エピローグ
気が付くと、俺は鋼鉄の部屋に戻っていた。
肌にまとわりつくもやっとした空気と、鼻腔を刺すような鋭い匂い。体の下敷きになっている硬い感触の端からは、体温を奪うほどの冷気を感じるものの、それ以外は鬱陶しいほどに熱い。
寝返りを打って、その湿度の高い熱を追い出したいとは思うものの、しかし体が動かない。ただ1カ所だけ、1段高くなった頭の後ろだけは、同じように熱を感じるものの、柔らかくて心地いい。最高の枕と、最低のベッドで寝ている。そんな不釣り合いなバランス。
すると、不意に俺の額を、誰かの手が撫でた。
優しく前髪をかき分ける。
それだけで、誰の手か分かった。
そして。
たったそれだけで、死の淵からでも蘇ることができる気がした。
しかし、もちろん。
俺は生きている。
顔が勝手に微笑む。
そこで、髪を触っていた彼女の手が止まった。
「──シド?」
「ああ」
悲しげな声。
駄目だ。
そんな声を出すな。
すぐに俺が、笑わせてやる。
目を開ける。
無垢な白い月。
その中で潤む銀色の瞳が、こちらを見下ろしていた。
驚いているようにも、泣いているようにも見える、そんな表情。
だけど。
俺が微笑んでみせると、少し遅れて、彼女も微笑んでくれる。
ああ。
やっぱり、それが一番綺麗だ。
「──元気か?」
何故か、最初に出たのがその問いかけだった。
すると、アリシアは可笑しそうに吹き出して、それから、今度はもっと自然に微笑んでくれた。
「貴方よりはね。もっと、自分のことを心配したら?」
「そうか……、そういえば、また無茶したんだな」
「そう。いったい何を考えてるわけ?」
彼女は怒った顔を作ろうとする。
でも。
それは今にも崩れそうになってしまい、結局、無理矢理笑顔に戻してしまった。
泣きながら、笑っている。
そんな顔。
その白い頬を、綺麗な涙が伝う。
心が痛む。
俺の。
彼女の。
だけど。
この何倍も辛い思いに、彼女はずっと耐えているのだと思えば、これくらい、どうということはなかった。
「アリシア……」
泣くな。
涙を拭うために、彼女の頬に右手を伸ばす。
ところが。
その右腕は、まるでナイフで削り取られたみたいに、所々肉が剥き出しになっていて、全体が血に染まっていた。
そう。
そうだ。
奴との戦いで──
咄嗟に手を引っ込めようとする。こんな汚い手で彼女を汚したくない。特に、あいつの血が混じっているとなると、尚更だ。
だけど。
彼女はその右手をそっと両手で包んで、微笑んでくれた。
「ねえ……、聞かせてくれる?」
「え?」
「私に言いたいことって?」
「ああ……」
思わず息を吐く。
なんだ。
さっきのは、やっぱり夢か。
いや。
待てよ。
もしかしたら、彼女は──
気付くと、彼女は悪戯っぽい笑みに変わっていた。少し懐かしい感じがする、胸をくすぐられるような可愛らしい笑顔。それでいて、見ているだけで癒されるような、慈愛の微笑み。
なるほど。
なるほどな。
聞こえなかったフリかも。
そうかもしれない。
しかし、結局のところ、それを確かめる方法は俺にはない。ここで何をしたって、彼女に口を割らせることはできない。1枚とか2枚どころじゃなくて、1000年以上、彼女の方が上手だ。
でも。
それでもいい。
俺が彼女の手の内にあるとしても、それでも構わない。
一生彼女に適わないままでも、それで辛くなったとしても、後悔はしない。
ただ、俺が生きている間だけは。
俺が傍にいる間だけは。
彼女がひとりで泣くことがないように。
彼女と一緒に未来を見つめていられるように。
その為に。
俺は人間としての死を受け入れ、その別れの恐怖に怯えながら。
しかし、彼女と一緒に。
彼女の魔王としての運命に抗ってみせる。
だから。
「──アリシア」
彼女の優しい手に支えられながら、体を起こした。
そして、見つめ合う。
艶やかに広がる夜色のドレス。
その両側に広がる流星群のような黄金の髪。
無垢な人形のように可憐な顔。
幻月の名を映す、神秘を閉じ込めた銀の瞳。
潤んだ瞳が、僅かに微笑む。
綺麗。
綺麗だ。
世界の誰よりも。
この世で最も美しい月。
それが目の前にある。
そして。
血塗れの右腕を伸ばして、その震える小さな体を、胸に抱き寄せた。
そっと。
決して、壊さないように。
そして、それと同じくらい静かに、精一杯の優しさを含ませるようにして、この愛しい彼女を傷つけないように気をつけながら、もう一度、同じ言葉を囁いた。
「ずっと一緒だ」
「……ええ」
人はいつか、月に辿り着くかもしれない。
何故かそんなことを考えた。
あの金色の輝きに触れるために。
ああでもない、こうでもないと頭を捻って。
もっと高く、もっと強くなければと力を鍛え。
時には、辛い犠牲を出しながら。
時には、無理かもしれないと挫けそうになりながら。
それでも、いつかあの貴き場所に足を踏み入れるかもしれない。
もしその日が来たら。
きっと、思わぬその荒廃ぶりに、刻まれた傷の多さに驚くだろう。
だけど。
そこから振り返って、自分がいた場所をみれば、きっと、そこに何かが見える。
彼女は、それを教えてくれる。
俺達のことを、薄汚れた中にある鈍い輝きを、誰よりも受け止めてくれる。
夜の闇に這い蹲る俺達のことを、当たり前のように照らしてくれる。
だから。
だからこそ、俺は彼女に手を伸ばす。
ずっと。
ずっと。
いつまでも。
あの澄んだ銀色の、染み入るような慈愛の光の優しさを、誰よりも知っているから。




