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魔蝕の血~幻月~  作者: 倉元裕紀
第4章 死地
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1



 不意に大きくなった足音で、シドは目を覚ました。

 しばし呆然。

 所々が赤く染まった金属製のドアを、何も考えずに見つめた。

 生きてる。

 生きている。

 死んでないのか。

 そうか。

 そうか……

 また、夢か。

 夢だったか。

 よかった。

 よかった。

 本当に、よかった。

 何が何だかよく分かっていなかったが、とにかく涙が出るほど嬉しかった。今までの人生で、これほど救われたと思ったことはない。あの最後の場面、彼女の無惨な姿が頭の中に想起される度にその感情は強くなり、ついには涙が頬を伝って流れ出す。

 しかし。

 そこで、扉の向こう側から、うっすらとだが、覚えのある声が聞こえてきた。


「やっぱり駄目か」


 一瞬で感動が消失した。

 奴。

 奴だ。

 あの大男の声。

 それに答えているのは、どうやら、その前に戦った、あのベテランの部下に聞こえた。彼の声はほとんど聞いていないので、確かなことは言えないけれど。


「奥に進めば進むほど、毒の量がハンパないんですよ。あれじゃ、人手が幾らあっても足りません。少なくとも、生身の人間には無理です」

「だが、あの男は奥から生身で出てきたぞ。お前の毒にも、平気な顔をしていた」

「いえ、でも……、そんな、ありえませんよ。何か裏があるに決まってます」

「裏?」

「つまり、毒を回避する特別な方法でもあるのか。或いは、奥への安全な抜け道でもあるのか」

「それをふたりだけが知っていると?」

「はい。だとすれば、他に誰も近付けないわけですから、ある意味どこよりも安全です。身を隠すには最適な場所かもしれません」

「だが、隠れるなら、どこにだって適当な場所があるだろ」

「ですね。逆に言えば、わざわざ危険を承知でこんな場所にいるのは、つまり、それなりの理由があるからだと、考えられないこともないのでは」


 そこでまた沈黙。

 こっちも息が詰まった。やはり、こいつらの狙いは明らかにアリシアだ。つい昨日、いや、もう一昨日かもしれないが、その時逃がした男の話が、既にそんなに広まっているのだろうか。

 まさか。

 そんなわけがない。

 しかし、こいつらが、幻月の血統がこの遺跡にいると知っているのは事実。

 マズい。

 マズ過ぎる。

 俺を殺さなかったのは、彼女の情報を聞き出すためか。十中八九、拷問にかけられる気だ。或いは、囮や取引に使う気かもしれない。まさか、彼女が迂闊にもその話にのってくるとは思えないが、悪夢の光景がどうしてもオーバーラップしてくる。

 そうだ。

 もしものことがあったらどうする。

 逃げる。

 早く逃げなければ。

 意地でも、彼女の足手纏いにだけは──

 だが、そこでそっと立ち上がろうとした時。

 思わず寒気が出た。

 動かない。

 手も。

 足も。

 力を入れても、ただ取り留めもなく震えるだけ。

 まるで。

 まるで。

 骨が粉々になったような──

 視界を下ろした。

 床に投げ出された自分の足を見る。

 一面、血の海。

 そして、まるで鉄槌で潰されたように砕けた膝が、はっきり見えた。

 まさか。

 まさか。

 いや。

 そうか。

 折られている。

 砕かれていると言った方が近い。

 さらに両腕を確認しようとしたが、すぐに無駄だと気付き、止めておいた。

 粉々。

 恐らく、骨を粉々にされている。

 奴なら。

 奴ならやるだろう。

 人の腕を千切り飛ばすような、凶暴な男なら。


「起きたな」


 不意に奴の声が扉の向こうから聞こえた。

 心が一瞬身構えたが、しかし、すぐにどうしようもないことに気付き、抵抗を諦めた。こちらが何もできないようにするための処置が、この四肢粉砕骨折なのだから。

 そして、その言葉の数秒後には、目の前の扉があっさりと開いた。

 ほとんど膝を突くような低い姿勢でそこを潜り抜けた大男が、眼前に仁王立ちする。

 石像のような、起伏の少ない顔。口元こそ微笑んでいたが、細い眼光は無慈悲そのものだ。

 彼の背後に、やはりこの間戦った、彫りの深い色黒男が立っている。前に立つ男に比べれば、子供みたいな体躯に見えるが、それでも十分荒事に向いた体型。やたらポケットの多い迷彩服姿で、こちらをあからさまに睨んでいた。


