62.祈(いのり)
ロフルト教総本山の総寺院、大ロフルト寺院は、帝都のミッターマン寺院よりもはるかに壮大で荘厳な遺跡のような建物であった。また厳粛で剛さも感じられる寺院であった。現世のアン◯ール・ワットを彷彿とさせる石造りの建物には古代の神々や天地戦争の場面を表した壁画が壁だけでなく、天井にも描かれていた。ミケ◯ンジェロの天地◯造にも劣らない美しさである。現世では画集でしか見たことはなかったけれど。
「すごいな」
「うん、すごい」
「ええ、凄い」
これほどのものを目にしながらこんな言葉しか言えない自分が恥ずかしく思える。いや、つらつら言葉を重ねるより一言にすべての思いを込めた方がいいのか。とにかく圧巻の芸術に釘付けになる。
礼拝堂に続く広間や廊下ですらこの規模なのだ。最奥の礼拝堂はどれほどの芸術作品がつぎ込まれているのだろうか。
「礼拝堂は、3000人が収容できるスペースがあるそうよ」
案内状を見ながらエレノアが言った。
エレノアがラティエースたちと同様、興奮しているのには理由があった。ロザ帝国の代表として、二回ほどこの大礼拝に参加したことがあるが、今回のように大正面口と呼ばれる正門から入ったことはなかったらしい。いつもは、礼拝堂に直結する四箇所の入口から、自分に割り当てられた席に近い入口から入っていたそうだ。大礼拝堂は一般公開されていないので、こういう機会でしか信徒でもないラティエースたちは入ることができない。3人はとても貴重な体験をしたというわけである。
(現世では、忙しかったのと金もなかったから、ルーブルもア○コール・ワットも行ったことなかったけど、転生先では、ちょいちょい観光名所を訪れてるなぁ・・・・・・)
ラティエースはなんだかしみじみと思ってしまう。
「うん、余裕で入りそうだな」
「エリー。礼拝って、いつもの感じのやつ?司祭様が教典を読み上げて、合図で座席の下の床に膝をついて両手を握って胸元にやって目を瞑る。で、よかったっけ?」
「ええ、そうよ。いつもよりちょっと長いと思っていればいいわ。床にはふかふかのクッションと絨毯が置かれているから膝もそう痛くないわよ」
「そっか。じゃあ、我慢できそう」
「前の席の背もたれの中ほどに、少し出っ張った板がある。そこに肘をついて目を瞑って寝ときゃいいのよ」
「なるほど」
「前みたいに、鼾かいたら〇すわよ」
瞳孔が完全に開き切った状態で、エレノアがラティエースをにらみつける。さながら、猫に狙いつけられたネズミのようだ。
「……うっ、うっす」
ラティエースは小さな声で返す。それは、まったく自信がないと申告していることと同義であった。
降臨祭。女神降臨を祝し、人々は祈りをささげた。その祈りは、女神が消えた後も続けられ、今も降臨祭という名で大きな祝祭を行っている。
大礼拝堂の礼拝は、通常の礼拝とは異なり、枢機卿、司祭が勢ぞろいし、女神降臨の教典を読み上げる。その後、祝歌隊が聖歌を歌いあげ、美しいハーモニーに人々は魅了される。
教皇は、この礼拝堂よりもさらに上の霊峰ロフルトに作られた廟に籠り、聖女召喚の儀を執り行うらしい。そのためには人々の祈りは必須だそうで、礼拝堂で礼拝が始まるとしばらくして、廟に知らせるように、鐘楼の鐘が鳴る。
ラティエースたちは合図に合わせ、両膝をクッションの上に乗せ、祈りのポーズを取った。エレノアに怒られないよう背筋を伸ばし、目を閉じる。何重にもなって奏でられるパイプオルガンの音が心地よい。
だが、5分もすれば飽きてきた。いや、3分くらいしか経っていないのかもしれない。
まず、ラティエースは首を上に向け、天井を見やる。天井画はなく、ただ高い天井と、尖塔になっているのか上に行くにつれ天井は広がるではなく狭まっていた。尖塔の先に行くにつれて光はなく、黒い影のように円錐の形を映し出している。ステンドグラスはあくまで視線より少し先の高さなので、天井はただの黒い壁と同じだった。
ステンドグラスには、女神が降臨した様子や、人々に祝福を与える様子、人々が神たちと戦うその後ろで、大きな両翼を広げ、街の建物の中でうずくまる女子供を守る姿など。一連の歴史の推移がひと目で分かるように描かれていた。
首を戻し、周囲を見やる。すでに前列の席の出っ張り板に肘をついて寝ているのか、真剣に祈りをささげているのか分からない人がちらほらと見て取れる。
(よしっ。きっと30分は経っただろう)
そういうことにして、ラティエースも前列の板に肘を置こうとした。と、その時であった。
