69.過(かこ)
――――――愛しているよ、アカネ。
毎日のように言われた。
――――――愛しているよ、アカネ。だから、わたしの願いをかなえておくれ。
願いを叶えれば、あの人はもっとアカネを愛してくれる。今よりもずっと大切にしてくれる。そう信じていた。きっと、囚われている女神よりも、アカネを一番に想ってくれるはずだ。
――――――かの国に囚われた女神を解放する。それが我らの悲願なのだ。あれは元々、我らのものだったのだ。
そのために、アカネがすることは一つ。魔法国に捕らえられた女神を解放するために、魔法障壁を壊すこと。女神を贄にした障壁は強固で並の聖法では壊せないが、女神の化身たる聖女を使った秘術ならばそれが叶う。たとえ死んでも本望だった。
しかし、秘術に耐えられなかったのは、アカネではなくあの人だった。
――――――アカネ。わたしの代わりに叶えておくれ。
今際の際に呟いたあの人の言葉は、そのままアカネの願いとなった。
ビジーノは、ゆっくりと覚醒した。見慣れた天蓋が視界に広がる。紗の向こうでは、修道女が顔洗い用の桶や、祭服を持って静かに動いている。
久しぶりに見た昔の夢。
あの聖女の影響か。それまで昔を思い出すのは、本当に稀であったのに。
(それとも、己の本分を忘れるなと夢枕に立ったのか?)
それくらいやりかねない執念が、前任者にはあった。
ビジーノは半身を起こす。
「聖下、お目覚めですか?」
ああ、とビジーノが言えば、紗が取り払われ、桶を持った修道女が現れる。桶をサイドテーブルに置いて、ビジーノの洗面を待った。洗顔が終わると、修道女が手巾を差し出す。サッと顔の水滴を拭い、手巾を桶に放るようにして投げる。
着替え終わったタイミングで、レンが入ってきた。最近は、レンがビジーノの秘書官役を担うようになっていた。今日の予定を一通り確認し、レンが最後に言った。
「本日は、聖女様との晩餐が予定されています」
「そうか・・・・・・」
「少しはお近づきになれたのでは?」
レンが戯けていった。寝台から降りるときに、レンがさりげなく手を差し出す。その手につかまり、ビジーノは寝台を降り、朝食の並んだテーブルに座る。レンに顎で対面に座るよう指示する。
「あれでは、秘術の陣が発動するまでいつになるか分からん」
「では、止めますか?」
「それができたら苦労しない」
ビジーノはパンをちぎりながら素っ気なく言った。
「長老どもが煩いったら・・・・・・」
「そちらは、僕とトリト卿で抑えていますから。あまり気になさらないで下さい。あの人たちは言うだけで何も出来ない木偶棒です」
ビジーノはプッと吹き出す。
「そなたの毒舌は相変わらずだな」
はははっ、とビジーノは愉快そうに笑う。その様子を、レンは細めた目で、眩しそうに見つめていた。
初めて見たとき、まるで女神のようだと思った。
「師匠。あの方はどなた?」
師匠のトリトは、レンの指さした先を見て、ああ、と言った。
「聖女・アカネ様だよ」
隣にいるのは教皇か。二人は並んで歩いている。聖女は真っ白な、真珠の光沢をもつドレスを着ていた。腰まで流れる緋色の髪が風に舞う。その髪を抑えて、はにかんで笑う聖女。教皇は、聖女を愛おしそうに見て、頭を撫でる。
「女神様みたい……」
レンはうっとりと言った。
「ある意味、女神様かもね。聖女は女神の化身と言われているからね」
トリトの言う言葉に、レンは何も疑いを持たなかった。あんなに美しい人が、この世にいるなんて思いもしなかった。壁画のように背中に大きな羽があれば、間違いなく女神そのものだ。
どんな声をしているのだろう。
どんなふうに笑うのだろう。
何を考えているのだろう。
レンは聖女に恋い焦がれるようになった。
あの人の側にいるのはどうすればいいのか。トリトは、まじめに修行すればよいと言った。だから、その目的を達成するために、レンは真剣に修行に励んだ。あまりの変わりように師匠は、目を丸くしていた。
聖女召喚は、一大ニュースであるはずなのに、なぜか、箝口令が敷かれていた。当代教皇が聖女召喚で疲弊し、肝心の秘術を行うための聖力が回復しない。聖女召喚イコール秘術行使と同じ扱いなので、万が一、秘術が出来ないとなれば、教皇としての地位を失う。それを恐れての処置だった。
当代教皇にぴったりと寄り添う聖女は聖法の才能を開花させ、教皇に治癒の聖法をかけるようになっていった。教皇はみるみるうちに回復していった。
教皇が回復する一方で、聖女は衣装が派手になり、化粧も濃くなった。最初は疲労を隠すためかと思われたか、そうではないようだった。教皇が回復するごとに、彼女の身体には宝石が飾られるようになった。彼女の部屋は豪奢になり、享楽的な笑い声が聞こえることもあった。
教皇は、聖女の存在を知る一部の者たちに、口癖のように言っていた。
愛しているから与えている、と。聖女も同じだ。教皇を愛しているから、その力を振るうのだ、と。
レンには、教皇の愛が全く理解できなかった。レンの想像する愛とはかけ離れていた。レンにも正しい愛がなんなのかは分からないが、ただ二人の愛はどこかいびつで、何かが欠けているように思えた。だのに、二人ともとても幸せそうに笑う。
月日は流れ、秘術が失敗したという報告を、レンは遠く西方で耳にした。秘術は成功すれば、魔法障壁を消すほどの威力を発揮するが、失敗すれば、その代償は命で支払わなければならない。
愛し合っている二人の秘術が失敗したという。レンはますます訳が分からなくなった。秘術の成功は、愛なのではないか。二人の気持ちはやはり偽物だったのか。レンは急ぎ、教皇国に帰国した。
次の教皇が決まらない中、当代教皇の葬儀が盛大に行われた。聖女ももちろん参列した。初めて会ったときと同じ真っ白な衣装を身に纏い、緋色の髪をなびかせていた。
そして、レンは見た。聖女がうっすら笑っているところを。
あの微笑の理由は何なのだろう。
愛を全うしたことへの満足の微笑か。
すべてが偽りだったことへの自嘲の微笑か。
どちらにせよ、レンには美しい、女神の微笑であった。




