7
「そろそろ聞いてもいいか?」
再び体力を取り戻し始めたある日、いつものように秘薬を打ってくれた彼女に、俺は尋ねた。
アリシアは、腕に入り込んだ注射器の針を見つめながら、少しだけ微笑んだようだった。明かりが十分でないため、影の差す顔には危険な香りが怖いほど備わっていた。
「だから、もう聞いていると思う」
「俺の血統、変わったんだよな?」
その質問に、アリシアは注射器をベッドの脇に置いてから、ようやくこちらに、その銀色の視線を向けた。
相変わらずの、無垢な少女のような顔立ち。
しかし、ほんの僅かだが、何かを試すような挑戦的な視線を感じた。
「ええ」
「何の血統に変えた?」
「貴方の血統に」
妙に哲学的な台詞だが、そこで彼女ははぐらかすように微笑む。
「人間の分類によれば、魔物は大きく7つの系統に分けられる。つまり、魔物の血から生まれた魔性血統もまた、大きく分ければ7種類ということよね?」
「ああ」
すぐに頷く。それくらい、まさに常識中の常識だ。
「まず、魔王を筆頭とする【魔族種】がひとつ。ただし、これは絶対数がかなり少ない。それから、【魔蟲種】【樹魔種】【魔獣種】【海魔種】と呼ばれる4種。これらは、この世界に元々いた生物達を、魔族が魔性血統で改造して生まれた種だと言われている。そして、残るは【異形種】と【造兵種】の2種類。こちらは、元々無生物だった物を、魔性金属の機能で自律性を与えたもの。人類の大半には、後半6種のうちのどれかが、優性血統として覚醒している。以前の貴方も、もちろんそうだった」
「ああ」
「ただし、前にも言った気がするけれど、どんな人間であれ、ただ1種類の血統だけが流れているわけじゃない。本当はもっと多くの血統が複雑な配合で流れているけれど、たまたまその中で最も優勢な血統によって、覚醒する能力が決まるというだけのこと。他の血は何ら能力を発現させないけれど、だからと言って死んでいるわけじゃない。パートナーによっては、残した子供の方に、隠れていた血統が目覚めることは多々ある」
「それは分かるが……」
その言葉には、多少苛立ちが混じっていたかもしれない。それに自分で気付いて、多少決まりの悪い顔をしていると、アリシアはクスリと笑った。やはりこの辺りも、少女がするような表情ではない。
「ええ、ごめんなさい。だけど、もう本題に入るから……。要するに、今の貴方の血統は、そういう一般的な物じゃないということが言いたかったの」
「だから、結局、どの血統なんだ?」
「どれでもない」
酷くあっさりとした彼女の答え。
さすがに、全く意味が分からない。
ところが、アリシアはそこで、ぞっとするような薄い笑みに変わった。
「貴方の血統は、いわば全てが陰性。どの能力も発現しない。全ての魔性金属が、ほぼ平等なバランスを保つような、均衡の状態を志向してデザインされた血統なの」
「……何もない?」
「ええ」
愕然とした。
能力がない。
何もない。
それはつまり──
本当に、能無しということか。
能無し。
能無しだと?
前は、薄い血統なりにも、ちゃんとした能力があったのだ。火傷や病気への耐性、多少恵まれた体力といった、派手さはないが、多少は有用な能力があった。そのお陰で、あの屍の沼に立ち入ることもできたのだ。
それが、今は、そんな些細な能力すらない。
もちろん、ショックだった。
彼女の言葉の続きを聞くまでは。
「普段はね」
「……普段は?」
「そう」
アリシアはあからさまににっこりと微笑む。その表情は余裕に満ち溢れていて、貴婦人の風格さえ感じさせる。
「結論から言ってしまえば、貴方の能力は、大きく分けて2種類ある。それぞれ、攻撃用と防御用。最強の矛と最強の盾。分かりやすいでしょう?」
その言葉は、さっきの無能宣言と矛盾してないだろうか。
どうリアクションしていいのか、判断できずに戸惑うこちらを置いてきぼりに、彼女は不意に体を前傾させて、こちらの瞳を上目遣いに覗き込む。
淡い銀色の、神秘的な光を宿す、大ぶりな瞳。
まさに月のよう。
もちろん、綺麗だ。
ところが、その瞳に見入られてすぐのこと。
突然、その銀の光がぐにゃりと曲がった気がした。
そして、その直後。
脳が裂けるような痛みが、こめかみの奥から眉間を貫いた。
「つぅ──!?」
思わず両手で頭を押さえる。
うねる。
何かがうねっている。
