1
幽鬼みたいな陰鬱な顔をした男が、こちらをじっと睨んでいる。
そいつの風体を一言で表現するなら、ずばり、黒ずくめだろう。くるぶしまで覆うロングコートはもちろん、革製の靴もグローブも黒。髪も瞳も黒。唯一肌が見えている顔だけは、病人か引きこもりのように蒼白だが、その口の右側に、頬を丸ごと抉り出したような禍々しい傷が刻まれている。そして、そこがまた黒い。化膿したまま放置して壊死させたのか、まるでゾンビの一歩手前のような、生気のない枯れた色になっている。
いや。
今のは嘘だ。
傷があるのは、左の頬。
なぜなら、その人間がいるのは鏡の中だから。
要するに、それが俺。
シドの姿だ。
「着替え終わった?」
「ああ」
ノックの後に聞こえてきた怜悧な声に即答してやる。着替え終わったか否かという判断は、実際のところほとんどしていない。今更、彼女に着替えを覗かれたくらいで、動揺するわけもないからだ。
向こうもまた、すぐにドアを開けた。
そちらを向いて確認してみると、いつも通りの、彼女の綺麗な立ち姿が目に飛び込んできた。
彼女もまた漆黒のファッションだが、スマートな体のラインと、柔らかそうなスカートの膨らみが織りなす光の加減が、一種の鮮やかさすら感じさせた。それでいて、同色のストッキングに包まれた細い足と、チョーカーを填められた首元が、どことなく淫靡な香りを漂わせる。
そして、そんな闇夜の衣装に流れ落ちる、星の輝きを閉じこめたような、長い黄金の髪。
月と同じ幻想的な光を纏った白い肌。
小さく慎ましやかで、人形のように端正な、無垢の顔。
さらに、その中で一際目を引くであろう、神秘的な輝きでこちらを射抜く、銀の視線。
その瞳を見る度に、彼女の名前を思い出す。
幻月。
幻月のアリステシア。
その瞬間、少女のように澄ました淡い色の唇が、僅かに綻んだ。
「まあまあ似合ってるんじゃない?」
純粋に褒めているのか、それとも笑いを堪えているのか、珍しく曖昧な表情だった。そういうわけで、そちらに体を完全に向けて、改めて尋ねてみる。
「忌憚のないところを聞かせてくれ」
「そんな評価が必要なの?」
「必要はないが、興味がある」
「いえ、ごめんなさい。本当に、似合ってないわけじゃない。むしろ、思ったよりもその部屋にしっくりきてたから、ちょっと可笑しかっただけ」
そう言って、彼女は部屋の奥に視線を送る。俺もつられて、彼女の視線の後を追った。
確かに、ちょっとした趣味の部屋だ。
何と言っても、まず目に付くのは、これ以上ないというくらい巨大なベッド。10人くらいが雑魚寝できそうなほどの面積がある上、枠や脚といった細部にまで施された装飾も豪奢。ただし、シーツも枕も、仕切りに使われているレースのカーテンも、全てが黒基調。その所々に紅のラインが入るという、明らかに落ち着かない色彩で、敢えて悪夢を見るためにデザインしたとしか思えない。正直、休もうという気配をまるで感じない。
さらに、壁もベッドと同じカラーリング。こういった部屋にありがちな、豪華なシャンデリアですらそう。チェストやクローゼットに至っては、全面真っ黒という徹底ぶり。その上、装飾品である巨大動物達の剥製の首も、真っ黒に塗られ、瞳だけ紅く輝いている。ここまできたら、もはや一種のホラーハウスだろう。
「……ほとんど病気だな」
俺がボソッと感想を漏らすと、扉の外に立ったままのアリシアが、クスクスと笑い出した。
もう一度彼女に視線を戻すと、彼女は笑いを堪えるように唇を噛んで、こちらに微笑む。
「そうね。あいつ、病気なんだと思う」
「そのあいつってのは、今どこにいるんだ?」
「さあ? どうしてそんなことを聞くの?」
「いや……、無断で服を拝借してるわけだし。できるのなら、断っておくべきかと思ってな」
「そんなこと、いちいち気にしなくていいんじゃない?」
そう言ったアリシアは、一歩左足を引いて、ウェイトレスのように前の通路を示す。そちらへ行きましょうという意味らしい。
そんなわけで、さっさとその寝室を後にし、彼女と並んで灰色の通路を進んだ。はっきり言って、名残惜しい感は全くない。
「そういえば……」
ふと思いついたことがあって、彼女の横顔を見る。
