と彼女たちは優しい声を掛けてくれた。
しばらくしてマクシミリアンは、この寛大な処置がアレックスとブルーノによるものだと知る。帝室派はアーシアを利用しようとマクシミリアンと娘を引き離そうと画策したが、すべてあの二人が阻止してくれたそうだ。
(本来なら、俺も娘もそれにバーネットだって殺されていておかしくないんだ)
生かす方が余程難しいだろうに。殺してしまった方が楽なのに。思惑はあるのかもしれないが、あの二人はマクシミリアンの命を惜しんでくれた。
そんな中、マクシミリアンの処分が決まったと、アレックスが告げに来た。3年ぶりのアレックスは、精悍で甘やかな雰囲気を微塵も見せない官吏の顔をしていた。
「恩赦?」
マクシミリアンは譫言のように言った。
「そうだ」アレックスは肯首し、「アークロッド伯爵位が与えられ、領地も与えられる」
「そうか・・・・・・」
不思議な感覚であった。処刑されると思い込んでいたから、まさか助命だけでなく、生きる場所だけでなく、貴族の一人として収入を得られるとは思わなかった。市井に着の身着のまま放り込まれて、勝手に死ねと言われた方がよほど腑に落ちる。
「バーネットとアーシアはどうなる?」
「もちろん一緒だ」
そうか、とマクシミリアンは安堵の息を吐く。
と、そのときであった。
「アレックス君!!」
バーネットが飛び込んできた。ソファーに座るアレックスに抱きつく。
「バーネット!?」
アレックスは無言のまま、目を丸くする。
「やっと迎えに来てくれたのね!!」
アレックスは冷ややかな目でバーネットを見やり、ゆっくりと身をよじって、抱きつくバーネットから離れる。マクシミリアンはいたたまれない様子で俯く。
「伯爵位は来月の官報で発表される。領地赴任は年明けになると思う」
「ああ。・・・・・・すまない」
バーネットの所業をマクシミリアンは小さな声で詫びる。
「ねえ、アレックス君!わたしね、本当はあなたのことが・・・・・・」
マクシミリアンがなぜアレックスに謝ったかを全く理解できていないバーネットは、今度はアレックスに自身の腕を絡ませる。
と、バーネットの言葉を遮ったのは、赤ん坊の泣き声であった。先ほどまで隣室で寝ていたのだが、先ほどの騒ぎでアーシアが起きてしまったようだ。
バーネットはその泣き声に不快そうに眉をひそめる。
「煩いわね」
そう吐き捨てた。
アレックスは特に何も言わず、バーネットの腕を払い、部屋を後にした。
そういうこともあり、面会の申し込みは恥知らずな行為かもしれないと思ってもいた。だが、やはり最後くらい会って、感謝の意とこれまでの贖罪を言葉にしたかった。建国祭から年明けは皇城の忙しさはピークになる。ようやく諸々のイベントを終え落ち着いた頃、マクシミリアンの出発日が決定したのだった。
マクシミリアンは父のケイオス一世に対しても同じ思いがあり、面会を申し込んだが断られた。孫娘にも一度も会いに来なかった父だ。皇帝が罪人の子に会えば、何を言われるか分かったものではない。そういう理由もあったのだろう。母は別の理由で孫に会おうとしなかった。元皇妃は、バーネット自体を認めていなかった。息子を堕落させ、破滅に追いやった憎い娘という感覚だ。今も一緒に生活をしていることも、これからも一緒にいることを選んだマクシミリアンに対しても怒りを募らせている。さらには、自身の離縁だ。連続する不幸に、皇妃は耐えられず、自殺未遂まで起こした。
しかし、父はそのことについて何も手を打たず、事実上の放置とした。マクシミリアンの赴任に、元皇妃も同道させるという勅命を変えはしなかった。失意の元皇妃は、床に就いたままである。母は心のどこかで快癒するまでは皇城にいていいと言われると期待していたのだ。が、そうはならず、馬車には寝台が運び込まれていた。領地までは、3個小隊の帝国軍が護衛としてついてくれる。もちろん、見張りも兼ねているだろうが。