頭蓋骨の表面に、ミミズのような細長い生き物が暴れ回っているような、そんな感触。頭の中を這いずり回る何かに、血管や神経を強引に寸断されていくような、そんな激痛。
しばらく頭を押さえているうちに、その暴れるような痛みはなんとか引いたが、ズキンズキンという鈍い痛みが、その後も尾を引いた。
顔をしかめながらも、なんとかアリシアの表情に視線を戻す。
彼女はこちらをじっと見つめていたらしい。しかし、こちらと目が合うなり、口元だけの澄ました笑みを見せた。
「今更だけど、私の能力、知っているでしょう?」
「……あんたの?」
「あら、知らない? だけど、幻月のアリステシアは幻惑と魅了の操り手だって、聞いたことくらいはあるんじゃない?」
「それは、あるけど……」
話の繋がりが分からないでいると、彼女は自分の銀の瞳を指で示した。
「さっきのが、いわゆる『魔眼』の能力。目が合った相手の視界を歪めて、幻惑させる。精神耐性のない相手が受ければ、即座に昏倒させられるくらいの威力がある」
「いや、俺、昏倒してないよな?」
「だから、それが貴方の、最強の盾というわけ」
彼女は指を下ろすと、再びじっとこちらを見据える。また魔眼を使われるのかと、一瞬身構えたが、今度はそんな兆候はなかった。
そして、そのままの姿勢で、彼女は言った。
「毒でも酸でも、幻惑でも支配でも、貴方の体は、その脅威の全てを受け付けない。あらゆる状態異常を、全てキャンセルできる。それが貴方に流れる血統の、特徴のひとつ」
「……マジで?」
無能どころじゃない。
比較的防御面で優秀とされる【樹魔種】や【異形種】でも、そんな滅茶苦茶な耐性を持つ者はいないはず。とんでもない高性能だ。
しかし、当然というべきか、その話にはちゃんと裏があった。
「ただし、痛いけれどね」
「……痛い?」
「そう」
彼女は少しだけ微笑んだ。ただし、その銀の瞳は全く微笑んでいない。まるで人形に見据えられているような、冷淡な視線だった。
「要するに、それがその耐性を得る代償というわけ。貴方の血統は、普段は全てが平等に均衡を保っている。だけど、何らかの脅威に晒された時は、その刺激によって、有効な耐性を持つ血統が眠りから醒める。他の血統よりも、少しだけ優位になって、一時的に能力を発現させるというわけ。専門的な用語で言えば『励起』ね」
「励起……」
難しい言葉だが、独学で勉強していた頃、何度か調べたことがあったので、多少はイメージできた。軟らかい言葉で表現するなら、やはり『目覚める』が近い。
「励起した魔性金属によって、貴方の体は脅威から守られる。ただし、当然ながら、周りの金属も黙っていない。すぐに以前の平衡状態に戻そうとする。それがつまり──」
「拒絶反応か」
アリシアは頷いた。妙に嬉しそうだが、その感情はよく分からない。
しかし、また、拒絶反応か──
どうりで、懐かしい痛みだと思った。
ようやく痛みが消えた頭を、髪の上から撫でる。それから息を吐くと、だいぶ落ち着きが戻り、彼女の説明も受け入れ易くなってきた。
「そういう意味でも、その血統は貴方専用なの。例え状態異常がキャンセルできても、拒絶反応の痛みに耐えきれずに死んでしまったら、意味がないでしょう?」
「だけど、さっきみたいにいちいち苦しんでたら、戦闘どころじゃないだろ?」
「あら、それは大丈夫」
アリシアはにっこり微笑む。
「魔性金属の励起具合は、刺激の大きさによって決まる。さっきあれだけ痛んだのは、私の魔眼がそれだけ強力だから。あれほど上位の精神攻撃、それこそ魔王にでも会わないと、お目にかかることはないんじゃないかしら」
なるほど。
要するに、その辺の雑多な奴の攻撃では、それほど大きな痛みにはならないらしい。特殊攻撃には、魔眼のような精神攻撃の他に、酸や毒といった物理的なものもあるので、その辺りは経験してみないと分からないが。
「あと、攻撃の方だけど」
いつの間にか、やや浮かない表情に変わっていたアリシアが、こちらを見つめながら切り出す。
「説明が少し面倒なのよね。まあ、最終的には、地道に訓練して慣れて貰うしかないから、とりあえず、今は言われるままにやってみて」
またよく分からないが、とりあえず頷いておく。
「まず、右手に意識を集中して」
「……意識を集中?」
「抽象的なのは分かってる。だけど、なんとなくでいいから、とりあえずやってみて」
仕方ないので、右手を少し前に出して、やってみた。