彼女はこちらを見なかったが、機嫌は良さそうだった。
「何?」
「さっき、あの部屋に入らなかったよな?」
「ええ」
「案内してくれた時もそうだった。何か理由でもあるのか?」
「一応、殿方の寝室だしね」
一旦はそう答えたものの、すぐに彼女は息を吐き出すように微笑んで、こちらを見上げる。
「……というのは半分くらい冗談で、実は、あいつのことが嫌いなの」
「あいつって、ここを造らせた魔王のことか?」
「そう」
彼女は軽く肩を竦めてから、再び前を向く。
「一時期、あんまりしつこく口説いてくるから、あんたの部屋には死んでも入らないって、はっきり言ってやったのよね。そして、それっきり会ってないから、一応、自分の言葉には責任を持たないとと思って」
いったいどんな関係だったのか、微妙に気になった。
しかし、結局尋ねなかった。聞きたければ聞けばいい。今回はそれほどでもなかったというだけのこと。それよりも、まずはいろいろシミュレートしておきたかった。何の為の準備なのか、自分でもよく分からなかったが。
ただ、その不自然な間を機敏に察知したのか、彼女が悪戯っぽい笑顔で、上目遣いに尋ねてくる。
「もしかして、気になる?」
「いや……」
「あら、そう」
アリシアは意外にもあっさりと視線を逸らしたが、意味深な言葉を付け加えた。
「私が嘘をつくかもしれないしね。一切の嘘も許されないほど、貴方が私を隷従させていれば、別かもしれないけど」
何かの誘惑に聞こえないこともない台詞。
ただ、ちょうどそのタイミングで、彼女が足を止めたので、返事をする機会が失われてしまった。
すぐ脇の扉を彼女が示す。いつものことだが、彼女は自分で開けたがらない。最終的な決断は自分でしろということか、それとも、ドアを開けるのは男の仕事だというポリシーなのか、そのどちらかかもしれない。
その扉は、他の多くとは違い、漆黒に彫刻の刻まれた高級品。同じ扉が使われているのは、自分が見た中では、さっき着替えに使った寝室だけだった。
特に躊躇するでもなく、俺は扉を開ける。
その奥にあったのは──
「へえ……」
思わず溜息が出て行く。
一面が無機質な鋼鉄色。
だが、窮屈さを感じさせない壮大な空間だ。天井は見上げるほど高く、奥行きも相当ある。そして何より、細々とした家具が一切ない。寂しいという印象も確かにあるが、ここまで広いと、贅沢という印象の方が大きくなるようだ。それくらい大きな、鋼鉄の広間だった。
ただ、より詳しい名称があるとすれば、そこは謁見の間。
入ってきた扉のすぐ近くに、やはり鉄色が剥き出しになったままの、堅牢で質素な玉座が設置されているからだ。
「あれ」
アリシアがそんな悪戯っぽい口調で、玉座をちょこんと指さす。
意図がよく読めなかったが、その指示に従って、玉座の前に回り込んでみる。
そして、そこに主の代わりに立て掛けられていた代物に、目を奪われた。
人の背丈に匹敵するほど長く、それでいて優雅さを感じられるほど細い、丸い柄。
その上部から横に突き出すのは、広く長い刃。ただし、ただの一枚刃というわけではなく、半月状のパーツをパズルのように組み合わせたような、不思議な形態をしていた。ある意味で、缶切りに見えないこともない。中央だけ欠けたように大きな空洞が出来ていて、ただの実用品とは思えない、一種の芸術性を感じる。
ただし、その武器の一番の特徴は、柄はもちろん、刀身に至るまで、黒曜石のような上質な黒色だと言うこと。
そう。
漆黒の大鎌。
その得物を使う魔王を、ひとりだけ知っている。
知っているも何も、彼が作った沼地で、死にかけたばかりだ。
確か、名前は灰燼。
灰燼のクロイツ。
玉座に立てかけてあるその武器から、いつの間にか、すぐ後ろに控えて立つアリシアに視線を戻す。
彼女は静かな笑みを浮かべていた。しかし、不思議といつもよりも楽しそうに見える。
「他の武器がないこともないけれど、今の貴方には、それが一番相応しいと思う」
「……いいのか?」
自分でも意味がよく掴めない、曖昧な問いかけだった。この場で彼女に聞きたいいろいろなことが綯い交ぜになって、こんな中途半端な言葉が出来上がってしまったのだ。