「どうぞ、こちらです」
夕暮れ時、案内の侍従は言った。通された部屋は、備え付けの家具があるだけだ。絵画や花瓶といったインテリアは一つも飾られていない。ただ乱雑に書類が重ねられているだけだ。意外と潔癖症で整理魔なアレックスには似つかわしくない部屋だが、それだけ忙しいのかもしれない。その部屋を通り抜け、バルコニーに案内される。
マクシミリアンを出迎えるために、中央のテーブルにはワインやグラス、簡単なオードブルが置かれ、一応、花も飾られていた。外は雪がちらつくくらい寒いのだが、バルコニーには火鉢が置かれ灯りも点されているからか、温かいくらいであった。バルコニーの向こうには、庭園が広がっていた。
贅沢だな。そんなことを、自分はいつから考えるようになったのか。
「相変わらず忙しそうだな」
「そうか?まあ、そうだな・・・・・・」
庭園がよく見える席を勧めながら、アレックスが言った。アレックスはマクシミリアンのグラスにワインを注ぎ、自身のグラスにもワインを注ぐ。そして、そのまま瓶をマクシミリアンの前に置く。後は好きにやってくれ、ということだ。
「この場を設けてくれて、感謝する」
マクシミリアンは言って、杯を掲げた。
「この間は邪魔が入ったからな」
悪戯っぽく言ったアレックスは杯を掲げ、マクシミリアンの杯に合わせた。二人は無言で杯を空ける。今度はマクシミリアンが、アレックスのグラスにワインを注ぎ、自身のグラスも満たす。
「バーネットは、ずっとああなのか?」
「ああ。ただ、お前が恩赦の件を伝えに来てくれたことがあっただろう。あれから、ずっとお前に執心しているよ」
「・・・・・・。知ってるよ。侍従を唆して、手紙を送ってきた。それも何度も」
その侍従はすでに解雇している。バーネットの所業は知っているだろうに、なぜか籠絡される男が後を絶たない。それが、バーネットの魅力とでも言うのだろうか。最近では、男は付けずに侍女と女性兵士に仕事を任せていた。
「そうか・・・・・・」
不思議と怒りは湧かない。むしろバーネットらしいとすら思った。
「・・・・・・。バーネットを置いていく方法もあるぞ?」
アレックスは静かに言った。口にすると言うことは、マクシミリアンに置いていって良いと言うのと同じだ。
「それは・・・・・・」
それは楽な道だ。バーネットを切り捨て、与えられた領地で娘と共に暮らす。乳母や侍女は、領地まで付いてきてくれると言ってくれた。娘の成長を共に見ていきたい、と。そう言ってくれた。
ただマクシミリアンは思う。楽な道は、正しい道なのか、と。
アレックスたちが楽な道を選ばなかったから、今の自分があるのだ。
マクシミリアンは、自分が誰かの善意で生かされていると、今なら理解できる。
「いや、連れて行くよ」
(バーネットは喜ばないと思うけど・・・・・・)
置いてはいけない。置いていけば、アレックスたちはまた苦しむことになる。マクシミリアンがいるからこそ、バーネットは生きていられるのだ。置いていけば、帝室派と貴族派の両方から命を狙われることになる。バーネットの命を惜しむ者など極僅かだ。
「そうか・・・・・・」
アレックスはチラリとマクシミリアンの左手の薬指を見た。針金のような細い金属の輪がその指にはめられていた。バーネットの指には何も付けられていなかったことをふと思い出す。
「ところで、次の皇帝はお前か?」
「ああ、すぐとはいかないが。地固めをして即位するよう言われている」
アレックスはグラスを揺らしながら言った。
「そうか。お前なら立派な皇帝になれる」
マクシミリアンは心からそう言った。
「・・・・・・最初は断っていたんだ。直系はいなくても俺よりも血が濃い皇族は多いし。ただ後ろ盾やら年齢を考えると俺が適任らしい。一つ条件を出して承諾した。それがかなえられないなら、皇帝には即位しないと伝えてある」
「条件?」
