トリップ ~綾瀬~
~回想 綾瀬~
「ここのサークルが『トリップ』させてくれるの」
そう言って使われていなかった倉庫を改造したこの部室、いや部室の名づけていいこの誇りっぽい倉庫に一人の女性がやってきた。
細い体に、真っ白な肌。元々大きい瞳を増すからで更に大きく見せていた。化粧が派手なのに、髪は真っ黒でまっすぐだった。肩に届かないその黒髪がさらりと風に吹かれた時に甘酸っぱい匂いにこの埃っぽい世界が一気に光に照らされたみたいに感じた。
そう、私にとって綾瀬は初めから特別だった。そして、何か綾瀬を見るたびに頭が、いや、体中が砕けそうに痛くなった。
今までこの「エンジェルミスト」は口コミだけで広まっていっていた。そう、少しの危険と味わったことのない冒険。今まで経験できなかった快感と恐怖。それが体験できるという事で秘密裏に結成されたサークルは知れ渡っていった。ただ、一回だけの人が多かった。あの最後の苦しさ、覚醒する時の苦しさを嫌う人が多いから。
だが、訪れた中で綾瀬ほど世界を一瞬で変えた人はいなかった。
そう、『綾瀬』だけは違っていたんだ。それを更に感じたのは煮沸した注射器と、エタノールをしみこませたガーゼを用意した時、はじめて気がついた。この『綾瀬』の腕が傷だらけだと。
リストカット。
いや、手首だけじゃない。ひじまでのところ全てに傷がある。はじめ見たときに聞こうと思った。だが、なんて聞いていいのかわからなかった。それに、この「エンジェルミスト」に来る人はみんな心に何かを抱えていた。知られたくない事だって多いだろう。私は聞きたいという欲望よりも相手を尊重して話してくれるまで何も聞かないという選択を取っていた。私だって聞かれない限り自分のことなんて話したくもないから。
私の思いをよそに『綾瀬』はずっとハイテンションだった。どこかに影があるようにも見えなかったし、普通の女子大生という感じにしか見えなかった。ただ、腕にある無数の傷が普通ではないことだけが痛いほど私に突きつけていた。そう、傷にはここ最近できたのだろうか、まだかさぶたになったばかりのものもあった。白い肌にその赤い傷跡は、傷はどこか印象的だった。
ハイテンションな綾瀬が、思考の渦にいる私を引っ張り出した。その透き通る声で。
「あのね、これ打ってトリップするのは良いんだけれど、後でトリップしている時の自分がどうだったのか知りたいの。だから、ビデオで撮っていて欲しいの。それと、どうせするならこんなさびれた倉庫じゃなくて、もっと楽しいところでしようよ」
「綾瀬」はそう言って、近くのカラオケボックスにいった。そう、私と綾瀬とあたるとで。カラオケでトリップするなんて今まで考えたことすらなかった。
カラオケにつくと、「綾瀬」はノリノリで歌い始めた。戸川純、Cocco、ラルク。歌う曲に共通点は見出せなかった。ただ、イスの上に立って、騒いで歌っている「綾瀬」と共に、ノリノリになっている自分がわかった。普段はこんなテンションになんてならない。あたるだってそうだ。いつもは引っ込み事案で自分から感情を外に出さないのにテンションがあがって、叫んでいた。なんだかこう一瞬で雰囲気を変える。そういう能力が「綾瀬」にはあるのかも知れない。確かにこうやって騒いでいたら楽しいかも知れない。やっている事は非常にダークな事。逃げているだけのこと。そう思っていた。少なくても、私は。
でも、楽しんでからこの「エンジェルミスト」を使用するのもいいのかも知れない。
そう思うようになった。ある程度歌って
「そろそろしない?」
綾瀬がそういって、一人ずつトリップしていくことになった。実験室以外で行うから、事前に煮沸して消毒した注射器と、未使用の注射針を用意してきた。後、「エンジェルミスト」は試験管に取り出してきておいた。注射しやすいように生理食塩水と共に試験管に入れたんだ。
誰の分かもわかるようにラベルもはっておいた。そうでないと困るからだ。そう、私にとっては。
まずははじめての「綾瀬」からだトリップをすることになった。
ちょっと緊張している綾瀬の腕に消毒用のガーゼを押し付ける。注射することにも慣れてきた。実習で練習もしたし、その後も何人にも「エンジェルミスト」を注射してきた。
慣れているのに、どうしてか緊張してしまった・
「どうしたの」
あたるが覗き込んでくる。自分にとっても解らない感情だった。何度もしていることなのに、この時は変に緊張をした。
「いつもと場所が違うからかな」
私はそれっぽく言って、「綾瀬」に投与した。エンジェルミストを。
「何もかわらなくない?」
そういってくる綾瀬。確かに人それぞれトリップまでの時間はかかる。でも、確実に起きる1分間のトリップ。次第に目の焦点が定まらなくなり、呼吸回数が減ってくる。トリップの始まりだ。しばらくの静寂。そして、覚醒。
「綾瀬」の呼吸の乱れから戻ってきたのが良く解る。
「大丈夫ですか?」
私はもう何度もこのセリフを言ってきた。
みんなこの覚醒の時の苦痛があるからこそ、二度目をしたがらない。
よほど、今の世界に嫌気がさしていない限り。だから私も、あたるも中毒になっている。この「トリップ」に。
「綾瀬」は驚くほど目が輝いていた。
「私見たの。空を飛んでいるの。見たことがないくらい星のある夜空よ。まるでピーターパンにどこかに連れて行ってもらったみたい。上も下もわからないぐらいに飛び回っていた。そして、大きな光に向かっていっていたの。その暖かい、優しい光に向かって飛んでいたのに、連れ戻されちゃった。短いわ。1分間なんて」
そう、「綾瀬」も同じだった。この「エンジェルミスト」を使うと、なんだかすごく優しい光を感じる。そして、その光に向かって自分が動き始める。一体あの光の先に何があるというのだ。
感動し続けている横であたるが「トリップ」した。あたるもまた感動している。何度体験してもいいものだ。そして、私。
だが、私はそのとき一つの間違いを犯してしまった。
いつもは0.001mgしか入れないのに、少し多く入れてしまった。0.002mgそう、2分間のトリップだ。それは、大きなこのサークル「エンジェルミスト」の大きな変貌を遂げるキッカケでもあった。大きな音。
「なにかの声が聞こえる」
そうだ、起きなくては。私はそして、起きた。いつもひたひたっとやってくる現実に。社会人としてのこの世界に。