しかし、彼女は何の躊躇もなく、クスッと淑やかに微笑んで、その全ての疑念を、たった一言で根こそぎ吹き飛ばしてしまった。
「いいんじゃない?」
そうだ。
ここに案内してくれたのは彼女。
その彼女が、この武器を使って欲しくないなら、そう言っただろうし、それでも信頼できないなら、どこかに隠すことだってできた。
いや──
そんな考察や気遣いなんてもの、今はどうでもいいこと。
自分だ。
自分で決めることだ。
俺が使いたいか。
使いたくないか。
大事なのはそれだけだ。
少しだけその鈍い黒の輝きを見つめる。
結論はすぐに出た。
遠慮するような部分も、引け目を感じるような部分も、全くない。
かつて、灰燼の魔王が振るった武器に、無造作に手を伸ばす。
これが──
これが、何千、何万という人間の命を奪ったと言われる、漆黒の大鎌。
彼が放った死の炎が、あの広大な屍の沼を作り出した。
氷のように冷たい柄を握る。
すると、妙に温かい感触が、その柄の中を流れていく。
血のように。
血が巡るように、その武器とリンクする。
そして、その瞬間。
金属の刃が振動するように擦れ合い、紙切り虫の鳴くような、ギィギィという音が、鎌から聞こえ始める。
さらに、次の瞬間。
刃の空洞に、血走った巨大な目玉が突然現れ、こちらをギョロリと見据えた。
ああ。
なるほど。
感想はそれだけだった。
こういう武器なんだなと、一瞬で理解する。
むしろ、これくらいあってこそ、魔王の武器というものだ。
「気に入った?」
アリシアの問いかけに、自然な仕草で鎌を持ち上げてから振り返る。
相変わらず、可憐な立ち姿。
月の美しさを、夜空の美しさを体現したような、細く華奢で、穏やかで淑やかな、この世で一番高貴な少女。
そんな彼女を、今なら──
新たな力と、新たな武器を手にした今なら。
屈服させられるだろうか。
この、地上で最も価値ある宝を。
俺のものにできるだろうか。
心の奥から、どろりとした何かが染み出し、全身に広がっていく。
侵食。
そう。
何かに侵食されていく。
だが、不快ではない。
そんなわけがない。
むしろ、心地いいくらいだ。
そう。
そうだ。
これでいい。
これが自然というもの。
彼女がそれを望んでいる。
そして、きっと、俺も──
銀の瞳と見つめ合う。
彼女は、その視線にも全く動じない。
僅かに微笑んだだけの、いつもの表情。
すぐに悟った。
諦めの微笑み。
そうか。
そうだな。
駄目だ。
駄目に決まってる。
少なくとも、彼女が望んでいるのは、こんなものじゃない。
もっと。
もっとだ。
彼女の前に立つだけで、あの可憐な顔が心底怯えて、あの綺麗な体から力が抜けて立てなくなるような、圧倒的な何か。
それほどの存在でなければ。
もちろん、人間じゃ無理だ。
それどころか、魔王でも足りない。
それ以上。
さらにその上。
そうでなければ、彼女は満足できない。
そして、俺だって、そんなものでは足りないに決まっている。
だからこそ、俺達は今一緒にいるのかもしれない。
「どうする?」
少女のように可愛らしく、僅かに首を傾げたアリシアが、そう尋ねた。
「ああ……」
生返事をしてから、俺は考える。
どうするか。
今何をすべきか。何がしたいのか。
考える。
手の中の黒い柄を見つめる。
「──とりあえず、こいつを使いこなせるくらいはならないとな」
そうだ。
今の俺はまだ、身体能力はおろか、己の血統でさえ、把握できていない。それに、やはり、強くなるためには実戦経験が必要不可欠。
さらに、最終的には、楽々と魔王を倒せる実力が目標だ。つまり、いつかは魔王と直接戦う経験が必要だろう。アリシアと戦ってもいいが、それはあまり気が進まない。妙な言い方だが、それはメインディッシュだろう。最後の楽しみを台無しにするのはよくない。
そこでふと、気になることがあって、アリシアの顔を見つめた。
「そういえば、他の魔王も、まだ生きてるのか?」
彼女はふっと微笑むと、優雅に左手を開き、奥の両開きの扉を示す。
「せっかくだから、教えておいてあげる。この遺跡の構造と歴史、そして、残念なくらい馬鹿だけど、気持ちがいいくらい自信家な、ここの元主の魔王のことを」