ラティエースの髪がフワリと風に舞った。何故だろう、とラティエースは徐に顔を上げる。入口は開始と同時に封鎖されたし、建物はステンドグラスや石壁に囲まれて、風が入ってくる余地などない。なのに、今、風が入ってきた。
(一体、どこから……)
周囲を見回すラティエースに、エレノアが不思議そうに見る。片方の肘がラティエースの腹部に向けられているのは気のせいと思いたい。
「今、風が……」
ラティエースが言うと同時であった。
微かに地響きがした。この瞬間、ラティエースの全身の毛が逆立つような感覚を味わった。とてつもない恐怖の舌に、全身の肌を弄られるような。
視界の先が揺れる。違う、これは足元の大地が震えているのだ。続いて、どこかの建物が捻じれ、軋んで崩れる音が響く。
ラティエースは咄嗟にエレノアを引き倒し、被さるようにして身をかがめた。同じように、エレノアはアマリアを身を挺して覆う。礼拝堂の椅子の下は少しだけ空洞になっていた。ラティエースは、エレノアとアマリアをそこに押し込む。揺れはしばらくつづいた。五分なのか三十分なのか時間の感覚すらわからない
「揺れが収まったら、少し様子を見てろ。ここが一番頑丈だと思うが、他によさげな場所があったらそっちに避難してくれ」
「ちょっ、ラティは?」とアマリア。
「わたしは、少し様子を見てくる」
恐慌状態の礼拝堂を見回しながら、ラティエースは固い声で言った。
「馬鹿なことを言わないで!」
エレノアが強く腕を引き、ラティエースも椅子の下に引きずり込もうとする。それをもう片方の空いている手で押さえ込んだ。
「大丈夫、無茶はしない。だが、状況把握はした方がいい」
「あなたがする必要はないでしょう」
「動けそうなのは、わたしくらいだ」
この世界で地震は基本的に起こらない。起こった時はすべて歴史の項目の一つになっている。天変地異と同じ位大事なのだ。だから、人々はパニックから抜け出せないし、今頃になって祈る人もいる。
「でも……」
「必ず戻るから」
子どもに言い聞かせるようにラティエースが優し気に言う。エレノアは下唇を噛み、俯いて何かに耐えるように震える。しばらくは腕の力を緩めなかった。
再度、大きな揺れが周囲を襲い、悲鳴や助けを求める声が響き渡る。幸い、此処は頑丈な作りのようで小粒の石がパラパラと落ちてくるくらいで、倒壊の気配はなさそうであった。
「……分かったわ」
ようやく、エレノアはラティエースの腕を開放した。
ラティエースはエレノアの肩を軽く叩いてから立ち上がる。踵を返し、駆け出して行った。
「エレノア……」
エレノアに抱きかかえられるようにしてアマリアは守られていた。
「もう少し様子を見て、問題なさそうなら、此処の門を開けて、負傷者を運び入れましょう。ミルカ王女殿下の様子も確認しないと」
「うっ、うん……」
エレノアはアマリアを抱きしめる腕に力を込めた。
(今、駆けて行ったのはラティか?)
呼び止める間もなく、ラティエースと思しき人影が横切っていった。
ラティエースたちがいたのは、主祭壇から3列目か4列目あたりだったはずだ。対して、王族や貴族は、内陣と袖廊の中央交差部より後ろ、身廊と呼ばれる場所に席が設けられていた。ラティエースは身廊の間に作られた通路を、扉口に向かって走って行ったのだ。
アレックスは思わず追いかけようと衝動に突き動かされるが、ブルーノの腕がそれを許さない。ブルーノはアレックスの肩をつかみ、護衛官のようにして彼を守りつつ、周囲の者と様子をうかがっている。ラティエースには気づかなかったようだ。
「一体、何が……」
ミルカを抱きかかえるようにして言ったのは、秘書官兼護衛官のエントと言う青年であった。
「分かりません」
ブルーノは言った。
「エント。ラティ姉さまたちの安全を」
ミルカの声は恐怖で震えていたものの、王女としての矜持か、毅然とした態度を示そうと、必死に取り繕うとしていた。
「しかし……」
「よろしければ、僕がミルカ王女殿下をお守りします。姉のことですので他人ごとではないんです。僕からもお願いできませんでしょうか」
ミルカはブルーノの物言いが気に入らないのか、ムッと眉根を寄せるがお互いラティエースの安否を知りたいと思う気持ちが同じだ。ここで反目しあっても仕方がない。今は非常事態なのだから。
「お願いよ、エント」
「分かりました。ブルーノ侯爵令息。わが王女をくれぐれもお願いいたします」
「命に代えてもお守りします」
エントはブルーノに頷き返し、身をかがめたまま移動する。側廊の空間に出たところで立ち上がり、出口とは反対の内陣に向かって走り出した。
「ミルカ王女殿下。狭いでしょうが僕とアレックスの間にいてください」
「ええ……」