「よう。気分はどうだ?」


 大男が軽く尋ねてくる。しかし、陽気というわけじゃない。どちらかというと、低く冷たい口調だった。

 ああ。

 そう。

 そうか。

 その声を聞いて、俺は自分の運命を悟る。

 そして、自分がとるべき行動も。


「最悪だな。特に、あんたの不細工な顔が──」


 言い終わるより前に、男の丸太のような足が、こちらの顔面を踏み抜いた。

 鼻の骨が一瞬で砕けるのが分かった。

 その巨大な靴底が顔から離れると、妙に粘り気の多い血液が大量に垂れていく。鼻水やら何やらが混じっているのだろう。

 それでも、俺は顔を上げて男の顔を睨んだ。

 相当高い位置にあるので首が痛い。

 もちろん顔も痛い。

 それどころか、体が痛みを思い出し始めてきたのか、全身を刺すような痛みが遅う。

 でも。

 それでもいい。

 俺は。

 俺は。

 ここで死ぬ。

 だったら、せめて、彼女の足手纏いになる前に死んでやるだけだ。俺を助けるために、誰よりも綺麗な彼女が無惨に汚されるよりは、何億倍もましだ。

 そう。

 そうだ。

 それしかない。

 殺せ。

 早く、殺せ。

 だが。

 彼女は死んでも渡さない。

 こちらの睨むような視線を、無言で見下ろしていた大男だったが、やがて、不意打ちするように、こちらの右肩を踏みつけた。鎖骨が木っ端微塵になる感触が伝わるが、それでも視線を弛めないでいると、次は腹を蹴られ、さらに左足を踏みつけられる。どちらも肉が潰れる湿った音が弾けた、体勢が崩れそうになったが、肩を壁に擦り付けて、なんとか維持した。

 息をするのも、辛くなる。

 震えるような熱い呼吸の合間に、閉じなくなった口からどろりとした何かが垂れていく。

 死。

 死が近い。

 だけど。

 それでもいい。

 またあの悪夢を見るくらいなら。

 殺せ。

 殺せ。

 もっと殴れ。

 もっと蹴れ。

 もっと骨を砕いて、内蔵を潰して、追い込んでみろ。

 しかし。

 その時、開いた扉の向こうが急に慌ただしくなり、突然、同じ迷彩服を着た男が飛び込んできた。一瞬分からなかったが、そいつも昨日戦った、若い方の男だった。


「どうした?」


 大男が振り返ると、その青年は一瞬あからさまに気圧されたが、すぐに何度か頷くようにしながら答えた。


「あ、す、すいません。その、別ルートの方で、他のグループに襲撃を受けてまして、それで、そいつらが案外厄介なもんで、その……」

「俺がいないと、支えきれないってか?」

「いや、その、まあ……」


 直後、瞬く間に繰り出された大男の蹴りが、報告に来た男の体を砲弾のように吹き飛ばした。戸棚のようなものを派手にひっくり返しながら壁に激突したその男は、それでもすぐに立ち上がろうとするが、衝撃で朦朧としているらしく、床に手を突いてふらついている。


「ほんとに、使えねえ野郎ばっかだな」


 胸くそ悪いと言わんばかりの口調で吐き捨てるようにそう言うと、倒れた部下に一瞥もくれることなく、大男は狭いドア枠を屈みながら外に出ていった。

 その後に部下が続き、ドアをしっかり閉めていく。直後に閂がかかるような音がして、再び狭い部屋がしんと静まり返った。

 しばらく待つ。

 足音と気配が去っていくのを確認してから、息を吐いた。

 どうやら、尋問は後回しらしい。

 もっとも、別に幸運というわけでもないが。

 どうせ、この体では戦うことはおろか、歩くこともできない。用事が済んだらまたここに戻ってきて、拷問が始まるだけだ。そして、口を割らなければ、俺はそのまま死ぬだろう。口を割れば、もっと辛いことになる。この運命はもう覆せない。

 何かイレギュラーでもない限り。

 しかし。

 イレギュラーなんて、あって欲しくない。

 そう。

 それが正直な気持ちだった。

 このまま俺が死ねば、彼女に迷惑はかからない。それで満足だ。その結果は、何も間違ってない。馬鹿な俺が自業自得で死んだ。それで何の問題もないことだ。

 それを、たとえば彼女が助けに来るとか、こんな俺の為に危険を冒してやってくるとか、そんなことになれば、それは明らかに間違っている。その結果、彼女が悲惨な目に遭ったりしようものなら、目も当てられない。

 それはおかしい。

 そして恐ろしい。

 死ぬよりも。

 死ぬよりも嫌だ。

 俺の命が消えることよりも、俺のせいで彼女が傷つくことの方が辛い。これはもう、疑いようのない事実だった。今まで見たどんな悪夢よりも、ついさっき見た夢の恐ろしさは桁違いだ。思い出すだけで、心臓が握り潰されそうな予感さえする。

 俺の命は俺だけのもの。

 だから、俺がへまをして消えるのは仕方ない。

 だけど。

 彼女の命は彼女だけのもの。

 だから、俺のミスで彼女が傷つくのは、申し訳がない。

 ああ。

 何だ。

 やっぱり、合ってる。

 これが正しい。

 正しいじゃないか。

 でも。

 だったら、なんで、彼女は、あの時、あんな悲しそうな顔を──

 ただ、俺が無茶をして、俺の命を消しそうになっただけなのに。

 どうして、自分のことみたいに、あんな辛そうな顔をしたのか。

 分からない。

 分からなかった。

 だけど。

 もうすぐ、俺は死ぬ。

 だから、考えてたところで、もう彼女には会えない。

 仕方ない。

 仕方がないな。

 諦めの笑みと共に目を閉じる。

 そして、眠ろうと思った。その理由は、自分でもよく分からない。本当なら、舌を噛み切って死ぬのがいいのだろうが、もはや顎に力を入れることもできない。

 せめて。

 せめて、祈るだけ。

 できるだけ早く、この暗闇のもっと深い場所へ、堕ちますように。



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