しかし──
意識を集中って。
何ぞや。
どこぞの手品師に騙されている気分だ。
当たり前だが、しばらくそうしていたところで、右手にも体にも変化はない。
本当にできているのかどうか、謎でしかなかった。
「なんとなく、熱くなってきた感じがしない?」
「さあ……」
「じゃあ、熱くなるまでやって」
「無茶言うな」
思わずそうツッコむと、彼女が不満げに頬を膨らませる。その仕草が可笑しくて、少し笑ってしまった。
ところが、その弾みで右手を軽く握った瞬間だった。
手の平が急に燃えるように熱くなる。
そして、その拳の中から漆黒の炎が突然上がり、ゆらゆらと揺れ始める。
もちろん戸惑った。
戸惑ったが、それもすぐに興奮に変わっていった。
これか。
これが特殊攻撃ってやつか。
何せ、こういう能力は、結構濃い血統がないと使えないことが多い。魔狩の間では、一種のステータスでもある。
ただ──
「熱っ! 熱いって!」
これも当たり前だが、結構熱かった。
その熱さのあまり、右手を振ったり握ったりしているうちに、その黒い炎はあっさり消えた。しかし、それでもまだ、火傷のようなじんじんとした痛みは消えない。最強の耐性はどこへ行ったんだと訝しんだが、いざ手を見てみると、火傷のような跡はこれっぽっちもなかったので、また戸惑うことになった。
そして、その姿が余程可笑しかったのか、目の前に座るアリシアが、クスクスと笑い出す。
自分が憮然としているのを認識しながらも、何とか平静を保って尋ねた。
「さっきのチンケな炎が、最強の矛なのか?」
彼女は笑いを堪えるように唇を噛んで、すぐに頷く。
「ええ、そう。だけど、もちろん、ただの炎じゃない。あの黒い炎を出せるのは、魔王の中でもほんの一握り」
「……マジ?」
「ええ。私にも無理。だから、教えるのに自信がなかったわけなんだけど、貴方は簡単にやってみせたから、やっぱり才能があったのかしらね」
才能と言われても、よく分からない。少なくとも、自分に才能があると思ったことは一度もないのだから。
そこでアリシアは、不意に軽く首を傾げた。
「あの黒色は、簡単に言えば、炎色反応。聞いたことある?」
「ああ」
「金属によって、晒した炎の色が変わる現象。ただし、さっきの炎は、いわゆる通常の燃焼反応じゃない。何故なら、魔性金属は酸化しないから。つまり、普通の方法では、燃えないってことね」
俺は黙っていたが、驚きを隠せなかった。
つまり、さっきの炎は、魔性金属から出た炎だということだろうか。
馬鹿な。
魔性金属を応用した道具、つまり『魔具』なら、幾らでもある。しかし、魔性金属そのものを加工する技術というのは聞いたことがない。魔性金属は水に溶けないし、燃えないし、腐ることもない。他の種類の魔性金属に変換することは、絶対に不可能と言われている。それができないからこそ、魔物から金属を抽出する魔狩という職業が成り立っているわけで、その前提があってこそ、各魔物の素材、つまりは含まれる魔性金属の価値は決められている。もし自由に魔性金属の種類を変換できたら、そいつは大儲けできるだろう。それがいわゆる錬金術だ。
しかし、驚愕に染まるこちらとは対照的に、アリシアは普段通り微笑みながら、簡単に言ってのけた。
「貴方は、魔性金属を意識的に励起させ、いわゆる高温状態を、ひいては励起状態を作り出すことができる。ただし、もちろん、その能力は、ただの炎を起こすためのものじゃない。その炎が触れた対象に流れる魔性金属も、共振させ励起させることができる。つまり、貴方が知っている、あの拒絶反応の壮絶な苦しみを、相手の体に刻み込むことができるというわけ」
なんてこった。
なんてことを考えるんだ。
ヤバすぎる。
ヤバいほど凶悪な武器だ。この能力は。
たった数秒で、人格が吹き飛ぶとさえ言われるほど、拒絶反応の痛みは壮絶なのだ。
そんなものを。
そんなものを武器にしようというのか。
戦慄が確かに駆け抜ける。
しかし、その直後。
凄いと思った。
本当に凄い。
そうか。
これか。
これが魔王の発想というものか。
「本当に、冗談でも誇張でも、何でもないの」
幻月の魔王は、不敵な微笑みさえ浮かべながら、その続きをいとも簡単に断言する。
「あらゆる耐性が、その力の前では無意味。貴方の能力は、文字通り、他の力とは次元が違う。倒せない敵は存在しないと、断言してもいいほどに」