「姉ならきっと大丈夫です。むしろ、こういう時ほど強いので」
「それは分かっているのですが……」
それでもなお心配するのは、それだけミルカにとってラティエースは大事な人なのだろう。ミルカの様子は、ブルーノにとって姉の人柄を知ることができ、嬉しかった。ミルカはこんなにも姉のことを大切に思ってくれているのだ、と。
ん?、とアレックスが首をかしげる。「なんだよ」とブルーノが訊ねた。
「いや、ラティならさっき、外に出て行ったぞ」
「はっ?」
「えっ?」
ブルーノ、ミルカは同時に瞠目した。
そして、同時にアレックスにつかみかかった。
敵対勢力による攻撃だろうか。天から巨大な鉄槌を加えたような衝撃と破壊。このような攻撃を行える国は、一つだ。大砲でも、投石器でもない。
(魔法だ……)
レンは、教皇が祈りを捧げ、聖女召喚を執り行う廟に向かっていた。
しかし、魔法の気配は全く感じられない。とすると、攻撃ではなく、内部で起こった異変と言うことになる。聖女召喚に伴うリスクのうちの一つと思えば、それはそれで納得できる。
(なんだ、あれは……)
土煙の向こうの空は、「天使の梯子」と呼ばれる現象が起こっていた。ちょうど廟があるあたりだ。雲の隙間から太陽の光が差し、それが柱や筋のように見える現象のことである。幻想的で、奇跡の前触れのように感じられるが、その周囲では風が逆巻き、地響きが起き、足元には散乱した石や木材が押し寄せている。
「レン!!」
聞き覚えのある声に、レンは振り返る。
「ラティ!」
「一体、何が……」
「分からない。まずは教皇聖下の身の安全を確認に行く。ついてきてよ」
「分かった」
ラティエースはレンと並んで駆ける。その間にお互いの情報を交換した。
「礼拝堂の人間は無事だ。あそこはしっかりとした作りになっていたようだ」
「そう、よかった」
天罰官たちは、枢機卿たちとともに教皇が廟に籠るのを見届けて、立ち去らなければならない。廟の前にある門前には、門番として天罰官が二人立つ以外は、招待客や信徒と共に礼拝堂で祈りをささげる。その矢先の出来事であった。レンはとりもなさず廟へ駆け出していた。
「……何で?」
えっ、とレンは当惑する。質問の意味が分からない。
「何で、真っ先に廟なのさ」
ああ、とレンは得心がいく。さすがはラティエースだ。レンのことをよくわかっている。被害の規模やけが人を気にするではなく、まずは廟の教皇の安否を優先する。
「そりゃ、門番以外で僕が一番乗りしたら、教皇聖下の覚えめでたく、史上最年少枢機卿になれるでしょう?」
ラティエースは満足げに頷き、レンも晴れやかな笑顔で返す。
ラティエースは右手の親指を立て応じた。そのまま手をひねり、親指を下に向ける。そうしてから、手を引っ込めた。
絶対にこんな奴を枢機卿にしてなるものか。そう心の中で強く決意した。
土埃や汚水の臭いに顔を顰めつつ、ラティエースたちは廟へ向かった。隔壁だけでなく、大小さまざまな建物も倒壊していた。法服姿の信徒たちが、崩れた建物から人を引きずり出したりして、救出作業をしているその横をラティエースたちは通って進む。歩道や石畳には亀裂が入り、廟に向かうにつれ被害が大きくなっていた。やはり、異常の発生源は廟からのようだ。
地鳴りは当初より小さくなっていた。その代わりに、人々の助けを求める声や悲鳴が代わりに耳に入ってくる、礼拝堂が救護室になっているらしい、と誰かが叫んでいた。
廟の門は完全に崩壊し、横倒しになって道をふさいでいた。仕方がないのでその横の壁をよじ登って廟のある区画に足を踏み入れる。
不気味な静けさが、そこにはあった。
廟は跡形もなく、がれきの山に化していた。土砂と瓦礫が小さな山を作っていた。その山の傍らに、額に血を流す教皇の姿あった。
「聖下!!」
レンは駆け寄り、教皇を抱き起す。「ううっ」と呻き声をあげている。どうやら思ったほど重症ではないらしい。
「レ……ン。余は、余は、成し遂げたぞ‥…」
言って、教皇はフッと力を抜き、そのまま意識を飛ばしてしまった。
「レン、あれ……」
入れ替わるようにして、ラティエースがレンを呼びかける。ラティエースは傍らに立ち、がれきの山を指さしていた。
そこには、天使の梯子と呼ばれる光が差し込んでいた。その上に、小さな人影があった。陽炎が揺らぎ、人影が実体となる。
子どもはぼんやりとたたずんでいた。ただ眼を真ん丸としたまま正面を向き、そのまま視線を下に降ろす。自分を仰ぎ見る見知らぬ大人たちが視界に広がった。見たことのない服を着た大人たちが、ジッと自分を見ている。
「ここ、どこ……?」