「皇妃に、ラティエースを望んだ」
「それは・・・・・・」
「我ながら未練がましいと分かってるんだが・・・・・・。そうじゃないと、俺は皇帝なんて重責、耐えられそうにない。せめて自分が望んだ女性に側にいて欲しい・・・・・・」
かつて、マクシミリアンも、同じような思いでバーネットを皇妃に望んだ。だが、マクシミリアンは自身が皇帝になるのは当然で、自分さえいれば皇妃が誰であろうと同じだと勘違いもしていた。度重なる失態を、バーネット一人に押しつけたこともあった。今となっては愚かしい考えだったと分かっている。そういう意味ではエレノアは最適の婚約者であった。知性と機知、その他にも皇妃としての条件を多く満たしていた。その優秀さをマクシミリアンは疎み、嫉妬した。彼女はいつだってマクシミリアンを貶めるのではなく、支えるためにその知性を使おうとしてくれていたのに。その差し出された手を、マクシミリアンは最も下劣な手法で打ち払ったのだ。
「あの能面絶壁女にまだ懸想していたのか」
アレックスはヒュッと息を飲み、マクシミリアンは見やる。マクシミリアンはニヤリと笑った。その間抜け面を拝めただけで、マクシミリアンは満足であった。ようやく一つ、アレックスに勝てた気がする。
「お前だって、童顔巨乳が好みだったろ。昔、メイドにいたろ、そういう人が」
バーネットもどちらかというと童顔で、女性らしい肢体をしている。
「何で、お前がそれを・・・・・・」
返す刀で言い返えされて、マクシミリアンは目に見えて動揺する。誰にも言ったことがなかったのに。何なら墓場まで持って行く秘密にするつもりだったのだ。
「やたら気に掛けていたじゃないか。そのメイドが結婚退職することを知ったとき、お前、寝込んだろ」
「うっ、煩い!」
懐かしいやりとりだ。ロザ学園に通っていたときに戻ったかのようだ。こういう軽口も年を経るごとに減り、特にバーネットを寵愛するようになってからは、事務的なやりとりに終始していた。
「ブルーノはどうなんだ?」
マクシミリアンは無理矢理話題を方向転換させる。
「ブルーノ?あいつは、ただのシスコンだ」
アレックスはひきつった微笑を浮かべる。先日、手紙をもらったと喜びの舞を披露していた。しかし、その手紙は手近な紙片に書きなぐった手紙というより伝令文のような簡潔な文章であった。本人が嬉しいなら水を差すような真似はしないが、最近は少し煩わしい。
「シスコン?あいつがか?」
「そう。いろいろあって目覚めたんだ」
その色々が気になる。あれほどまで姉を嫌っていたのに何があったのか。
「もしそうなら苦難の道だな。ラティエース大公女殿下を皇妃に迎えることは歓迎されるだろうが、ブルーノとミルドゥナ大公は許さないだろうし、本人も嫌がるだろ」
それに、ラティエースの友人、エレノアやアマリアも妨害してくるだろう。
「ああ……」
それでも、分かっていても、アレックスはラティエースが欲しい。
大きな、大きな鳥かごを用意して、その中で、自由を謳歌してほしい。自分が鳥かごにいることも気づかせず、鳥かごの先が見えないくらい、大きなものを用意するから。それでもだめなら、飛べないよう翼を折るしかない。そんな物騒なことを、アレックスは考えている。そして我に返って自己嫌悪に陥る。その繰り返しだ。
「お前、女の趣味悪いよな」
マクシミリアンはグラスを揺らしながらポツリと言った。
「お前だけには絶対に言われたくない」
そう言ってそっぽを向いたアレックスの横顔は、どこか少年らしさが残るものがあった。
翌日。
マクシミリアンは領地に向けて出立した。その際、皇帝の私室のバルコニーに人影が映った。自分の都合の良い妄想かとも思ったが、それでも良い。父に届いてくれれば、という思いで、マクシミリアンはバルコニーに向けて、深々と頭を下げた。
これまでの感謝を、その一礼に込めた。
(父上。お元気で・・・・・・)




